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決意の徒 第七章・周到(5)
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一週間後、石飛将夫は井筒孝之からの連絡を受け、幸苑に席を設けた。その動揺した声から、彼の身に何か降り掛かったようだった。
「先輩。前の件ですが、森岡社長さんに話して頂けましたか」
井筒の声には切迫性が感じられた。
「話しはしたが……」
と、石飛は語尾を濁して不首尾を臭わせた。
「駄目でしたか」
井筒は落胆の色を露にした。
「どうかしたんか」
石飛は気遣うように訊いたが、むろん芝居である。森岡の仕掛けた罠に嵌まり、焦っているのが手に取るようにわかっていた。
「実は、困ったことになりました」
と、井筒は深刻な顔で、婚約者の父親から言われたことを話した。
それに寄ると、昔馴染みの祇園のクラブのママが、着物の反物を買い求めにやって来たのだが、その折聞き捨てにできないことを言ったのだという。
「何と言ったんや」
「私が新居のマンション購入を決めた、と言ったらしいのです」
「ん? 別におかしいことはないやろ。結婚するんやろ」
「ええ、でもまだ新居をどうするかは決めていないのです。それを寄りによって、五千万もする高級マンションを買うだなんて、私には無理なのです」
「だったら、デマだと言えば良いじゃないか」
「それができないのです」
「わからんなあ」
「元々、彼女の両親は結婚に掛かる諸費用の一切を持つ、と言ってくていたのです。もし、私には買えないなどと言ったら、それこそ話が蒸し返されてしまい、今度こそ断れなくなります」
石飛は呆れ顔になった。
「君もおかしな男だな。費用を出さないと言っているのではなく、全額出すと言っているのだろう。出して貰えば良いじゃないか」
彼女の両親は、井筒孝之が苦学したことを知っていて、むしろ甘やかされて育っていないと好意的に捉えていたのである。
「私のプライドが許さないのです」
「彼女の両親は、憐れんでいるのではないと思うがな」
「それはわかっています。でも、婿に入るのではありません。あくまでも私は嫁として彼女を貰うのですから……」
「それで、そのママさんとやらの話を認めたのだな」
「仕方なく」
適当なマンションを物色中だと言ったのだという。
「全額、お前が出すのだな」
「いえ、先方の、折半しようというご厚意は受けることにしました」
「頭金にもよるが、半分というと二千数百万円か。銀行でローンを組んだらどうや」
「ローンは組めません」
「なんでや。丸種やったら問題ないやろ」
丸種証券は、大阪証券取引所の一部上場会社だった。
「保証人がいないのです」
井筒は唇を噛んだ。両親は彼が子供のとき離婚していた。親戚とも縁遠く頼れる者がいないというのだ。
「彼女の親では嫌なんだな」
「半額を出して頂き、残りのローンの保証人にまでなって貰ったのでは、結局おんぶにだっこになってしまいます」
「お前も難儀な男やな。折半の提案を受け入れたのなら、全額でもあまり変わらんがな」
石飛は苦笑いをすると、
「それで、どうするつもりや」
と、井筒を覗き込んだ。
井筒は喉の渇きを潤すかのようにグラスを一気に飲み干した。
「私の保証人をお願いしたいのですが」
「俺にか」
「はい」
「それは無理な相談や。俺はまだ定職に就いておらん」
石飛は即座に断った。
「そうでしたね……」
そう言った井筒だったが、表情に落胆の色はなかった。
「先輩、先輩は森岡社長に信頼されているのですよね」
井筒が念を押すように訊く。
「まあ、株式投資を一手に任されているから、ある程度はな」
石飛は自身有り気な顔を向ける。
「でしたら、森岡社長さんに助けて貰えるよう頼んで頂けませんか」
「しかし、お前を担当にして丸種で株を売買したところで、二千数百万の高額ボーナスを手にできるほど手数料は稼げんやろ」
「ですから、その……」
井筒は目を伏せた。
「何や。この際や言うてみい」
「森岡社長さんに保証人になって頂けないかと」
井筒は顔を真っ赤にして俯いた。
うーん、と石飛は唸った。
「いくらなんでも、見ず知らずの他人に保証人は頼めんやろ」
「それはそうですね」
井筒は、今度は明らかに肩を落とした。端から森岡が本命だったのだ。
だが、と石飛が語調を変えた。
「事の次第を打ち明けて頼んだら、保証人ではなく金を貸して貰えるかもしれん」
「え」
「森岡社長は人助けがライフワークのような人だからな」
「本当に……」
井筒の顔が明るくなったが、それも束の間だった。
「でも、保証人がいません」
「それは大丈夫や。俺が保証人になったろ」
「先輩が……?」
先刻、銀行ローンの保証人にはなれないと言ったはずである。
「森岡社長に信頼されているというのは嘘やないし、今は定職に就いていないが、いずれ社長の会社に入る予定なんや」
「では、ではそのようにお願いして頂けませんか。もう他に頼る人がいないのです」
今にも泣き出しそうな井筒に、石飛は心に痛みを覚えた。彼もまた中学時代に父を失い、苦労する母親の背を散々見ていた。同じような境遇に育った井筒を騙すようなことはしなくなかったが、ただ最終的には井筒にとっても悪い話ではない、と自分自身に言い聞かせていた。
「じゃあ、お前から直接頼んでみろ」
「はあ?」
井筒は、瞬時言葉の意味がわからなかった。
「社長は近くにいらっしゃる」
「……」
「お呼びするから、待っていろ」
石飛はそう言い残し、部屋を出て行った。
「先輩。前の件ですが、森岡社長さんに話して頂けましたか」
井筒の声には切迫性が感じられた。
「話しはしたが……」
と、石飛は語尾を濁して不首尾を臭わせた。
「駄目でしたか」
井筒は落胆の色を露にした。
「どうかしたんか」
石飛は気遣うように訊いたが、むろん芝居である。森岡の仕掛けた罠に嵌まり、焦っているのが手に取るようにわかっていた。
「実は、困ったことになりました」
と、井筒は深刻な顔で、婚約者の父親から言われたことを話した。
それに寄ると、昔馴染みの祇園のクラブのママが、着物の反物を買い求めにやって来たのだが、その折聞き捨てにできないことを言ったのだという。
「何と言ったんや」
「私が新居のマンション購入を決めた、と言ったらしいのです」
「ん? 別におかしいことはないやろ。結婚するんやろ」
「ええ、でもまだ新居をどうするかは決めていないのです。それを寄りによって、五千万もする高級マンションを買うだなんて、私には無理なのです」
「だったら、デマだと言えば良いじゃないか」
「それができないのです」
「わからんなあ」
「元々、彼女の両親は結婚に掛かる諸費用の一切を持つ、と言ってくていたのです。もし、私には買えないなどと言ったら、それこそ話が蒸し返されてしまい、今度こそ断れなくなります」
石飛は呆れ顔になった。
「君もおかしな男だな。費用を出さないと言っているのではなく、全額出すと言っているのだろう。出して貰えば良いじゃないか」
彼女の両親は、井筒孝之が苦学したことを知っていて、むしろ甘やかされて育っていないと好意的に捉えていたのである。
「私のプライドが許さないのです」
「彼女の両親は、憐れんでいるのではないと思うがな」
「それはわかっています。でも、婿に入るのではありません。あくまでも私は嫁として彼女を貰うのですから……」
「それで、そのママさんとやらの話を認めたのだな」
「仕方なく」
適当なマンションを物色中だと言ったのだという。
「全額、お前が出すのだな」
「いえ、先方の、折半しようというご厚意は受けることにしました」
「頭金にもよるが、半分というと二千数百万円か。銀行でローンを組んだらどうや」
「ローンは組めません」
「なんでや。丸種やったら問題ないやろ」
丸種証券は、大阪証券取引所の一部上場会社だった。
「保証人がいないのです」
井筒は唇を噛んだ。両親は彼が子供のとき離婚していた。親戚とも縁遠く頼れる者がいないというのだ。
「彼女の親では嫌なんだな」
「半額を出して頂き、残りのローンの保証人にまでなって貰ったのでは、結局おんぶにだっこになってしまいます」
「お前も難儀な男やな。折半の提案を受け入れたのなら、全額でもあまり変わらんがな」
石飛は苦笑いをすると、
「それで、どうするつもりや」
と、井筒を覗き込んだ。
井筒は喉の渇きを潤すかのようにグラスを一気に飲み干した。
「私の保証人をお願いしたいのですが」
「俺にか」
「はい」
「それは無理な相談や。俺はまだ定職に就いておらん」
石飛は即座に断った。
「そうでしたね……」
そう言った井筒だったが、表情に落胆の色はなかった。
「先輩、先輩は森岡社長に信頼されているのですよね」
井筒が念を押すように訊く。
「まあ、株式投資を一手に任されているから、ある程度はな」
石飛は自身有り気な顔を向ける。
「でしたら、森岡社長さんに助けて貰えるよう頼んで頂けませんか」
「しかし、お前を担当にして丸種で株を売買したところで、二千数百万の高額ボーナスを手にできるほど手数料は稼げんやろ」
「ですから、その……」
井筒は目を伏せた。
「何や。この際や言うてみい」
「森岡社長さんに保証人になって頂けないかと」
井筒は顔を真っ赤にして俯いた。
うーん、と石飛は唸った。
「いくらなんでも、見ず知らずの他人に保証人は頼めんやろ」
「それはそうですね」
井筒は、今度は明らかに肩を落とした。端から森岡が本命だったのだ。
だが、と石飛が語調を変えた。
「事の次第を打ち明けて頼んだら、保証人ではなく金を貸して貰えるかもしれん」
「え」
「森岡社長は人助けがライフワークのような人だからな」
「本当に……」
井筒の顔が明るくなったが、それも束の間だった。
「でも、保証人がいません」
「それは大丈夫や。俺が保証人になったろ」
「先輩が……?」
先刻、銀行ローンの保証人にはなれないと言ったはずである。
「森岡社長に信頼されているというのは嘘やないし、今は定職に就いていないが、いずれ社長の会社に入る予定なんや」
「では、ではそのようにお願いして頂けませんか。もう他に頼る人がいないのです」
今にも泣き出しそうな井筒に、石飛は心に痛みを覚えた。彼もまた中学時代に父を失い、苦労する母親の背を散々見ていた。同じような境遇に育った井筒を騙すようなことはしなくなかったが、ただ最終的には井筒にとっても悪い話ではない、と自分自身に言い聞かせていた。
「じゃあ、お前から直接頼んでみろ」
「はあ?」
井筒は、瞬時言葉の意味がわからなかった。
「社長は近くにいらっしゃる」
「……」
「お呼びするから、待っていろ」
石飛はそう言い残し、部屋を出て行った。
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