黒い聖域

久遠

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決意の徒 第七章・周到(6)

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 井筒孝之は大きな動悸を繰り返していた。まさか、森岡当人と会うことになるとは思いもしない展開だった。
 五分後、石飛が森岡を連れて戻って来た。蒲生亮太、足立統万と宗光賢一郎も一緒である。
「私が森岡です。大まかな話は石飛から聞きました」
 森岡は鷹揚に笑いながら、井筒に酌をした。手にしたグラスが震えていた。
「は、初めまして、井筒孝之と申します」
 井筒は緊張の声で自己紹介し、森岡のグラスにビールを注いだ。
「良いでしょう。二千五百万をお貸ししましょう」
 森岡はあっさり言った。
「……」
 井筒は拍子抜けしたような顔をした。
「ただし、条件があります」
 森岡の眼つきが鋭くなった。
「一働きして頂きたい」
「情報をお渡しするのですね」
「うん? どういうことですか」
 森岡は怪訝な顔をした。
「森岡さんは提灯買いをされるのではないのですか」
 井筒は過日の石飛との会話を思い出していた。
――ああ、なるほどそう言う話になっているのか。
 森岡は仔細を飲み込むと、
「いや、それも考えましたが、止めました」
 と如才なく答えた。
「では、私は何を」
「こちらの情報をある人物に流して頂きたい」
 井筒は少し考え込んだ後、
「立国会ですね」
 と勘良く言った。
「そうです」
「しかし……」
 井筒は困惑した顔つきになった。
「ご心配なく、不正な情報を流せとは言いませんから」
「では、どのような」
「私の動向を向こうに伝えて欲しいのです。たとえば、私が手掛ける銘柄とか……」
「はあ……?」
 井筒は間の抜けた声を出した。
 通常の株式売買では、安い値で買い、高い値で売って値鞘を稼ぐのが常道である。逆もあるが、その場合は信用取引になるので、素人には手が出し辛い。いずれにせよ、効率良く値鞘を稼ぐには、なるべく仕込み作業を察知されないように注意を払うのが肝要なのだが、それをわざわざ知らしめるとは愚行にも程があるというものだ。
「まあ、それ以上は追々ということで、今日は大いにやりましょう」
 森岡は井筒に酌をしながら、話しに蓋をするように言った。
 すると、井筒が急にそわそわし始めた。
「どうかしたのか」
 石飛が声を掛けると、
「あのう、森岡さんにもう一つお願いがあるのですが」
 井筒は伏せ目勝ちに言った。
「何ですか」
 森岡はどこまでも柔和である。
「実は……、実は……」
 井筒は何度も言い掛けて口籠もった。
「おいおい、自分から言い出しておいて、それはないだろう」
 石飛が急かすと、ようやく井筒は腹を決めた顔つきになった。
「森岡さんに私の結婚式で出席して頂けないかと……」
 そう言うと、井筒は流れ出る冷たい汗を拭いた。
「いきなり何を言うとるんや」
 石飛が怒ったように言った。それはそうだろう、初対面の相手を自身の結婚式に招待するなど常軌を逸している。
 蒲生、足立、宗光の三人もまた思わず失笑を漏らす中で、ただ一人、当の森岡だけが井筒の心底を見抜いていた。
「お前ら、井筒さんに失礼やぞ」
 柔らかな口調だったが、三人は顔色を無くした。森岡は、善良な人間を小ばかにするような態度が大嫌いなのである。
「承知しました。でも、私一人で良いのですか」
「はあ、ですが他には知り合いがいませんので」
 と肩を落とした井筒に、森岡が微笑む。 
「貴方がその気にさえなれば、味一番の福地社長もどうにかなります」
 と言ったところで、はたと気づいた。
「そうそう、表千家の室町宗匠や、法国寺の久田貫主にも声を掛けられますよ」
 森岡は、マンションあの購入費用に拘る井筒であれば、結婚披露宴の招待客の社会的地位にも拘りを持っていると看破したのである。何と言っても、新婦側は京都の老舗呉服屋の令嬢である。経済人はもちろんだが、宗教人や茶道や華道といった文化人とも知己があるに違いない。
「ま、まさか……」
 井筒はあまりの大物の名の連続に、信じられないという顔をした。
「嘘ではありません。近々社長は、福地社長と共同事業を始められます」
 蒲生の説明にも、
「本当に?」
 井筒は未だ目を丸くしていた。
 森岡が重い口調に変えた。
「ただし、貴方が私たちの同志なることが条件です」
「同志……、とは」
「心を一にして人生の目標に向かう、ことですかね」
「人生の目標、ですか」
 井筒が当惑の顔になった。
「そう難しく考えることはありません。一緒に仕事をし、酒を飲み、遊ぶ。そして困ったときは助け合う。ただそれだけのことです」
「皆さんはそうしていらっしゃるのですか」
「そうですね。私たちは皆、家族のようなものですね」
 足立統万の言葉に石飛、蒲生、宗光の三人が大きく肯く。
「私に丸種を辞めて、森岡さんの許で働けと」
「そこまでは申しません。当面は丸種に居て貰います。その後はゆっくりと相談するということでどうですか」
 そう言った森岡の横で、石飛が険しい表情を浮かべていた。
「実はな、井筒。前に話した森岡社長との因縁だが、俺はある理由から社長を殺そうと、ナイフで刺したことがあるんや」
「……」
 思いも寄らぬ話に、井筒の脳は混乱した。
「ほんま、危ないところだったなあ」
 当の森岡は他人事のように腹を擦っている。
「ある理由とは」
 井筒は恐る恐る聞いた。
「それは、この場では言えんな」
 と明言を避けた石飛は、
「ともかく、理由がどうであれ、森岡社長は俺の蛮行を許して下さったばかりか、こうして仲間として迎え入れて下さる心の広い人やで」
 と、神妙に言った。
 井筒は懸命に思案した。証券業界は不況の真っ只中だった。バブル崩壊後、日経平均は右肩下がりを続け、最近少し持ち直しているが、これとて継続的なものか怪しいものである。
 その点、IT業界はインターネット技術の開花により、時代の華として勢いのある業界である。今後も明るい展望に満ち満ちている。
 今現在、株式市場に賑わいが戻り、日経平均が持ち直しているのも、IT業界の上場ラッシュが起因である。少々、バブルの感も否めないが、社会的要請からしてIT業界の未来は保証されている。しかも、森岡はウイニットに留まらず、新たな事業展開にも乗り出している。
――人生を掛けるのは今かもしれない。
 井筒の心に熱いものが迸った。
「私も仲間に入れて頂けるのですか」
「貴方さえ良ければ……」
 井筒は意を決したような面構えになり、座布団を横に置いて居住まいを正した。
「決めました。宜しくお願いします」
 決然とした口調で言って頭を下げた。
「ありがとう」
 森岡も軽く頭を下げて謝意を表すと、
「そうなると、二千五百万にもう五百万を加えて三千万を支度金として差し上げます」
 事もなさげに言った。
「そ、それはあまりにも……」
 井筒は尻込みをした。
「聞くとことに寄りますと、お母様が入院中とか、何かとお金も掛かるでしょう」
「しかし……」
「統万ではありませんが、家族は助け合うのが当たり前です」
――家族か、本当に家族に加えて貰えるのだな……。
 井筒は胸が熱くなった。
 長い年月、彼には母しかいなかった。その母も近年は病気がちで、経済的にも精神的にも頼ることができなかった。むろん、結婚すれば家族は増えるが、とはいえ眼前の森岡ほど頼りになる男はそうそういるものではない。
「井筒、折角の社長の御好意や、有り難く貰っておけ」
 石飛が言うと、
「大丈夫、その分扱き使われて元を取らされますよ」
 足立が冗談を言って笑った。
「統万の言うとおり、貴方には重要な役回りをして貰わなければなりません。三千万はその報酬の前渡し金だとお考え下さい」
 と、森岡が微笑んだ。

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