黒い聖域

久遠

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黒幕の影 第一章・突破(3)

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 翌日の午前、森岡と菊池は澄福寺に芦名泰山を訪ねた。
 東京目黒にある大本山澄福寺は、栄真大聖人入滅の霊場であった。
 大聖人の最晩年、周囲の反対する中、天真宗不毛の地であった東北への布教に旅立った彼であったが、道中の関東で病に倒れてしまった。やむなく、支援者だった細見宋沢(ほそみそうたく)の館で養生することになり、五ヶ月後に、波乱に富んだ人生の終焉を迎えたのだった。
 その細見氏館の背後の山頂付近に建立されていた一宇を、栄真が開堂供養し、『栄清山(えいせいざん)澄福寺」と命名したのが、当寺院の起源と言われている。栄真大聖人没後、細見氏が所領四万坪を寺領として寄進し、寺院としての基礎が築かれることになった。
 その後、鎌倉、室町時代には関東の豪族の庇護を、江戸時代には諸大名の信仰を集め、隆盛を極めた。また、栄真大聖人入滅の霊場とあって、御遺品、御真筆が数多く所蔵されており、こうしたことから『東の妙顕』との別称を持っていた。
 貫主の芦名泰山は七十二歳。天山修行堂で八度の百日荒行を達成した傑物である。久田帝玄ほどはないが、この世代では大柄な方である。
 天山修行堂で荒行を成満したということは、久田帝玄の父帝法上人の薫陶を受けた僧侶ということである。であれば、当然のこと帝玄を支持するのが筋と考えられたが、何分生粋の学者肌で偏屈者の彼には、世間の常識が当てはまらないもどかしさがあった。
 芦名泰山は丁重に招じ入れてはくれたが、彼の表情が一瞬たりとも緩むことはなかった。その能面のような表情から、彼の真意を読めない二人は、駆け引きに奔ることを止め、正攻法で臨む腹を決めた。
 茶を運んで来た若い修行僧が退出するのを見計らって、芦名の正面に座っていた菊池は、用件を申し述べることをせず、無言のまま桐の木箱を三つテーブルの上に置くと、一つずつ丁寧に中身を取り出し、正面を芦名に向けて並べた。
 その瞬間、芦名を凝視していた森岡には、彼の身体が硬直したように見えた。芦名は極度の動揺を隠しきれない様子で、両手のひらを何度も握ったり開いたりした後、右手で頬を撫で回し、最後に両目を擦ると、
「こ、これは……もしかしてあの幻の? ……えっ、まさか本物?」
 と半信半疑で訊ねた。
 妙な話だが、人というものは絶対に有り得ないと思っていたことが、現実に目の前で起こると、たとえそれが自身にとっては幸運なことであっても、事態を飲み込めず挙動不審になるものらしい。
「もちろん、本物です!」
 大きな声だった。
 森岡の力強い声が芦名の身体の芯に響いたのか、彼はようやく正気に戻ったようだ。
 落ち着いた声で、
「これは、いったいどのようにして手に入れたのですか」
 と訊いた。
「華僑に頼んで手に入れました。間違いのない代物です」
「手に取っても良いですか」
「どうぞ、どうぞ」
 うおー、と雄叫びのような声が上がった。
「まさか、噂に名高い中国十聖人の姿見の墨を手に取れるとは……これは荀子……これは荘子……これは、おおー、老子か……」
 芦名は目の前の品が本物だとわかると、まるで欲しかった玩具をようやく手に入れたときの子供のように、一つ一つ大事そうに手に取り、学者の面相や衣装などから、人物の名を挙げて行った。
「風体だけで、誰であるかがおわかりになるなんて、さすがですね。私などは、初めてこれらを見たとき、どれが誰やらさっぱりでした」
 菊池は本音とも追従とも付かぬことを口にした。
「いやあ、失礼。あまりの驚きで、つい我を忘れてしまいました」
 と、芦名は照れくさそうにした。
 森岡は胸を撫で下ろしていた。芦名が見せた一連の驚嘆と好奇の混ざり合った表情に、森岡は彼の心が魅了されていると看取った。そして、芦名がどちらを支持するか、まだ心を決めてはいないと確信した彼は、ここが潮目だと判断した。
「宜しければ、この三体を貫主様に献上致しますが」
 勝負を掛けた言葉であった。
 少し間があった。
「……そうですか、有難う」
 居住まい正して頭を下げた彼の表情は、如何とも表現しがたいものに変わっていた。もちろん彼は、森岡と菊池の来訪の用件も、墨の献上の申し出が、それを代弁していることも承知していた。彼はそのうえで、了承の返答をしたのである。
 芦名が見せた表情は、貴重な代物を手に入れた喜びの反面、思いも寄らぬ成り行きに、上手くしてやられたという自虐の思いと、己の厳正中立の信念はこれほどまでに脆弱なものだったのか、という失意の念が複雑に絡み合ったものだったのである。
「多少時間は掛かりますが、残りの七体も探し出しまして、必ず献上致します」
「いや、それはまた……本当ですか」
 森岡にそこまで言われると、芦名もすっかり観念する他なかった。
 それでも尚、目的を果たし安堵の表情を浮かべていた菊池を他所に、森岡は念を押しに出た。
「このところ、良い墨が少なくなっているそうですね」 
 その言葉に芦名の眼が反応した。
「そうなのだよ。私も困っていてね。創作意欲すら沸かなくなってしまった」
「そう思いまして、こういう墨も入手したのですが」
 森岡は、アタッシュケースの中から紫色の袱紗包みを取り出すと、芦名の眼前で広げ、和紙に包んだ縦八センチ、横三センチ、厚み七ミリの板状の墨を三枚取り出して見せた。
「これは、もしかして歙州(あしゅう)産ではないかな」
 手に取った芦名は、十聖人の墨を見たときと同じ驚きの反応を示した。
「さすがですね。そのとおりです。どうぞこれもお納め下さい」
「えっ、これも頂戴して良いのかね」
「ご遠慮なく、どうぞ」
「いやあ、それは有難い。この墨でも一枚二百万の値が付く良い墨でね。いやいや、値段はともかく、これもまた手に入り難い品だからね」
 芦名は十聖人の墨を手にしたときと同様に相好を崩した。
 森岡は、榊原壮太郎に依頼して収集していた高級な墨の一部を持参していたのである。たしかに中国十聖人の墨は、これらより遥かに貴重な代物ではある。しかし、芦名はあくまでも書道家であって、骨董品の収集家ではない。
 まさか中国十聖人の墨を創作に使用するわけにいかない。つまり、いくら貴重な品であっても、使えない物の価値は半減するのだ。森岡の凄さは、芦名の心理を推量し、そのジレンマを解消すべく、手頃な墨を持参していたところにあった。
「もし、ご要望がございましたら、私どものルートを使って、今後も入手致しますが」
「本当かね。それは重ね重ねの心遣い痛み入る。そうしてもらえれば、本当に助かります」
 芦名は心底から言った。彼は入手困難な高級品を目の当たりにさせられ、森岡が持つルートの確かさを十分に認識していたのだった。
「ところで、貫主さんに一つだけお願いがあるのですが」
 話も纏まり和やかな談笑が続いた後、退席する間際になって、森岡が神妙な顔つきで切り出した。
「お願いとは、何かね」
 芦名の顔が強張った。
「他でもないのですが、本日の件は合議の日まで内密にして頂きたいのです」
「内密だと? 今日、君たちに会ったことを隠せということかね」
 いいえ、と森岡は首を横に振った。
「本日の面談はすでに他のお坊さんたちに知れています。そうではなく、貫主さんが承諾されたことを内密にして頂きたいのです。つまり、私どもの要請の承諾も、向こうの支持の表明もしていない、お会いする前の厳正中立を守るということにして頂ければ有難いのですが」
「会う前の中立か……良いでしょう。要は、君たちに会う前の言動をしていれば良いということだね」
「そのとおりです」
「それなら、いっそのこと……」
 菊池がしたり顔で口を挟もうとしたとき、森岡は彼の膝をポンと叩いて、その先を封じた。
 そして、訝しげに見つめる菊池に、有無を言わせぬかの如く、
「無理なことをお願いして申し訳ありません」
 と語調を強め、深々と頭を下げた。
「いやいや、君たちの誠意に比べれば取るに足りないことだよ」
 経緯はどうであれ、ともかくも腹が決まったせいか、芦名は晴れ晴れとした顔つきになっていた。
 森岡と菊池は訪れたときと同じように、緊張の表情を装って澄福寺から辞去した。
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