慎吾、青春真っ只中

久遠

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女神降臨

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 それから二週間が過ぎた。
 季節は六月、衣替えの季節に入っていた。濃紺のブレザースーツを脱ぎ捨てた女子生徒のブラウスの白さが慎吾の目に眩しく映っている。
 野沢光男の協力にも拘らず、いっこうに彼女は見つからなかった。彼の作業の手伝いと称して補習科棟の捜索をしたが、そこにも彼女らしき姿はなかった。
 だが慎吾は、決して悲観的にはならなかった。これまでの自分にはとうてい考えられなかったほどの努力をして見つからないのだから、彼女とは縁が無いのかもしれない、とまるで運命論者のような悟りの境地に至っていたのである。 
 しかも、井原武行や野沢光男と知り合いになることができた。担任の藤原堂雲からも、思わぬ言葉を貰った。脹脛の彼女探しという、ほんのわずかな勇気を出した見返りとして、これから先の高校生活は快適で明るいものが予想できた。
 それだけで十分だ、と慎吾は満足し始めていたのである。
 そんなある日の昼休みだった。
 慎吾は公民のレポート発表の準備に没頭していたため、名前を呼ばれたことに気が付かなかったらしい。
「おい、津森」
 とクラスメートに肩を叩かれて顔を上げると、教室にいる皆が慎吾を注視していた。
――何事が起こったのか?
 俄かには理解できない慎吾に、そのクラスメートが、
「おい。あれ、あれ」
 と握りこぶしに親指を立てて、後方を指した。
「あっ」
 指差された方向に視線を送った慎吾は、酷く間の抜けた声を発した。
 引き戸の向こうの廊下に立つ見知らぬ美少女が、慎吾を手招きしていたのである。
 見知らぬと言ったが、全く見当も付かないというわけではなかった。慎吾の脳裏には、単に美形というだけでなく、近寄り難い気品も備えている女子生徒は一人しか浮かばなかった。
 入学以来、慎吾はあるマドンナの存在の噂を耳にしており、脹脛の彼女探しをしているとき、22Rで見た彼女こそが、そのマドンナに違いないと見当を付けていたのである。
 名を桜井美咲(さくらいみさき)と言った。
 まるで女神の如き美しさで、古い例えだが、傾国の美女とは彼女ことをいうのだろうと思わせるほどの絶世の美女である。その上、普通科クラス最上位の22Rに在籍としていることからもわかるとおり学業成績も優秀である。
 だが、それだけでマドンナと呼ばれていたわけではない。
 桜井美咲は正真正銘、良家のお嬢様だった。それも時の政権政党・民自党の重鎮、桜井和正幹事長の孫娘なのだ。
 その彼女が手招きしている。
――いったい僕にどんな用があるというのだろうか。
 慎吾は、まるで雲の上を歩いているかのような覚束ない足取りで彼女に近づいて行った。
「突然お邪魔してごめんなさいね。私、桜井美咲です。津森君、放課後お時間あるかしら?」
 鈴を転がしたような声だった。
――何という涼やかな声なのだろう。
 慎吾は、その声だけでも虜にされる魔力があると思わずにいられない。
「少しくらいでしたら、大丈夫ですが」
 慎吾は思わず敬語をつかってしまった。彼女のオーラに気圧されているのだ。
「まあ、良かった」
 彼女は弾けるような笑顔で言う。
「それでは、図書室でお待ちしています」
 そう言うと、すっと身を翻して立ち去って行った。
 慎吾は、呆然として彼女の後姿を見送っていたが、その眼には何も映ってはいなかった。眩いオーラに視界が閉ざされていたのである。
――彼女が僕を誘った。僕に興味があるのか?
 膨らむ期待は、慎吾に胸の痛みを覚えさせるほどだった。
――いや、よそう。あまり期待し過ぎると、誤解だったときの失望も大きくなる。しかし、もしかしたら……。
 校内男子生徒全ての憧れの的であり、女子生徒からは羨望の眼差しを受ける桜井美咲が、時間を取って欲しいと声を掛けてきた。
 慎吾は高揚する心を抑制しようとしたが、最近この身に訪れた幸運の数々からして、もう一つ最大の幸運が舞い降りても、何ら不思議ではないような期待が勝っていった。

 普段でさえ退屈な授業が、いっそう長く感じられていた。担当だった公民の『国家予算』に関するレポートも、どのように発表したか記憶に残っていなかった。
 湘北高校の建物は、学年別の二階建ての大きな棟が三つと補習科棟、体育館があった。教室は全て二階にあり、一階は理科室や音楽室などの他に、職員室や生徒会室、そして文科系の部室が割り当てられていた。
 図書室は二年生棟の中ほどにあった。
 慎吾は右手を左胸に当てながら図書室へと向かった。
 図書室は教室に例えると五部屋ほどの広さがあった。
 慎吾は中央の入り口の前に立ち止まり、二、三度深呼吸を繰り返してから扉を開けた。
「ま・っ・て・」
 扉の一番近くの椅子に、こちらを向いて座っていた桜井美咲は、片手で慎吾を押し止める仕種をしながら、声を出さずに口でなぞった。
 慎吾はその意味がすぐにわかった。図書館で話はできない、他の場所へ行こうという合図であることを……。
 美咲は静かに立ち上がって、慎吾の方に向かってきた。
 昼休みは、突然のことでまともに彼女を見ることはできなかったが、あらためて間近で見ると、息が詰まるほどの美形である。
 大きな目、西洋人の血筋を引いているかのような高い鼻、形の良い口のバランスが良く、笑うと両頬に笑窪が生まれた。中でも印象的なのが、やや太目の眉で、それが彼女をいっそう凛々しく見せていた。
 しかも、高身長でほっそりとした体型からは想像もできないほどの豊かな胸が、薄いブラウスの中に隠れていた。
 紅潮した頬を隠そうと、俯き加減になった慎吾に彼女が囁くように言った。
「理科室へまいりましょう。あそこなら、誰もいないはずです」
――誰もいないところ……。
 その淫靡な響きが、慎吾の脳を席巻する。
――誰にも邪魔されずに二人だけでとなると、恋の話以外にあるはずがない。
 慎吾の妄想は暴走しようとしていた。
 理科室は二年生棟の一番端にあった。
 すれ違う二年生は、誰もが驚いた顔つきで二人を凝視した。マドンナと何の変哲も無い冴えない風采の慎吾が一緒に歩いているのだから、無理もないことではあった。
 彼女の言ったとおり、理科室には誰もいなかった。
「桜井さんは、どうして僕を知っているのですか」
 慎吾は疑問に思っていたことを真っ先に訊ねた。
「津森君、私に敬語は止めて下さらない」
 彼女ははにかんだように言う。
「桜井さんが丁寧な言葉遣いをされるので、つい僕も……」
「ごめんなさいね。私はもの心が付く頃から、こういう言葉遣いなので……傲慢かしら?」
 と不安そうに訊いてくる。
 とんでもない、と慎吾はちぎれるかと思うくらい強く首を左右に何度も振った。
「桜井さんはとても似合っています」
「でしたら、私はこのままで、津森君は普通に話して下さい」
 彼女は安堵したように言うと、
「お訊ねのことですけど、津森君はそれはもう有名人ですから……」
「僕が有名人ですか……あ、いや、有名人とは?」
 慎吾は訳がわからない。
「あの三年生でさえ恐れる井原さんが一目置く男子生徒って、他にはいませんもの」
――ああ、そういうことか。
 慎吾は得心した。井原と親しくなった恩恵がこんな幸運をも齎すのか。
「あれは、僕の従兄弟が井原さんのお兄さんと友人だっただけなんだ」
 慎吾は正直に話した。
「まあ、謙遜なさるのね。益々素敵な人」
 彼女は顔を赤らめた。
――素敵だと、本当なのか?
 慎吾の胸は一層高鳴る。
「それに、用務員の野沢さんにも気に入られたようですわね」
「野沢さんを知っているの?」
 慎吾は訝し気に訊いた。
 たしかに野沢は只者ではないような気がしているが、それでも良家のお嬢様と高校の用務員との接点がわからない。
「私の祖父と湘北高校で同級生でしたの」
「君のお祖父様って、幹事長の?」
 はい、と美咲が形の良い頭を下げる。その仕種がなんとも優雅である。
「祖父の話によると、湘北高校での成績は抜群で祖父など足元にも及ばなかったそうですの。東京大学法学部を卒業され、大手商社に就職後、順調に出世されていたのですが、十年前の疑獄事件の責任を取る形で解雇されてしまったのです」
「ああ、あの事件の首謀者……」
 慎吾はようやく思い出した。
「あの事件で、地位もお金もそして家族までも失われたのです」
「そうだったのですか」
 と、慎吾は嘆息した。
「野沢さんには暗い過去があると察していたけど、そんなことがあったとは知らなかった」
「その後、いろいろな職に就かれたようですが、どれもうまくいかなかったようで、三年前に今の仕事に就かれたようですの」
――そういうことか。
 慎吾は、ときおり垣間見られた用務員には似つかわしくない鋭い目つきと、ただ者では無い物言いを思い出し、納得した。
「でも、僕が野沢さんと親しいことをどうして知っているの」
 野沢との交流は秘匿してはいなかったが、吹聴もしていなかった。
「津森君、中庭の草取りをしていたでしょう。私、兄を訪ねたときに見掛けましたのよ。津森君は心優しい人でもいらっしゃるのですね」
「……」
「まだ、納得できないというお顔ね。では、もう一つネタ明かしをしましょう」
 そう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。それがまた愛らしい。
「津森君、誰かを探して校内を廻っていらっしゃったでしょう。貴方が有名なった一番の理由はそれかしらね」
「そういうことならわかる。桜井さんもおかしな奴だと思っただろうね」
 いいえ、と美咲は真剣な顔つきで首を横に振る。
「何か特別な理由がお有りになるのだろうと思っていましたわ」
「たいした理由ではないよ」
 慎吾はさりげなく誤魔化した。女性の脹脛の虜になったなど、口が裂けても言える話ではなかった。
「ところで、津森君。本題に入りたいのですけど、宜しいかしら」
 彼女の口調が変わった。
「そうだったね。用件はなんだい」
「私と、お友達になって下さらないかしら」
「えっ、僕が桜井さんの友達?」
 慎吾は熱き血潮が逆流するかと思うほど驚いた。湘北高校随一の美女が友達になって欲しいと頭を下げているのだ。
 ただ冷静に考えれば、友達になって欲しいというのは、実におかしな物言いだとわかる。小学生ではあるまいし、友達などというものは『成ろう』と宣言して『成る』類のものではない。いつの間にか自然と『成って』いるものであろう。
 つまり、彼女が友達と言ったのは『言葉のあや』で、その裏には交際したいという意思が見え隠れしているのだ。
「だめかしら?」
 彼女は不安げな眼差しを向けた。
「と、とんでもない僕で良ければ、喜んで……」
 思わず慎吾の声が裏返る。
「まあ、嬉しい」
 彼女は顔の前で両手を叩き、今にも飛び上がらんばかりの声を上げた。
「では、さっそく明日の昼休み、教室にお邪魔します」
「えっ? 明日の昼休みに……」
「ええ。都合がお悪いのかしら」
「いえ。そんなことはないよ。じゃあ、明日待っているね」
 慎吾は少し拍子抜けしていた。昼休みではなく、さっそく下校の際、街中に誘う心積もりだったからである。
 だが慎吾は思い直した。彼女は一般庶民ではない。当然、世間の目というものもある。彼女の身になって考えれば、無難な始まりを求めたとしても、やむを得ないことなのだ。
 それより、彼女が積極的だったことは、本気であることの証明である。こちらの方が慎吾は余程嬉しかった。
「では、これで失礼します。明日、楽しみにしていますわ」
 彼女が、そう言って踵を返したときだった。
「あっ!」
 慎吾は総毛立つ興奮を覚えた。高身長といい、背中まで伸びた黒髪といい、目の前にバスの窓越しに見続けていた後姿がそこにあったのだ。
 転瞬、慎吾の視線はあの夢にまで見た脹脛へと向かった。まるで、スローモーションのように、彼女の背中から、臀部、スカートへ移って行き、そして……。
――見つけた! ついに捜し求めていた麗しの脹脛を見つけたぞ。
 慎吾は心の中で雄叫びを上げていた。
「どうかなさって?」
 慎吾の異様な気配に気づいたのか、彼女が振り向いた。
「えーっと……えーっと」
 慎吾は焦った。背には冷や汗が伝っていた。まさか、君を探して校内中をうろついていたなどと言えるはずもない。
 そうだ、と慎吾は閃いた。
「妙なことを訊くけど、桜井さんはどうやって通学しているの」
「――通学、ですか。父が車を用意してくれているのですけど、お高く留まっているようで嫌だから、湘北高校から一つ前のバス停の『相寿庵入り口』で車を降りて、五分ほど歩いていますの。それが、どうかいたしまして?」
「いや、なんでもない。変なことを訊いてごめんね」
 慎吾は歓喜に身震いしていた。彼女で間違いなかった。
 あこがれ続けたあの脹脛の持ち主が、まさかマドンナである桜井美咲だったとは……しかもその彼女が、たった今交際を求めたのだ。
 慎吾は信じられない事の成り行きに、思わず天を仰いで手を合わせていた。
――でも、なぜ? なぜ僕は彼女だと気づかなかったのだろうか。僕は22Rで彼女を見た。あれほど脹脛の彼女は美形に違いないと信じ込んでいたではないか。ならば、彼女を見たとき、真っ先に思い浮かべてもおかしくないのに……。
 ふいに、慎吾の脳裏を過ぎった疑問も簡単に解消された。
――そうか、彼女のあまりの美しさに圧倒され、僕は無意識のうちに彼女を全くの埒外に置いてしまっていたのだ。
 慎吾は昼休みに美咲が声を掛けてくれたとき、立ち去って行く後姿を見てさえも、全く気が付かなかったことを思い浮かべ、そう得心した。

 慎吾の幸福な高校生活が始まった。
 井原武行は、何かに付けて教室を訪れては、学校生活に支障がないか気に掛けてくれた。余程兄から念押しされているのだろうが、裏返せばそれだけ従兄の赤田勝次と井原の兄が親しいということなのだろう。
 用務員の野沢との交流も続いていた。慎吾は頻繁に用務員室へ顔を出しては、彼の経験話を聴くなどして、親交を深めていっていた。
 言うまでもなく、桜井美咲との関係も良好だった。交際の主導権を彼女が握っていたこともあって、唇を重ねることはもちろんのこと、手を握ることさえも無かったことに少なからず物足りなさを感じなくはなかったが、相手が相手だけに、彼女の笑顔を独占できただけで満足していた。
 全てが順調だった。このような幸福を享受して良いものだろうか、と怖いくらいに満ち足りていた。
 そのような日々が二週間続いたある日のことだった。美咲から新しい提案が出された。次の日曜日に、駅前のプロローグという喫茶店で会いたいというのだ。
 慎吾は二つ返事で了承した。
 日曜日に会うことは初めてだったが、慎吾は意外と平静だった。近頃の彼女の言動に、そのような兆しを感じ取っていたからだ。
「JR松江駅前の『プロローグ』という喫茶店に、十一時でいかがかしら?」
「OK、わかった」
 慎吾は、確実に階段を一段上ったと思った。日曜日が新しい展開の一歩になると信じて疑わなかった。
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