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決意の徒 第七章・周到(7)
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石飛将夫は、株式売買システムが弾き出した八銘柄の裏付け調査も行っていた。森岡が考案し、坂根秀樹が開発改良したソフトウェアシステムである。中でも、本宮糸が教えてくれた近畿製薬は丹念に調べた。
教えてくれたといっても、近畿製薬は買いなのか売りなのか、つまり買い材料があるのか売り材料があるのかわからなかった。
会社四季報の業績欄によると、ここ数年減収減益が続き、今季予想も同様の見込みとあった。つまりは売り材料である。事実、株価は七年前に高値を付けた後、右肩下がりとなっていた。
石飛は丸種証券時代に親交のあった、同じ関西の中小証券会社「名越三郎(なごしさぶろう)証券」の株式部長の逸見と会った。
その名の通り、昭和初期に名を轟かせた相場師の名越三郎が創業した証券会社である。かつては、このように姓名をそのまま社名とした会社も多く散見されたが、昨今では社名変更によりめっきり少なくなった。
「お前、丸種を退職した後、音信不通だったが、今は何をやっているんだ」
逸見の顔には不審の色が張り付いていた。
石飛が逸見を呼び出した場所は、言わずと知れた幸苑である。逸見は井筒孝之とは違い、幸苑は何度も暖簾を潜った店だった。
逸見は石飛と同年代で、証券部係長の職にあったバブル時代を謳歌していた。その恩恵により、しばしば幸苑の料理に舌鼓を打つことができた。
しかし、その後の証券不況下にあって、幸苑は高嶺の花となった。その幸苑の女将が石飛を常連客、それも相当に上客のように扱っている。逸見の疑念は、当然と言えば当然であった。
「ある人物の下で働いている」
「誰だ」
「それは勘弁してくれ。話せるときが来たら話す」
わかった、と逸見はあっさり追及を断念すると、
「これ以上は訊かないが、相当の大物らしいな」
石飛の目を見て言った。幸苑の常連はその男なのだと推量したのである。
「それが……」
と言って石飛は首を捻った。
「よくわからないのだ」
「どういうことだ」
「仕事は鬼のようにできる。人脈も唖然とするほど広い。だがな、いま一つ釈然としない」
石飛の正直な気持ちだった。彼にとって、森岡洋介は浜浦での印象が強烈だった。灘屋の総領として世間から一目置かれる存在ではあったが、石飛にとっては、近所の幼馴染で、弟の死に関与していたという記憶の方が鮮明だった。
したがって、森岡の許で仕事をするようになり、彼の実力を目の当たりにしてもピンとこないのである。
「ふーん、嘘ではないようだな」
逸見は、役職こそ違ったが、かつての宿敵であり戦友でもあった石飛の性格を良く知っていた。
「それで、今日は何の用だ」
逸見が本題を促した。
石飛の目に力が籠る。
「あんたにまどろっこしい駆け引きは止めよう。近畿製薬はどうだ」
「どうだ、とは」
逸見は怪訝な顔をした。
「買いか、売りか……」
「なんだと、お前は相場を張るのか……」
と言ったところで、逸見はたと気づいた。
「相場師に付いたのか」
石飛は元証券マンである。相場師の手伝いをしても不思議ではなかった。
ははは……、と石飛は笑い飛ばした。
「そうじゃない。俺のボスは普通の実業家だ。だが、少々株にも興味があるらしく、儲かりそうな株を探せと命じられたのだ」
ともっともらしい嘘を吐いた。
「そういうことか……」
逸見は半信半疑だったが、
「いくらなんでも、近畿製薬に買いはない」
と断言した。
やはりな、と石飛も心の中で頷いた。森岡が考案した株式売買システムでも、売り銘柄として推奨していた。
近畿製薬のここ数年の減収減益にははっきりとした理由があった。
薬害補償である。同社が販売した薬剤により多くの被害者を生んでしまい、補償費用が営業利益を上回っているのである。しかも、その補償はまだ数年先まで続く予定であった。
「近畿製薬なんて、誰も買わないし、カラ売りも妙味はないぞ」
カラ売りとは信用売りのことである。元々の株価が安値なのだから、そこから下がっても多寡が知れているのだ。
「あんたの意見は尊重するが、もっと詳しい情報が欲しいのだがな」
「だったら、業界誌の記者を当ってみろよ」
「誰か知っているか」
「『月間現代医療』の蟹江という男なら詳しい情報を持っているかもしれん」
「紹介してくれるか」
「それは構わんが、近畿製薬はないで」
逸見は駄目を押すように言ったが、
内心では、
――こいつ、まさか買いに回るのでは?
という疑念を抱いていた。
「じゃあ、これはお礼ということで……」
と、石飛は内ポケットから封筒を取り出し、逸見の前に置いた。
「おいおい、幸苑(ここ)で馳走になっただけで十分なのに、小遣いまでくれるのか」
逸見は驚いたように言った。厚みからして五十万円と見られた。
「今後もいろいろ世話になる」
石飛は含みのある笑いをしながら言った。
「そうか、じゃあ遠慮なく」
逸見は無造作に封筒を背広の内ポケットに入れると、
「ところでお前、今はどこに住んでいるんだ」
「決まったところはない。しばらくはホテルを転々とするつもりだ」
石飛将夫が仲間に加わることになったとき、森岡は此度の仕手戦の中心に据えようと考え、当分の間はウイニットに入れずに、住居も定めないことにした。仕手は影を踏ませないことが鉄則だからである。
教えてくれたといっても、近畿製薬は買いなのか売りなのか、つまり買い材料があるのか売り材料があるのかわからなかった。
会社四季報の業績欄によると、ここ数年減収減益が続き、今季予想も同様の見込みとあった。つまりは売り材料である。事実、株価は七年前に高値を付けた後、右肩下がりとなっていた。
石飛は丸種証券時代に親交のあった、同じ関西の中小証券会社「名越三郎(なごしさぶろう)証券」の株式部長の逸見と会った。
その名の通り、昭和初期に名を轟かせた相場師の名越三郎が創業した証券会社である。かつては、このように姓名をそのまま社名とした会社も多く散見されたが、昨今では社名変更によりめっきり少なくなった。
「お前、丸種を退職した後、音信不通だったが、今は何をやっているんだ」
逸見の顔には不審の色が張り付いていた。
石飛が逸見を呼び出した場所は、言わずと知れた幸苑である。逸見は井筒孝之とは違い、幸苑は何度も暖簾を潜った店だった。
逸見は石飛と同年代で、証券部係長の職にあったバブル時代を謳歌していた。その恩恵により、しばしば幸苑の料理に舌鼓を打つことができた。
しかし、その後の証券不況下にあって、幸苑は高嶺の花となった。その幸苑の女将が石飛を常連客、それも相当に上客のように扱っている。逸見の疑念は、当然と言えば当然であった。
「ある人物の下で働いている」
「誰だ」
「それは勘弁してくれ。話せるときが来たら話す」
わかった、と逸見はあっさり追及を断念すると、
「これ以上は訊かないが、相当の大物らしいな」
石飛の目を見て言った。幸苑の常連はその男なのだと推量したのである。
「それが……」
と言って石飛は首を捻った。
「よくわからないのだ」
「どういうことだ」
「仕事は鬼のようにできる。人脈も唖然とするほど広い。だがな、いま一つ釈然としない」
石飛の正直な気持ちだった。彼にとって、森岡洋介は浜浦での印象が強烈だった。灘屋の総領として世間から一目置かれる存在ではあったが、石飛にとっては、近所の幼馴染で、弟の死に関与していたという記憶の方が鮮明だった。
したがって、森岡の許で仕事をするようになり、彼の実力を目の当たりにしてもピンとこないのである。
「ふーん、嘘ではないようだな」
逸見は、役職こそ違ったが、かつての宿敵であり戦友でもあった石飛の性格を良く知っていた。
「それで、今日は何の用だ」
逸見が本題を促した。
石飛の目に力が籠る。
「あんたにまどろっこしい駆け引きは止めよう。近畿製薬はどうだ」
「どうだ、とは」
逸見は怪訝な顔をした。
「買いか、売りか……」
「なんだと、お前は相場を張るのか……」
と言ったところで、逸見はたと気づいた。
「相場師に付いたのか」
石飛は元証券マンである。相場師の手伝いをしても不思議ではなかった。
ははは……、と石飛は笑い飛ばした。
「そうじゃない。俺のボスは普通の実業家だ。だが、少々株にも興味があるらしく、儲かりそうな株を探せと命じられたのだ」
ともっともらしい嘘を吐いた。
「そういうことか……」
逸見は半信半疑だったが、
「いくらなんでも、近畿製薬に買いはない」
と断言した。
やはりな、と石飛も心の中で頷いた。森岡が考案した株式売買システムでも、売り銘柄として推奨していた。
近畿製薬のここ数年の減収減益にははっきりとした理由があった。
薬害補償である。同社が販売した薬剤により多くの被害者を生んでしまい、補償費用が営業利益を上回っているのである。しかも、その補償はまだ数年先まで続く予定であった。
「近畿製薬なんて、誰も買わないし、カラ売りも妙味はないぞ」
カラ売りとは信用売りのことである。元々の株価が安値なのだから、そこから下がっても多寡が知れているのだ。
「あんたの意見は尊重するが、もっと詳しい情報が欲しいのだがな」
「だったら、業界誌の記者を当ってみろよ」
「誰か知っているか」
「『月間現代医療』の蟹江という男なら詳しい情報を持っているかもしれん」
「紹介してくれるか」
「それは構わんが、近畿製薬はないで」
逸見は駄目を押すように言ったが、
内心では、
――こいつ、まさか買いに回るのでは?
という疑念を抱いていた。
「じゃあ、これはお礼ということで……」
と、石飛は内ポケットから封筒を取り出し、逸見の前に置いた。
「おいおい、幸苑(ここ)で馳走になっただけで十分なのに、小遣いまでくれるのか」
逸見は驚いたように言った。厚みからして五十万円と見られた。
「今後もいろいろ世話になる」
石飛は含みのある笑いをしながら言った。
「そうか、じゃあ遠慮なく」
逸見は無造作に封筒を背広の内ポケットに入れると、
「ところでお前、今はどこに住んでいるんだ」
「決まったところはない。しばらくはホテルを転々とするつもりだ」
石飛将夫が仲間に加わることになったとき、森岡は此度の仕手戦の中心に据えようと考え、当分の間はウイニットに入れずに、住居も定めないことにした。仕手は影を踏ませないことが鉄則だからである。
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