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黒幕の影 第一章・突破(1)
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天真宗・別格大本山法国寺の、新貫主を選出する合議の日まで三ヶ月余りとなった。
同宗・京都大本山本妙寺の山際前貫主が、後継指名をしないまま急逝したため、筆頭候補だった神村正遠の新貫主就任は白紙となった。
大学時代、神村の書生をしていた森岡洋介の献身的な助力によって、どうにか擁立成功寸前まで漕ぎ着けたが、その矢先、今度は法国寺の黒岩貫主の勇退という不運に見舞われ、またしても混迷を深める事態となってしまった。
しかも、思わぬ難敵が出現した。
本妙寺の新貫主選出の鍵は、法国寺新貫主の意向次第という展開になったのだが、その新貫主の座に名乗りを上げたのが、藤井清慶という次期法主が確実視されている総本山総務の要職にある藤井清堂の実弟だったのである。
別格の称号を賜り、総本山真興寺に次ぐ寺格を誇る法国寺の新貫主選出は、全国の九大本山のうち、当該の法国寺を除く八大本山の貫主たちによる合議または選挙によって決する。
ただ、このうち神村が貫主を目指している本妙寺は、現在山際の逝去により貫主不在であるため、七大本山の貫主に委ねられることになる。
その七ヶ寺の中で、総本山真興寺のお膝元である静岡の大真寺、法真寺、国真寺の三ヶ寺は、これまでの慣例として次期法主が内定している藤井清堂の息の掛かった者が貫主の座にある、と考えるのが妥当であった。
さらに、京都大本山傳法寺の大河内貫主は、本妙寺の件で神村の対立候補である久保僧を支持していることから、久保僧と兄弟弟子に当たる清慶支持に回ると見るのが常識的だった。つまり、藤井清慶の優位は揺るがないということである。
それでも強力な対抗馬擁立を図った神村陣営は、天真宗の全国僧侶から影の法主との畏敬の念を抱かれている大物僧侶・久田帝玄を担ぎ出すことに成功した。
だが、彼を以ってしても苦戦を免れずにいた。
森岡の奮闘も虚しく、一進一退の膠着状態から抜け出せないままだったのである。
折しも北新地の高級クラブ・ロンドに於いて、一夜に二千万円もの大金を浪費するという馬鹿騒ぎが起因となって、森岡は理不尽な凶刃に倒れ、生死の境を彷徨った。
玄妙な霊力によって奇跡的に命を取り留めた森岡は、高級クラブの美貌ママ・山尾茜の献身的な看護もあって順調に回復し、無事退院に至った。完治したわけではなかったが、当分の間、スケジュールを担当医に報告するという条件を呑んで現場に復帰したのである。
とはいえ、一ヶ月も入院していたため、大河内法悦に対する手立ては糸口すら見出せないままであった。
大河内は久保支持と見られてはいるが、あくまでもこれまでの経緯からの憶測に過ぎなかった。彼がどちらに与するかで法国寺の新貫主が決定し、その法国寺の新貫主の意向によって神村の命運が決するのである。大河内への調略は、まさに逼緊(ひっきん)の課題であった。
焦燥の日々が続く中、さらに追い討ちを掛ける情報が舞い込んだ。
谷川東良から、
『東京目黒の大本山・澄福寺貫主の芦名泰山は藤井清慶支持の意向である』
という旨の報せが届いたのである。
それは谷川東良の兄東顕が、宗務で総本山に出向いたときだった。年末の挨拶のため、法主を訪ねようとして控えの間を通り掛かったところ、中から人の声がした。東顕は、盗み聞きをするつもりなど毛頭なかったが、中から漏れてきた『法国寺』との言葉に、思わず足を止めてしまった。
そして、澄福寺の芦名上人が藤井清慶支持の腹を固めたという話し声を耳にしたというのである。
芦名泰山も法国寺の新貫主選出メンバーの一人で、調略対象の人物だった。ただ、これまで己の意志を表明したことがなく、大河内に比すれば、多少なりとも付け入る隙があると考えていただけに、神村陣営に与えた衝撃は量り知れないものがあった。
「この情報が本当なら、我々の敗北が決まってしまいますね」
森岡の声には、いつもの覇気が無かった。
芦名泰山に対する調略として、中国十聖人の墨の献上という手筈を整えていた矢先だっただけに、失意は隠せなかった。むろん、体調も影響していたことは言うまでもない。
「俺も兄貴に何度も確認したんやが、断固聞き間違いやない、と言い張るんや」
「そういうことでしたら、まず間違いはないでしょうね」
「残念やが、終戦ということやな。肝心なときに、米国のシリ……シリ……何やったかな」
「シリコンバレーですか」
「そうや。そのシリコンバレーとやらに長期出張するから、敵にしてやられたんや」
森岡は入院中、株式上場に絡む新規取引の商談のため、IT企業の一大拠点である米国西海岸のシリコンバレーへ出張していることになっていた。
「申し訳ありません」
と頭を下げた森岡だったが、悪びれた様子はない。
谷川東良の露骨な嫌味も、森岡を不快にさせることはなかった。彼が真実を知っていないということは、神村も同様だと思えたからである。森岡にはこちらの方が、余程都合が良かった。
瀬戸際に立たされたとは思えぬほど泰然と身構える森岡に、谷川東良は異変を感じていた。
――この男、なにやら雰囲気が変わった。これまでも、年に似合わず豪胆で頭も切れたが、それとは何かが違う。何かが……。
強いていえば、久田帝玄や神村正遠が放つ同種の『気』だと東良は思った。修行を積んだことのない男が、どうしてこのような気を纏うことができるのか、と不思議に思いながらも、
「どうする? このことを神村上人に伝えようか」
と結論を促した。
「……」
黙って考え込む森岡に、東良が思わぬことを口にした。
「もっとも、君が米国に出張中、神村上人も病に倒れられて、ようやく床上げができたばかりやからな。あまり、良くない報せは伝えとうないのはやまやまなんや」
「え? 先生が病気に」
森岡は驚愕の目を向けた。
「なんでも、水行をなさって風邪を拗らせたとかで、軽い肺炎だったらしい」
「水行を? 何のために」
――まさか、自分が凶刃に倒れたことを耳にされたのか? いや、坂根は伝えていないと言っていたが……。
森岡の胸に不安が渦巻く。
「そこまではわからんが、願掛けでもなさったのではないか」
「願掛け……」
「本妙寺、いや神村上人であれば、御前様の法国寺貫主就任祈願ではないかな」
――なるほど先生らしい。
森岡は得心の顔で、
「それで、今は」
と先を急かした。
「快癒されたが、念のため静養されている」
「それは良かった」
とほっと胸を撫で下ろした森岡に、
「静養といえば、さっきから気になっていたんやが、君も痩せたようやな。顔色も悪いし、大丈夫なんか」
谷川が痛い点を突いてきた。
「米国の食い物が合わなかったので食欲が減り、体調を崩しました」
「水が合わんかったんやな」
はい、と森岡は頷くと、
「先程の件、一つ確認したいのですが、東顕上人は、その控の間で会話していた人物を特定することまではできなかったのですね」
巧みに話題を元に戻した。
「そうや。立ち聞きなどしているところを人に見られたらばつが悪いと、足早に法主さんの部屋へ入ったということや」
「では、先生に報告するのは二、三日待ってもらえますか。出来得る限り、私の方でも確認を取ってみます。それからでも遅くはないでしょう」
「そりゃあ、ええけど。無駄骨やと思うで」
谷川東良は渋い顔をしながらも、森岡の考えに理解を示した。
森岡は谷川東顕を疑ったのではなく、情報源が総本山ということが気になった。しかも、せっかく芦名泰山を口説く手掛かりを手中にした彼にすれば、運命を左右する重大事に臨んで、早計な判断を下すわけにはいかなかったのである。
同宗・京都大本山本妙寺の山際前貫主が、後継指名をしないまま急逝したため、筆頭候補だった神村正遠の新貫主就任は白紙となった。
大学時代、神村の書生をしていた森岡洋介の献身的な助力によって、どうにか擁立成功寸前まで漕ぎ着けたが、その矢先、今度は法国寺の黒岩貫主の勇退という不運に見舞われ、またしても混迷を深める事態となってしまった。
しかも、思わぬ難敵が出現した。
本妙寺の新貫主選出の鍵は、法国寺新貫主の意向次第という展開になったのだが、その新貫主の座に名乗りを上げたのが、藤井清慶という次期法主が確実視されている総本山総務の要職にある藤井清堂の実弟だったのである。
別格の称号を賜り、総本山真興寺に次ぐ寺格を誇る法国寺の新貫主選出は、全国の九大本山のうち、当該の法国寺を除く八大本山の貫主たちによる合議または選挙によって決する。
ただ、このうち神村が貫主を目指している本妙寺は、現在山際の逝去により貫主不在であるため、七大本山の貫主に委ねられることになる。
その七ヶ寺の中で、総本山真興寺のお膝元である静岡の大真寺、法真寺、国真寺の三ヶ寺は、これまでの慣例として次期法主が内定している藤井清堂の息の掛かった者が貫主の座にある、と考えるのが妥当であった。
さらに、京都大本山傳法寺の大河内貫主は、本妙寺の件で神村の対立候補である久保僧を支持していることから、久保僧と兄弟弟子に当たる清慶支持に回ると見るのが常識的だった。つまり、藤井清慶の優位は揺るがないということである。
それでも強力な対抗馬擁立を図った神村陣営は、天真宗の全国僧侶から影の法主との畏敬の念を抱かれている大物僧侶・久田帝玄を担ぎ出すことに成功した。
だが、彼を以ってしても苦戦を免れずにいた。
森岡の奮闘も虚しく、一進一退の膠着状態から抜け出せないままだったのである。
折しも北新地の高級クラブ・ロンドに於いて、一夜に二千万円もの大金を浪費するという馬鹿騒ぎが起因となって、森岡は理不尽な凶刃に倒れ、生死の境を彷徨った。
玄妙な霊力によって奇跡的に命を取り留めた森岡は、高級クラブの美貌ママ・山尾茜の献身的な看護もあって順調に回復し、無事退院に至った。完治したわけではなかったが、当分の間、スケジュールを担当医に報告するという条件を呑んで現場に復帰したのである。
とはいえ、一ヶ月も入院していたため、大河内法悦に対する手立ては糸口すら見出せないままであった。
大河内は久保支持と見られてはいるが、あくまでもこれまでの経緯からの憶測に過ぎなかった。彼がどちらに与するかで法国寺の新貫主が決定し、その法国寺の新貫主の意向によって神村の命運が決するのである。大河内への調略は、まさに逼緊(ひっきん)の課題であった。
焦燥の日々が続く中、さらに追い討ちを掛ける情報が舞い込んだ。
谷川東良から、
『東京目黒の大本山・澄福寺貫主の芦名泰山は藤井清慶支持の意向である』
という旨の報せが届いたのである。
それは谷川東良の兄東顕が、宗務で総本山に出向いたときだった。年末の挨拶のため、法主を訪ねようとして控えの間を通り掛かったところ、中から人の声がした。東顕は、盗み聞きをするつもりなど毛頭なかったが、中から漏れてきた『法国寺』との言葉に、思わず足を止めてしまった。
そして、澄福寺の芦名上人が藤井清慶支持の腹を固めたという話し声を耳にしたというのである。
芦名泰山も法国寺の新貫主選出メンバーの一人で、調略対象の人物だった。ただ、これまで己の意志を表明したことがなく、大河内に比すれば、多少なりとも付け入る隙があると考えていただけに、神村陣営に与えた衝撃は量り知れないものがあった。
「この情報が本当なら、我々の敗北が決まってしまいますね」
森岡の声には、いつもの覇気が無かった。
芦名泰山に対する調略として、中国十聖人の墨の献上という手筈を整えていた矢先だっただけに、失意は隠せなかった。むろん、体調も影響していたことは言うまでもない。
「俺も兄貴に何度も確認したんやが、断固聞き間違いやない、と言い張るんや」
「そういうことでしたら、まず間違いはないでしょうね」
「残念やが、終戦ということやな。肝心なときに、米国のシリ……シリ……何やったかな」
「シリコンバレーですか」
「そうや。そのシリコンバレーとやらに長期出張するから、敵にしてやられたんや」
森岡は入院中、株式上場に絡む新規取引の商談のため、IT企業の一大拠点である米国西海岸のシリコンバレーへ出張していることになっていた。
「申し訳ありません」
と頭を下げた森岡だったが、悪びれた様子はない。
谷川東良の露骨な嫌味も、森岡を不快にさせることはなかった。彼が真実を知っていないということは、神村も同様だと思えたからである。森岡にはこちらの方が、余程都合が良かった。
瀬戸際に立たされたとは思えぬほど泰然と身構える森岡に、谷川東良は異変を感じていた。
――この男、なにやら雰囲気が変わった。これまでも、年に似合わず豪胆で頭も切れたが、それとは何かが違う。何かが……。
強いていえば、久田帝玄や神村正遠が放つ同種の『気』だと東良は思った。修行を積んだことのない男が、どうしてこのような気を纏うことができるのか、と不思議に思いながらも、
「どうする? このことを神村上人に伝えようか」
と結論を促した。
「……」
黙って考え込む森岡に、東良が思わぬことを口にした。
「もっとも、君が米国に出張中、神村上人も病に倒れられて、ようやく床上げができたばかりやからな。あまり、良くない報せは伝えとうないのはやまやまなんや」
「え? 先生が病気に」
森岡は驚愕の目を向けた。
「なんでも、水行をなさって風邪を拗らせたとかで、軽い肺炎だったらしい」
「水行を? 何のために」
――まさか、自分が凶刃に倒れたことを耳にされたのか? いや、坂根は伝えていないと言っていたが……。
森岡の胸に不安が渦巻く。
「そこまではわからんが、願掛けでもなさったのではないか」
「願掛け……」
「本妙寺、いや神村上人であれば、御前様の法国寺貫主就任祈願ではないかな」
――なるほど先生らしい。
森岡は得心の顔で、
「それで、今は」
と先を急かした。
「快癒されたが、念のため静養されている」
「それは良かった」
とほっと胸を撫で下ろした森岡に、
「静養といえば、さっきから気になっていたんやが、君も痩せたようやな。顔色も悪いし、大丈夫なんか」
谷川が痛い点を突いてきた。
「米国の食い物が合わなかったので食欲が減り、体調を崩しました」
「水が合わんかったんやな」
はい、と森岡は頷くと、
「先程の件、一つ確認したいのですが、東顕上人は、その控の間で会話していた人物を特定することまではできなかったのですね」
巧みに話題を元に戻した。
「そうや。立ち聞きなどしているところを人に見られたらばつが悪いと、足早に法主さんの部屋へ入ったということや」
「では、先生に報告するのは二、三日待ってもらえますか。出来得る限り、私の方でも確認を取ってみます。それからでも遅くはないでしょう」
「そりゃあ、ええけど。無駄骨やと思うで」
谷川東良は渋い顔をしながらも、森岡の考えに理解を示した。
森岡は谷川東顕を疑ったのではなく、情報源が総本山ということが気になった。しかも、せっかく芦名泰山を口説く手掛かりを手中にした彼にすれば、運命を左右する重大事に臨んで、早計な判断を下すわけにはいかなかったのである。
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