黒い聖域

久遠

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聖域の闇 第四章・手打(6)

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 日本は多神教の国である。つまり絶対神を持っていない。そのため確固たる思想哲学の無い各界の指導者は、難事に直面したとき心の弱さを高僧の法力に頼ってきた歴史がある。
 古くは奈良時代の法相宗道鏡、徳川家康の側近で幕府草創期の朝廷政策や宗教政策に強い影響力を行使した天台僧天海が有名だが、現在でも歴代首相の多くが重要な決断を高僧に頼っている現実がある。
 さしずめ、久田帝玄や神村正遠もそうである。ましてや、日本仏教界の第一人者であれば、言わずもがなであろう。
「これまで、あの男が奈良岡先生や大阿闍梨の縁者であることなど誰も知らなかったであろう。にも拘らず、彼の許には有為な人材が集まっている。今後、彼の素性が公になれば、支援しようとする人物が我も我もと手を上げるだろう」
「日本中を敵に回すということか」
「日本中というのは大袈裟だが、あの男が巨大な力を手にすることは間違いない」
 ふう、と鬼庭は息を吐いた。
「勅使河原は金は持っているが人物ではない。五億は全て勅使河原に渡し、腐れ縁を残すな」
「しかし兄貴。それでは二千万ほど足が出たままになる」
 鬼庭は不満げな面を向けた。
 宗光の表情が一変した。
「いつまでも下らないことを言ってんじゃねえ。森岡とつるんでりゃあ、一億や二億なんざ鼻糞みてえなものだということがわかんねえのか!」
 とうとう伝法な口調で一喝した。
 宗光賢治がいかに兄貴分とはいえ、仮にも神戸神王組、東京稲田連合に次ぐ広域暴力団虎鉄組の組長に横柄な口が利けるのには理由があった。
 鬼庭徹朗は、先代鬼庭徹太郎の実子だった。
 神王組の田原政道同様、虎鉄組勢力拡大の大功労者である徹太郎もまた、組内では神格化されていた。だが、その伝説の極道でさえ人の親ということなのだろう。後継に息子の徹朗を望んだ。
 弱小組織ならいざしらず、傘下組員が一万八千名を超える大組織を、ただ実子というだけで後継させる危うさを徹太郎はわかっていた。そこで、周囲を納得させるため、後継者教育係として、右翼の世界にその人有りと謳われていた宗光賢治に白羽の矢を立てたのである。
 したがって、鬼庭徹朗にとって宗光賢治はただの兄貴分ではなく、親または師に当たった。徹朗が十代目を襲名した折、外聞上あらためて兄弟盃を交わしたのである。いずれにせよ、鬼庭徹朗にとって生涯頭の上がらない存在であった。
 また彼が二千万円に拘ったのは、金額の多寡というより、侠客としての面子の方が大きい。極道世界に生きる彼にとって、たとえ一円であっても、敵対する神栄会に詫び金を差し出したことは、屈辱以外の何物でもないのである。
 言わずもがな、神栄会から取り戻すのが本筋であるが、そのためには神栄会と諍いが起こり、尚且つ神栄会側に瑕疵が無ければならない。そのような好機は滅多に訪れるはずもなく、そこで神栄会と昵懇の森岡から回収し、少しでも留飲を下げようとしたのである。
「わかった。だが、ブックメーカー事業は期待できないのだろう」
 鬼庭は諦め口調で訊いた。
「そうでもない。まあ、俺に任せておけ」
 宗光は自信有り気な顔で言うと、
「徹朗、今日のことは他言無用だぞ。鮫島らにも徹底しておけ」
「言われるまでもない。どうして堅気を拉致監禁して身代金を分捕ったなどと言えるか」
 鬼庭は憤慨した。
「呆れた奴だな。そのことではない」
「では、ブックメーカーのことか」
「それもあるが、森岡君が奈良岡先生や堀田真快大阿闍梨と血縁関係にあるということだ」
 鬼庭は首を捻った。
「どうしてそれを秘匿する必要があるのだ」
 ああ……と宗光は嘆いた。
「俺は泉下で徹太郎親分にお目に掛かったら、何とお詫びをしたらよいのか」
 宗光は親指と中指を両目の瞼に当てて頭を垂れた。
「そこまで言わなくてもいいだろう」
 自身に対する皮肉だとわかった鬼庭は口を尖らせた。
「いいか、ブックメーカーの話も、森岡君の出生の秘密も今後、金になるかもしれない希少価値のある情報だということがわからないのか」
「……」
「ブックメーカー事業は神王組が極秘裏に進めている大事業だ。仮にこの先、神王組との間にトラブルが発生したとき、この情報がまだ世間に知れ渡っていなければ、取引材料になるかもしれないだろうが。それをわざわざ自分から捨てる馬鹿がどこにいる」
「なるほど。それで、森岡の出生の秘密の方は」
「森岡君は今誰と対立しているのだ」
「さしずめ、勅使河原と瑞真寺の御門主といったところか」
「そうであれば、勅使河原には奈良岡先生との関係を、門主には堀田真快大阿闍梨との関係を教えてやれば、感謝されるとは思わないか」
「そうか、下手に森岡に手を出せば火傷をするという警告になる」  
「そういうことだ。金は取れなくても大きな貸しにはなる」
「さすがは兄貴だ」
 感心顔で唸った鬼庭に、
――先が思いやられる。
 と、宗光は暗い気持ちになった。
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