黒い聖域

久遠

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決意の徒 第六章・仕手(6)

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 二十数年前、初めて本宮糸を訪れたとき、森岡はそのまま信者となった。
 いや、信者というのは誤解を生じるかもしれない。糸は新興宗教の教祖ではない。若い頃、夫を亡くし、また幼い娘を抱えて自らも死の病に罹ってしまった。娘の将来を憂えた糸は、母の代から信心していた神棚に一心不乱にお祈りをしたという。
――命を助けて頂きましたら、生涯精進を重ね、世のため人のために尽くします。
 と懇願した。
 その祈りが天に通じたのか、糸は奇跡的に命を取り留めた。そこで彼女は、神様との約束通り、慎ましい生活を送りながら、多くの相談者の力になっているのである。
 森岡もその相談者の一人ということである。
 しかし、森岡が神村と縁を結んだとき、
『洋ちゃんはもうおらの手から離れたよ。今後は神村上人に相談しなさい』
 と、糸から言い渡されたのだった。
 神村が大変な高僧だと糸が知っていたことも理由の一つだが、糸の話によると、糸が信心する神様の能力は三千人までというのがもう一つの理由だった。
 本宮糸は島根、鳥取に跨るこの地域を中心に、大変な数の相談者を抱える有名人だったが、その許容人数が三千人ということらしい。
 したがって、数を満たした場合、新規の相談を受けるには、古い相談者あるいは手放しても良い状況になった者を切るしかないのである。森岡は神村という頼れる人物と知り合った。糸にすれば、安心して手離すことのできる相談者というわけであった。
 ただ不確かなことがあった。三千人という数は糸の能力ではなく神様の能力である。そうであれば、その神様は糸一人の信心なのか、他にも信心している者がいるかいないかでは、糸が受け持つ相談者の数は変わるだが、森岡はそこまで問い質してはいなかった。
 それはともかく、糸の話ではその神様は刹那に地球を十周するほどの速さで空を飛び回っているのだという。そうして天空から護るべき三千人の動向をつぶさに観察していて、たとえば横断歩道を歩いていて交通事故に遭いそうな相談者が居れば、すっと降りてきてひょいと横にどかせて死亡を重傷にするのだという。
 高校時代にその話を聞いていた森岡は、奈津美を失ったとき、ほんの束の間だったが、もし自分が糸の相談者のままで、奈津美を糸の神様の相談者にしていれば、彼女は死なずに済んだのではないかと後悔したことがあった。
 しかしすぐに、神村と出会えたからこそ糸は自身を手放したのであり、奈津美とも出会うことができたのだと思い直していた。
「ずいぶんとご活躍のようだね」
 コーヒーを運んで来た光子が意を含んだ口調で言った。
「本意ではありませんが」
 とだけ森岡は答えた。
 糸の前では、大風呂敷も謙遜も通用しないと思っているのだ。
「お上人さんの手助けまでは良かったが、なんとも奇妙なことになったわい」
 糸は声には棘があった。暴力団をはじめとする裏社会との関係を憂えているのである。尚、お上人さんとは、むろん神村正遠のことである。
「成り行き上、仕方なく」
 森岡は弁解がましく言った。
――やはり凄い。何もかも見透かされている。
 森岡は、久々にその神通力に触れ、感動すら覚えた。 
 本宮糸は神村正遠とは少し違っていた。
 神村の神通力も度々目の当たりにしていたが、彼は決して森岡のことについては語らなかった。おそらく神村は、未来については端から見ようとはしなかったのであろう。
 その点、糸は森岡の未来について、問われたことは何事でも答えてくれた。森岡が松江高校に進学したのも糸による「神様のお告げ」があったからである。
 森岡の中学時代の成績では、松江高校の進学は無理とされていた。島根県下全域から秀才が集まる松江高校である。森岡の通っていた中学校では、毎年成績上位者五名から八名が受験し、全員合格していた。島根半島の片田舎の中学校である。中学浪人を出すことなど言語道断で、教員らはまず間違いなく合格する生徒しかしか受験させなかった。
 森岡の順位は十数番だった。十番以内ですら滅多に入ったことがない。担当教諭は、当然如く松江高校より一つランクが下の高校への進学を薦めた。だが、森岡は頑として松江高校への進学を希望した。彼は中学浪人も覚悟していたのである。
 自らの祈祷では合格と出ていたが、何せ可愛い孫の進学である。念には念を入れる意味で、祖母のウメは人伝に聞いていた本宮糸を頼った。
 糸の神様のご託宣は「合格する」というものだった。それを受けて、意を強くしたウメが三者面談のとき、「孫の好きなようにさせて下さい」と主張したものだから、学校側も渋々ながら承諾したのである。
 森岡は合格するどころか、同中学から受験した十名のうち、特進クラスに合格した坂根秀樹に次ぐ好成績で合格し、学級委員長を務めることになったのだった。
 もっとも何事も答えてはくれたが、相談者の求めるもの導き出していたわけではない。
 あくまでも神様のお告げであるから、たとえば「しばらく待て」と言われれば、相談者はそれ以上を問えなかった。
「それで、今日は何の用かい」
「はあ」
 森岡は身を固めて口籠もった。坂根と蒲生は、我が目を疑った。このように縮こまる森岡を初めて見たのだ。神村への畏敬の念とは様子が違っていた。
「実は、お勧めの株を教えて頂きたくやって来ました」
「なんだと」
 糸の声色が変わった。
「何のためだ」
「し、仕手戦に挑もうと思っています」
 森岡が怯むように言った瞬間、糸の面が鬼の形相になった
「この、大馬鹿者が!」
 障子が震えるほどの怒声が響いた。およそ八十歳過ぎの老婆のそれではなかった。
「わしの神さんを何だと思っているか! 神さんのお告げは金儲けのためではないぞ」
「も、申し訳ありません」
 森岡は平身低頭して詫びた。
「そんな用なら、顔も見たくない、すぐ帰れ!」
 糸は捨て台詞を吐くと、隣の部屋に引き籠もってしまった。神棚のある部屋である。すぐに読経の声が聞こえてきた。どうやら、神様に森岡の不敬を詫びているらしい。
「どげしただ。洋ちゃんが金に執着するとは思えないがの」
 光子は訝しげに訊いた。
「どうしても、確実に儲かる銘柄が知りたかったものですから」
「事情が有りそうだの」
 はい、と肯いた森岡は、
「でも、私が間違っていました」
 森岡は光子にも頭を下げた。
「お婆さんを怒らせてしまいましたので、今日はこれで失礼します」
 光子は、申し訳なさそうな顔をして、
「せっかく十数年振りに来たのに、すまなかったね」
 と玄関先まで見送った。

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