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第一章 出逢い(1)
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洋平が小学生の頃、夏休みの午後には、専ら湾内の北側にある「小浜(こはま)」という砂浜へ海水浴に行っていた。村の北東の外れに集合場所があり、お昼の十二時三十分までに集まった子供たちを、大人たちが交代で引率していた。引率するのは女性がほとんどだったが、万が一の海難事故を防ぐために、必ず泳ぎの達者な男性が一人は加わっていた。
海水浴はお盆までとなっていた。
お盆には、この世に戻った亡霊が災いを起こす、という村の古くからの言い伝えにより海水浴は中止となっていた。
またお盆を過ぎると、決まって大量のクラゲが湾内に流れ込むし、不思議なことだが、時を計ったかのように海水の温度が急激に下がり、そもそも冷たくて泳げなくなるということも理由になっていた。
その日は夏休みになって一週間ほどが経ち、七月も終わりに近づいていた頃だった。海水浴を日課としていた洋平は、いつものように集合場所に向かっていた。
家の門を出て東に進むと、真正面に青々とした美保浦湾が広がっている。
視界を遮るものは何一つ無い。
海風は渇いた潮の匂いを運び、日本海は波の果てまで見通すことができた。空は一面鮮やかなコバルト・ブルーに染まっていて、相変わらずの真夏の光が燦燦と降り注いでいる。
空も海も風も陽の光も、そして村中も全てが普段と代わり映えのない佇まいに、洋平がのんびりと大きな欠伸をしたときだった。
視線の遠く先、海の藍を吸い込んだかのように晴れ渡る中で、ただ一点水平線上の彼方に浮かんでいた綿菓子のような入道雲が、ほんの束の間風に揺れて、今まさに海中より出で、天を衝いて飛翔する龍の姿に形状を変えた。
だが、これまで何の変哲もない日々を送っていた彼は、それがまもなく我が身に訪れる幸運の兆しであることなど微塵も察し得なかった。ただ雲の有様を見て雨の心配はなく、まして嵐の前触れでもないことを見取っていたに過ぎなかった。
海岸通りに出たところで、前方に佇む少女の姿が目に入った。
洋平は彼女が誰だかわかっていた。
同級生の森崎律子である。同級生というより、幼馴染、いや許嫁といった方がより正確かもしれなかった。なぜなら、彼女の生家の大敷屋(おおしきや)は、代々恵比寿水産の要職にある、言わば番頭格の家柄であり、家同士はもちろんのこと、幼少より兄妹のように育った二人の心には、自然と特別な感情が芽吹いていたからである。
ただ、二人の感情は微妙に異なる。
律子が純粋に心を寄せていたのに対し、洋平は恋心よりも周囲の思惑に流されるというか、己の宿命に逆らうだけの気概がなく、半ば諦めの境地を彷徨っていたに過ぎなかった。
つまり、祖父や父が望むことは、我が身を思ってのことであり、自己と恵比寿家にとって最良の選択なのだと、自分自身に言い聞かせていたのである。
とはいえ洋平も、当の律子には不足を感じていたわけではない。器量も良く、学校の成績も上位であり、相手として申し分がなかった。欲を言えば、いつも時間を見計らって自分を待ち伏せしておきながら、近づいて行くと必ず俯いてしまう内気な性格が物足りなかった。
「一緒に行くか?」
通り過ぎ際、洋平は素っ気なく誘った。
うん、と律子はか細い声で答えると、洋平の後に続いた。
集合場所までの間、洋平は一度も彼女に声を掛けなかった。律子もまた、並び掛けようともしない。
繰り返される退屈な日常に、洋平は心の奥底で漠然とした苛立ちを抱いていた。その彼に長らく待ちわびていた新世界への扉が、今まさに開こうとしていたのである。
偶然の出逢いはいきなり訪れた。
集合場所に着いた洋平の目に、皆の輪から外れた片隅に佇んでいる見知らぬ少女の姿が映り込んだ。
この場で他所者らしき姿を見たのは初めてのことだった。
小さな村なので、同じ年頃であれば顔を見ればもちろんのこと、姿かたちでさえも、どこの誰であるかわかるはずだったが、彼にはいっこうに見当が付かなかった。
横顔しか見えなかったが、背丈から、何となく同じ年頃を想像するのが精々だった。
――誰だろう?
この小さなハプニングに興味をそそられた洋平は、少女を凝っと見つめていた。
すると、視線を感じたのか、少女が顔を洋平に向けた。
その瞬間、洋平は息を飲み込んだまま、しばらく呼吸を忘れてしまった。
これまでにない強烈な衝撃だった。まるでこの季節、紺碧の空に突然雷鳴を轟かす稲妻を身体に受けたかのような……。
麗しい少女だった。
山野に咲く一輪の山百合のように凛としていながら、それでいて砂浜に光る一片の桜貝のような清純な美しさを秘めていた。美人に有りがちな、ツンと澄ましたところがなく、むしろやや短めの髪と、ジーンズの短パンにTシャツ、そして野球帽という出で立ちとが相まったボーイッシュな感じが、美少女の端整な顔立ちを一層凛々しく魅せていた。
さらにその美貌には、片田舎にはなじまない洗練された雰囲気も加わっていて、まさに可憐という表現は、この美少女のことを言うのだろう、と洋平には思えた。
ただ、彼女が醸し出す都会的なオーラは、地方の田舎育ちの洋平にはとても新鮮な反面、その透き通るような白い肌が真夏の季節と相反し、少しひ弱く感じられ、多少の違和感も覚えた。
そのせいだろうか、横顔を見たときより少し大人びたように見え、洋平は自分より年上かもしれない、と思い直した。村の子供であれば、小浜へは小学生しか行かないのだが、他所者の彼女であれば、たとえ中学生であっても小浜で泳ぎたいのだろう、と彼は勝手に想像した。
お互いに見つめ合う時間がしばらく続いた後、美少女は洋平に柔らかな笑みを投げ掛けた。そこには、何か彼女の内なる意思のようなものが感じ取れたが、むろんそれが何であるか、このときの洋平にわかるはずもなかった。
彼女に見とれていた洋平は、はっとして我に返り、急に照れくさくなって、思わず顔を背けた。そのとき、律子のふてくされた顔が目に入ったが、意に介する余裕など洋平にはなかった。
海水浴はお盆までとなっていた。
お盆には、この世に戻った亡霊が災いを起こす、という村の古くからの言い伝えにより海水浴は中止となっていた。
またお盆を過ぎると、決まって大量のクラゲが湾内に流れ込むし、不思議なことだが、時を計ったかのように海水の温度が急激に下がり、そもそも冷たくて泳げなくなるということも理由になっていた。
その日は夏休みになって一週間ほどが経ち、七月も終わりに近づいていた頃だった。海水浴を日課としていた洋平は、いつものように集合場所に向かっていた。
家の門を出て東に進むと、真正面に青々とした美保浦湾が広がっている。
視界を遮るものは何一つ無い。
海風は渇いた潮の匂いを運び、日本海は波の果てまで見通すことができた。空は一面鮮やかなコバルト・ブルーに染まっていて、相変わらずの真夏の光が燦燦と降り注いでいる。
空も海も風も陽の光も、そして村中も全てが普段と代わり映えのない佇まいに、洋平がのんびりと大きな欠伸をしたときだった。
視線の遠く先、海の藍を吸い込んだかのように晴れ渡る中で、ただ一点水平線上の彼方に浮かんでいた綿菓子のような入道雲が、ほんの束の間風に揺れて、今まさに海中より出で、天を衝いて飛翔する龍の姿に形状を変えた。
だが、これまで何の変哲もない日々を送っていた彼は、それがまもなく我が身に訪れる幸運の兆しであることなど微塵も察し得なかった。ただ雲の有様を見て雨の心配はなく、まして嵐の前触れでもないことを見取っていたに過ぎなかった。
海岸通りに出たところで、前方に佇む少女の姿が目に入った。
洋平は彼女が誰だかわかっていた。
同級生の森崎律子である。同級生というより、幼馴染、いや許嫁といった方がより正確かもしれなかった。なぜなら、彼女の生家の大敷屋(おおしきや)は、代々恵比寿水産の要職にある、言わば番頭格の家柄であり、家同士はもちろんのこと、幼少より兄妹のように育った二人の心には、自然と特別な感情が芽吹いていたからである。
ただ、二人の感情は微妙に異なる。
律子が純粋に心を寄せていたのに対し、洋平は恋心よりも周囲の思惑に流されるというか、己の宿命に逆らうだけの気概がなく、半ば諦めの境地を彷徨っていたに過ぎなかった。
つまり、祖父や父が望むことは、我が身を思ってのことであり、自己と恵比寿家にとって最良の選択なのだと、自分自身に言い聞かせていたのである。
とはいえ洋平も、当の律子には不足を感じていたわけではない。器量も良く、学校の成績も上位であり、相手として申し分がなかった。欲を言えば、いつも時間を見計らって自分を待ち伏せしておきながら、近づいて行くと必ず俯いてしまう内気な性格が物足りなかった。
「一緒に行くか?」
通り過ぎ際、洋平は素っ気なく誘った。
うん、と律子はか細い声で答えると、洋平の後に続いた。
集合場所までの間、洋平は一度も彼女に声を掛けなかった。律子もまた、並び掛けようともしない。
繰り返される退屈な日常に、洋平は心の奥底で漠然とした苛立ちを抱いていた。その彼に長らく待ちわびていた新世界への扉が、今まさに開こうとしていたのである。
偶然の出逢いはいきなり訪れた。
集合場所に着いた洋平の目に、皆の輪から外れた片隅に佇んでいる見知らぬ少女の姿が映り込んだ。
この場で他所者らしき姿を見たのは初めてのことだった。
小さな村なので、同じ年頃であれば顔を見ればもちろんのこと、姿かたちでさえも、どこの誰であるかわかるはずだったが、彼にはいっこうに見当が付かなかった。
横顔しか見えなかったが、背丈から、何となく同じ年頃を想像するのが精々だった。
――誰だろう?
この小さなハプニングに興味をそそられた洋平は、少女を凝っと見つめていた。
すると、視線を感じたのか、少女が顔を洋平に向けた。
その瞬間、洋平は息を飲み込んだまま、しばらく呼吸を忘れてしまった。
これまでにない強烈な衝撃だった。まるでこの季節、紺碧の空に突然雷鳴を轟かす稲妻を身体に受けたかのような……。
麗しい少女だった。
山野に咲く一輪の山百合のように凛としていながら、それでいて砂浜に光る一片の桜貝のような清純な美しさを秘めていた。美人に有りがちな、ツンと澄ましたところがなく、むしろやや短めの髪と、ジーンズの短パンにTシャツ、そして野球帽という出で立ちとが相まったボーイッシュな感じが、美少女の端整な顔立ちを一層凛々しく魅せていた。
さらにその美貌には、片田舎にはなじまない洗練された雰囲気も加わっていて、まさに可憐という表現は、この美少女のことを言うのだろう、と洋平には思えた。
ただ、彼女が醸し出す都会的なオーラは、地方の田舎育ちの洋平にはとても新鮮な反面、その透き通るような白い肌が真夏の季節と相反し、少しひ弱く感じられ、多少の違和感も覚えた。
そのせいだろうか、横顔を見たときより少し大人びたように見え、洋平は自分より年上かもしれない、と思い直した。村の子供であれば、小浜へは小学生しか行かないのだが、他所者の彼女であれば、たとえ中学生であっても小浜で泳ぎたいのだろう、と彼は勝手に想像した。
お互いに見つめ合う時間がしばらく続いた後、美少女は洋平に柔らかな笑みを投げ掛けた。そこには、何か彼女の内なる意思のようなものが感じ取れたが、むろんそれが何であるか、このときの洋平にわかるはずもなかった。
彼女に見とれていた洋平は、はっとして我に返り、急に照れくさくなって、思わず顔を背けた。そのとき、律子のふてくされた顔が目に入ったが、意に介する余裕など洋平にはなかった。
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