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決意の徒 第七章・周到(8)
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それから一時間ほどで二人は幸苑を出た。
石飛は逸見をロンドにも誘い、二時間ほど切り上げた。
タクシーを用意すると言った石飛に、まだ電車がある、と遠慮した逸見だが、実は彼にはある思惑があった。
「また会おう」
と言った石飛に、
「おう」
と方手を挙げ、背を向けて歩き出した逸見は、やがて踵を返し、石飛の後を着けた。
――奴の背後には誰がいるのだ。
逸見は石飛のスポンサーを割り出し、事の次第によっては顧客に情報を与える目算と、自らも提灯を点ける腹積もりがあったのである。
その逸見の後をロンドから出て来た男が着けていた。
石飛は何食わぬ顔で大阪梅田のパリンストンホテルに入って行った。
―しめた!
と、逸見は心の中で両手を叩いた。パリストンホテルの支配人とは昵懇の中だったのである。逸見は支配人を呼び出し、石飛がセミスイートルームを三ヶ月間押さえていること、また一ヶ月毎の精算とし、二百万円の保証金を入れていることも聞き出した。
ホテル側が宿泊客の個人情報の秘密保持を厳守しなくてはならないのは当然である。だが二人は、逸見がバブル時代にこのホテルを良く利用したのを機会に、ときどき有力な情報を流し、儲けの中から幾許かのキャッシュバックを受ける関係にあった。
逸見は石飛を訪ねて来る人物の特定を支配人に依頼し、帰宅の途に着いた。むろん彼は、過度な期待を寄せていたわけではない。訪問客がフロントを通さずに、直接部屋に出向けばどうにもならないし、それが普通だからである。
ところが、翌日の夕方だった。支配人からの連絡を受けた逸見は、石飛将夫を訪ねた人物の名を聞いて驚愕した。
支配人から告げられた名は「峰松重一」だったのである。
当初逸見は、その名を聞いてもピンとこなかった。暴力団が株式や商品相場に手を出していることは知っている。目的はマネーロンダリングである。不正な手段で得た収益を相場を通すことによって、真っ当な金に再生させる資金洗浄だ。
しかし、神栄会は武闘派組織だったので、そのような経済活動はして来なかった。為に、逸見の脳裡に名が浮かばなかったのだった。
――神栄会が資金洗浄として株式相場に手を出すのか? その先兵役を石飛が任された……。
逸見は思わず身震いした。神栄会の寺島会長は、神王組本家の若頭であり、七代目の最有力候補である。峰松重一はその神栄会の若頭である。株式相場など下の者に任せ、いちいち口出しすることはないはずである。それが、自ら石飛の許に足を運んだのだ。容易ならざる仕掛けを施すに違いない。
逸見は、石飛の相場に提灯を点けようと算段していたが、とんでもないことだった。もし、神栄会に気づかれたら――気づかれない自信はあるが――どのような災難が降り掛かるとも知れない。
逸見は、触らぬ神に祟り無し、と退散を決め込んだ。
これは森岡の用心であった。逸見に相談を持ち掛ければ、良からぬ思惑が頭を擡げると推察し、胡麻の蝿を追い払ったのである。
ロンドを出た逸見の後を伊能剛史の部下に着けさせ、パリストンホテルの支配人となにやら密談したとの報告を受け、わざわざフロントに在室を確認したうえで、石飛の部屋を訪ねるよう峰松に願ったのである。彼は、大阪では顔を知られている。フロントマンは大物極道の来訪を支配人に報告していたのだった。
パリストンホテルの一階の喫茶室で、石飛は蟹江という記者と会っていた。蟹江は医療業界誌を発刊している出版会社の記者である。
お互い自己紹介をした後、石飛が本題に入った。
「近畿製薬ですが、何か変わったことはありませんか」
「名越の逸見さんからも伺っていますが、特に何もありません。相変わらず薬害補償で苦しんでいます」
「そうですか……」
石飛は抑揚のない声で言った。
「近畿製薬を手掛けるそうですが、まさか買いじゃないでしょうね」
その声には嘲笑の色が滲んでいた。
石飛は全く意に介することなく、
「まだ近畿製薬に決めたわけではありません。他にも数銘柄候補に挙がっています」
と言った後、顔を突き出し、小声になった。
「ちょっと、やばい筋の金なんで、失敗は許されないんです。ですから、一つ一つ慎重にその業界の情報に明るい人から裏を取っているんです」
「やばい筋とはこれ、ですか」
蟹江は指先で頬をなぞった。
石飛は、そうだとも違うとも答えなかった。
その代わり、
「情報料として十分なお礼はしますから、妙な気を起こさないで下さい」
と恫喝するような目で言った。
「も、もちろんです。そもそも、うちのような安月給では株なんて手が出ませんよ」
「では、引き続き近畿製薬の内部事情を探ってもらえませんか」
「はあ……」
蟹江は気の無い返事をした。近畿製薬には何もない、と思っているからだ。
「これは情報料です」
石飛は封筒を差し出した。封筒は思ったより厚みがあった。なるほど、良い小遣い稼ぎにはなるようだ、と蟹江は内心でほくそ笑んだ。
「ついでで結構ですので、他の製薬会社の情報もお願いします」
石飛は近畿製薬に拘っているのではない、と煙に巻くことを忘れなかった。
石飛は逸見をロンドにも誘い、二時間ほど切り上げた。
タクシーを用意すると言った石飛に、まだ電車がある、と遠慮した逸見だが、実は彼にはある思惑があった。
「また会おう」
と言った石飛に、
「おう」
と方手を挙げ、背を向けて歩き出した逸見は、やがて踵を返し、石飛の後を着けた。
――奴の背後には誰がいるのだ。
逸見は石飛のスポンサーを割り出し、事の次第によっては顧客に情報を与える目算と、自らも提灯を点ける腹積もりがあったのである。
その逸見の後をロンドから出て来た男が着けていた。
石飛は何食わぬ顔で大阪梅田のパリンストンホテルに入って行った。
―しめた!
と、逸見は心の中で両手を叩いた。パリストンホテルの支配人とは昵懇の中だったのである。逸見は支配人を呼び出し、石飛がセミスイートルームを三ヶ月間押さえていること、また一ヶ月毎の精算とし、二百万円の保証金を入れていることも聞き出した。
ホテル側が宿泊客の個人情報の秘密保持を厳守しなくてはならないのは当然である。だが二人は、逸見がバブル時代にこのホテルを良く利用したのを機会に、ときどき有力な情報を流し、儲けの中から幾許かのキャッシュバックを受ける関係にあった。
逸見は石飛を訪ねて来る人物の特定を支配人に依頼し、帰宅の途に着いた。むろん彼は、過度な期待を寄せていたわけではない。訪問客がフロントを通さずに、直接部屋に出向けばどうにもならないし、それが普通だからである。
ところが、翌日の夕方だった。支配人からの連絡を受けた逸見は、石飛将夫を訪ねた人物の名を聞いて驚愕した。
支配人から告げられた名は「峰松重一」だったのである。
当初逸見は、その名を聞いてもピンとこなかった。暴力団が株式や商品相場に手を出していることは知っている。目的はマネーロンダリングである。不正な手段で得た収益を相場を通すことによって、真っ当な金に再生させる資金洗浄だ。
しかし、神栄会は武闘派組織だったので、そのような経済活動はして来なかった。為に、逸見の脳裡に名が浮かばなかったのだった。
――神栄会が資金洗浄として株式相場に手を出すのか? その先兵役を石飛が任された……。
逸見は思わず身震いした。神栄会の寺島会長は、神王組本家の若頭であり、七代目の最有力候補である。峰松重一はその神栄会の若頭である。株式相場など下の者に任せ、いちいち口出しすることはないはずである。それが、自ら石飛の許に足を運んだのだ。容易ならざる仕掛けを施すに違いない。
逸見は、石飛の相場に提灯を点けようと算段していたが、とんでもないことだった。もし、神栄会に気づかれたら――気づかれない自信はあるが――どのような災難が降り掛かるとも知れない。
逸見は、触らぬ神に祟り無し、と退散を決め込んだ。
これは森岡の用心であった。逸見に相談を持ち掛ければ、良からぬ思惑が頭を擡げると推察し、胡麻の蝿を追い払ったのである。
ロンドを出た逸見の後を伊能剛史の部下に着けさせ、パリストンホテルの支配人となにやら密談したとの報告を受け、わざわざフロントに在室を確認したうえで、石飛の部屋を訪ねるよう峰松に願ったのである。彼は、大阪では顔を知られている。フロントマンは大物極道の来訪を支配人に報告していたのだった。
パリストンホテルの一階の喫茶室で、石飛は蟹江という記者と会っていた。蟹江は医療業界誌を発刊している出版会社の記者である。
お互い自己紹介をした後、石飛が本題に入った。
「近畿製薬ですが、何か変わったことはありませんか」
「名越の逸見さんからも伺っていますが、特に何もありません。相変わらず薬害補償で苦しんでいます」
「そうですか……」
石飛は抑揚のない声で言った。
「近畿製薬を手掛けるそうですが、まさか買いじゃないでしょうね」
その声には嘲笑の色が滲んでいた。
石飛は全く意に介することなく、
「まだ近畿製薬に決めたわけではありません。他にも数銘柄候補に挙がっています」
と言った後、顔を突き出し、小声になった。
「ちょっと、やばい筋の金なんで、失敗は許されないんです。ですから、一つ一つ慎重にその業界の情報に明るい人から裏を取っているんです」
「やばい筋とはこれ、ですか」
蟹江は指先で頬をなぞった。
石飛は、そうだとも違うとも答えなかった。
その代わり、
「情報料として十分なお礼はしますから、妙な気を起こさないで下さい」
と恫喝するような目で言った。
「も、もちろんです。そもそも、うちのような安月給では株なんて手が出ませんよ」
「では、引き続き近畿製薬の内部事情を探ってもらえませんか」
「はあ……」
蟹江は気の無い返事をした。近畿製薬には何もない、と思っているからだ。
「これは情報料です」
石飛は封筒を差し出した。封筒は思ったより厚みがあった。なるほど、良い小遣い稼ぎにはなるようだ、と蟹江は内心でほくそ笑んだ。
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