黒い聖域

久遠

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決意の徒 第六章・仕手(7)

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「やはり駄目だったか」
 畑の畦道を歩きながら森岡が呟いた。
 道幅は狭く、蒲生が先頭を歩き、坂根、森岡と続き、彼の後ろに統万、宗光の順で従っていた。
「でも、社長がおっしゃっておられた通りのお方でしたね」
 坂根はどこかほっとしたような口調だった。
「あれだけお元気なら、まだまだ大丈夫やろ」
 森岡も怒声を浴びたことなど忘れたかのように応じた。
 そのとき、後方から声が掛かった。
「洋ちゃん、ちょっと待って」
 光子が息を切らして走って来た。
 統万と宗光が、畑に踏み入って道を空けた。
「ほれ、お母さんからだよ」
 そう言って光子はメモのようなものを森岡の手に握らせた。
「これは」
 森岡は首を傾げながら受け受け取った。
「ああ言ってもね。お母さんはずっと洋ちゃんのことを気に掛けておっただよ」
 森岡はメモを開いてみた。
『近畿製薬』
 と記してあった。
 森岡は、株式売買システムが弾き出した売り銘柄の中に、この近畿製薬が名を連ねていたと承知していた。
「ただね、洋ちゃん。値上がりするのかそれとも値下がりするのか、お母さんにもわからんのよ」
「……」
 仔細が飲み込めない森岡に、
「今朝、神さんがいつもと違って何も言われんと銘柄だけを告げられたんだと。だから、お母さんも手を出しておらんのよ」
「そういうことですか」
 と飲み込んだ森岡に、光子は言葉を続けた。
「お母さんはね、洋ちゃんが来ることはわかっていたらしいけど、まさか用件が株のことだとは思っていなかったらしいの。でも、洋ちゃんが株の話を持ち出したので、ああそういうことか、と神さんのご託宣に合点がいったらしいわ」
 光子は言い終えると、優しい笑み零して肯いた。
 森岡は胸が熱くなった。
「わかりました。後はこちらで調べます。お婆さんには宜しくおっしゃって下さい」
 森岡は溢れ出る涙を隠すかのように深々と頭を下げた。

 その後、柿沢康吉からギャルソンの資産運用として三十億円を任され、台湾の林海偉とは、天礼銘茶グループが運用する投資資金の委託契約で合意した。こちらの委託金は三百億円である。
 天礼銘茶の総帥林海偉は、森岡の依頼に対して一千億円を提示したが、森岡の方がこれを断った。仕手戦において、多額の資金が有れば有るほど有利なのは言わずもがなである。ましてや、相手は勅使河原公彦である。林海偉の申し出は、喉から手が出るほど有り難いものだった。
 だがブックメーカー事業を介在して、台湾と中国との水面下の外交関係に首を突っ込みつつある現在、これ以上林海偉に付け込まれないためには、三百億円が限度だと森岡は考えていたのである。
 一方、林海偉にすれば、仮に三百億円を失っても、少しも惜しいとは思っていなかった。世界的大企業の天礼銘茶の総資産は十兆円もあり、そのうち現金性の資産は二兆円を超える。
 その四分の一に当たる五千億円を世界中の株式市場、債券市場、為替相場、原油などの商品先物相場などで運用している。世界に冠たる華僑の情報網をもって、年六パーセント以上の運用利回りを達成していた。つまり、三百億円は一年分の運用利益に過ぎないのだ。
 林海偉は、闇賭博からブックメーカー事業への資金流入は、最大で三十パーセントの三千億円、最低でも十パーセントの一千億円程度と見込んでいた。仮に中間の二千億円だとすれば、広告代理店への分配金は年間百億円になる。
 むろん全額を自由に出来るわけではない。諸経費もあるし、利益は郭銘傑と二分しなければならない。自身の手にはせいぜい年に二十億円程度であろう。三百億円の損失を回収するには、単純計算で十五年という時間が掛かる。
 それでも、林海偉は安いものだと考えていた。単なる額面の三百億円とブックメーカー事業による収益金とは、裏社会及び民衆の人心掌握という点において値打ちの次元が全く異なるからである。たとえ回収に十五年も掛かろうともである。
 一方で、真鍋高志と奥埜清喜には、仔細は打ち明けたものの金銭の助力は願わなかった。二人とも、まだ会社経理の決裁権は有していないし、稟議に掛けても事が事だけに難航することが予想されたからである。
 それでも、森岡が二人に打ち明けたのは、金銭以外の協力を当てにしてのことだった。
 結局、目標の五百億円には届かなかったが、四百三十億円という額は、森岡にとって満足のゆくものだった。

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