黒い聖域

久遠

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聖域の闇 第六章・不穏(1)

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 森岡洋介が推量したとおり、週刊誌によるスキャンダル報道、富国銀行の株式引き受け拒否、そして坂根好之の拉致監禁と、彼が自身に降り掛かる火の粉の対応に追われていた裏では、京都大本山本妙寺の新貫主選出の鍵を握る貫主たちが微妙な動きを始めていた。
 そのような折、森岡は片桐瞳の呼び出しを受け、京都祇園のお茶屋吉力に足を運んだ。傳法寺前貫主の大河内法悦と面談してから半月も経たないうちの祇園入りだった。
 森岡は蒲生亮太と足立統万、そして神栄会若頭補佐の九頭目弘毅を隣室に上げ入れ、残る影警護の二人は近くの喫茶店で待機させた。
 座敷では片桐瞳が一人で待っていた。料理は運ばれてなかったが、ビールと簡単なつまみが用意されていた。
 彼女は森岡を見るなり、
「洋介、忙しいのにごめんね」
 と顔の前で両手を合わせた。
「それはかまわんけど、何かあったんか、お姉ちゃん」
 森岡は深刻な顔つきで訊いた。
「その、お姉ちゃんっていうのは止めてくれない」 
 怒ったように言いながら、森岡のグラスにビールを注いだ。
「二人きりのときは、昔どおりでええやないか」
「でも、あの頃とは違うわ。私はともかく、洋介は世間が注目する新進気鋭の若手経営者だもの。そんな人にお姉ちゃんだなんて、恐れ多くて」
「社会的地位なんて関係あらへん。俺はお姉ちゃんと出会った頃のままの付き合いがしたいと思っている」
「出会った頃ねえ……」
 と感慨に拭けた様子の瞳の目が悪戯っぽい輝きを放った。
「ねえねえ、あの頃洋介は私のこと好きだったの」
 ぷっ、と口に含んだビールを吐き出しそうになった。
「いきなり、なんだ」 
「私に想いを寄せていたの。それとも身体に興味があっただけなのかしら」
「正直にって、お姉ちゃんに恋愛感情はなかった」
「まあ、はっきり言うわね」
 瞳は少し落胆の口調で言う。
「といって、姉ちゃんの身体が目的だったわけでもないで。なんて言ったらええのかな。大学に入ってすぐ祖母が亡くなり天涯孤独になった俺は、運よく神村先生に拾われ、生きる希望が湧いていた頃やった。せやけど、先生のお寺での暮らしは緊張の連続で、たとえ先生が他出されたときでも、何か試されてはいないか、何か落ち度はなかったかと、一時も神経の休まることがなかった」
 森岡は神村の知人からの苦情を受けて、一旦経王寺を出たことがあったのだが、そのとき気の緩みを神村にこっぴどく叱責されたことを生涯の教訓としていた。
「そうだったの。私は神村先生の同伴とはいえ、まだ大学生だというのにお茶屋で舞妓や芸妓遊びに興じる能天気な奴としか思っていなかった」
「そういう俺にとっては、お姉ちゃんといるときだけが気の休まる時間だったんや」
「だったら、本当に姉だと思っていたの」
「恋人というよりはそっちに近い」
「だったら私たち近親相姦しちゃったのね」
 瞳は冗談のつもりだったが、森岡の表情が一瞬にして曇った。
「どうしたの、洋介。真に受ける馬鹿がどこにいるのよ。第一私たちは実の姉弟じゃないのよ」
 森岡の深刻な様子に、瞳もまた真顔になっていた。
「いや、なんでもない。ちょっと昔の嫌な思い出が蘇っただけだ」
「昔のって、なに」
「それは、お姉ちゃんにも言えない」
 森岡は強い口調で拒絶した。
 瞳は思わず身震いした。その苦悩に満ちた表情に、心底を覆い尽くす深い闇を垣間見た気がしたのである。
 そのとき、襖の向こうから気まずい空気を引き裂くような声が掛けられた。
「入ってええどすかあ」
 実に長閑な音色だった。
「鶴乃ちゃんの声やないか」
「あら、いけない。すっかり忘れてた」
 瞳が掌で額を叩くと、襖の向こうに返事をした。
「鶴ちゃん、どうぞ」
 襖を開けて、舞妓姿の鶴乃が入ってきた。
「いけずやわあ、瞳姉さん。いつまで待たせるんどすか」
 鶴乃は頬を膨らませる。
「ごめんなさい。つい話し込んでしまったの」
「うちのことを忘れるほど仲睦まじいなんて、宜しゅうおまんなあ」
 口調はのんびりとしたものだが、嫌味たらたらである。
「鶴ちゃん、機嫌直して洋介に酌をしてあげて」
 瞳は宥めるように言うと、腰を上げた。
「それじゃあ洋介、鶴ちゃんの話を聞いてあげてね」
「えっ、話って鶴乃ちゃんなのか」
「そうよ、言ってなかったかしら」
「聞いてないけど、瞳もいたら良いじゃないか」
「せっかくだけど、これから私はお客様と同伴だからそうはいかないの。どうぞ二人で燃え上がってちょうだい。それから、他の舞妓さんや芸妓さんにも声を掛けてあるから、鶴乃ちゃんの話が済んだら呼んであげてね」
 瞳は無責任な捨て台詞を吐いて、さっさと部屋から出て行った。
「森岡はん、うちと二人きりは嫌どすか」
「そんなことはない。日本一の舞妓を独占できるのやから、男冥利に尽きる」
「ほんまに?」
「ほんまや」
 森岡は気圧されるように言った。
 鶴乃は類い稀な美人である。素顔を見たときに想像した以上の、壮絶な美貌の持ち主だった。舞妓の化粧なので一般とは違うが、過日の素顔、眼前の舞妓の化粧から普段の化粧顔を想像すれば、なるほど各界の著名人が躍起になって口説いているのも理解できた。
「それで、話って何かな」
「へえ、その前に、もしうちの話が森岡さんにとって有益なことどしたら、鶴乃にご褒美をくれはりますか」
「もちろんや、ただで情報を貰おうとは思わんで」
「ほらな、話の前に鶴乃にもビールを一杯注いでおくれやす」
「おう、これは気が利かんことやった」 
 鶴乃は注がれたビールを一口飲んだ。
 鶴乃は十八歳だが、京都府の条例で舞妓の職にあるときは飲酒ができる。過日はプライベートだったので飲酒はしていなかった。
 ついでに言っておくと、京都や関西では芸妓というが、関東では芸者と呼ぶ。
「実は、蔦恵(つたえ)いう先輩芸妓の姉さんがいてはるんですけど、置屋も違うし、六歳も離れているのに、ほんに気安うてお互い何でも話せる仲なんどす」
「ほう。それは心強いやろうな」
 へえ、と肯いた鶴乃は、
「ところが、最近姉さんが元気がおへんのどす」
「困ったことでもできたのか」
「というより、近々身請けされる予定どしたが、流れてしもうたらしいのどす」
「なんでや」
「それが、相手はんが急に金が出せんようになったらしいのどす」
「わかった。その金、俺に出してくれと言うんやろう」
 過日、森岡が女性の難儀話に弱く、資金援助を惜しまないという話をしたばかりだった。
「話を先走る人は好きやおへん」
 鶴乃が駄々をこねるように、ぷいっとそっぽを向いた。
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