鈴蛍

久遠

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 引率者によって参加人数が確認された後、縦一列になって出発した。引率者は、先頭と中央、そしてしんがりを歩き、子供たちは上級生と下級生が交互になるように列を組んだ。
 小浜へは海沿いの道を通って行くことになる。
 途中から道幅は狭くなり、やがて人が一人だけ通れる狭さになって行く。 
 右手には波が足元まで迫っており、左手には村人によって一度は刈られていたものの、夏の光を十分に浴びて、早くも鬱蒼と伸びた雑草が、所々行く手を遮るように迫り出している。
 こうした道を、海に落ちないようにと、上級生は下級生の手をしっかりと握り、雑草を払いながら歩いて行くのである。
 その道すがら、洋平の心を後悔と不安が襲っていた。
 集合場所で美少女が笑みを浮かべたとき、無愛想に顔を背けてしまった後悔と、そのことで彼女が悪い印象を持ったのではないだろうかという不安だったのだが、やがてそれらは、微笑み返すという勇気も機転もない彼自身への失望へと変わっていった。   
 小浜に着くと、人数の確認を行い、着替えをして全員で準備体操を行う。着替えといっても、皆すでに自宅で水着に着替えており、その上にシャツを着て、あとは麦藁帽子を被るぐらいのことだったので、手間は掛からない。
 洋平は、いつものように、一人だけ皆と向き合っていた。
『一、二、三、四……』と号令しながら、準備体操の先導をするためだ。彼は、小学校のリーダー的な存在であり、このようなことには慣れていた。したがって、普段であれば取るに足りないことなのだが、このときばかりは、美少女の視線が少なからず羞恥心を呼び起こしていて、自分でもぎこちない動作であることがわかっていた。
 準備体操が終わると、笛の合図で海に入ることができた。
 小浜は、直径が四十メートルほどの半円の形をしていて、遠浅の砂浜だった。
 三十メートルほど沖に、五メートル間隔でブイが置いてあり、そこから沖へ行くことは禁じられていた。ブイが置いてあるところは、水深が二メートルぐらいあり、泳ぎが上手な者しか行かなかった。
 この頃の洋平は、叔父や従兄の、サザエやあわびの素潜り漁に同行することもあり、泳ぎには覚えがあったので、いつもブイの付近で潜水の稽古などをしていた。
 東の沖に防波堤があり、小浜のさらに先にある「小戸(おど)」という磯で泳いでいる中学生は、その防波堤までの二百メートルほどの距離を、己の泳ぎの達者なことを誇示するかのように何度も往復していた。
 洋平は、『自分もあのように泳げる』という自信はあったが、祖父の許しが出ておらず、彼らの姿を見る度に、来年の夏こそは必ずや真っ先に遠泳を決行しよう、と心に決めていた。
 洋平は、いつものようにブイの付近で泳ぎながら、素知らぬふりで美少女の姿を追っていたが、彼女はわずかな時間、しかも水際で両足をバタつかせていただけで、すぐ浜に上がって休んでいた。
 洋平は、きっと彼女は泳ぎが苦手なのだろうと思っていた。

 四十分経つと、休憩の笛が鳴った。
 美少女は、皆と離れた浜の一番東側で、一人で膝を抱えて座っていた。その、物憂げに海を見つめていた彼女の姿が印象的だった。
 洋平は皆の近くで休んだ。彼女に歩み寄り、話し掛ける勇気などあるはずもなかったのである。
 ところが、洋平の心が突如革命を起こし始めた。
 何かに突き動かされるように、美少女に近づきたいという欲求が沸々と滾り始めたのである。彼が生まれて初めて異性を意識した瞬間だった。
 そうは言うものの、直ちに欲求が行動に移されることはなかった。未だ、この場の衆目を集めることへの躊躇いが完全に消え去ってはいなかったし、どこかに律子に対する後ろめたさもあった。
 洋平は、海老が脱皮するように、心を雁字搦めにしている古い殻を脱ぎ捨てるべく、葛藤していたのである。
 その洋平の目の端に、数人の少年たちが美少女の方をやりながら、何やら策を巡らしている様子が入ってきた。どうやら、異性に目覚めてしまったのは洋平だけではなかったようである。
 謎の美少女を取り囲む状況は、洋平が思う以上に風雲急を告げていた。
 そして、それを裏付けるかのように、さっそく新たな展開が、逡巡する彼に決断を迫ってきた。彼の視界に、かの少年たちの中から、美少女に近づいて行く誰かの姿が飛び込んで来たのだ。
――しまった! 先を越されたか……。
 不意を突かれた洋平は、心にざわめき覚えながら、すぐさま少年の後姿を目で追った。
 ざわめきは、ひとまず収まった。
 洋平には、その少年が誰であるかわかったからだ。後姿もそうだが、純朴で引っ込み思案な田舎育ちの少年らの中にあって、周囲の目を気にすることなく奔放な行動を取れるのは、彼の知る限り一人しかいなかった。
 その少年とは、大変に明るくひょうきんで、いつもクラスメートの笑いの中心にいる同級生の善波修吾(ぜんなみしゅうご)である。彼の性分をよく知る洋平は、彼にすれば美少女の気を引こうなどというような大それた考えは毛頭なく、ただ見知らぬ美少女に、好奇な興味を抱いたに過ぎないと確信できたのだった。
 ところが修吾の大胆な行動は、洋平に彼の口から美少女の素性を漏れ聞く事ができるかもしれないという期待と共に、その美しさからすれば、今度は彼女の気を引こうとする輩がいつまた現れるやもしれぬという焦りも呼び起こすことになった。
 我が身を思えば、同様の恋敵が雲霞の如く現れても、何の不思議もないと思ったのである。
 修吾はほんの二言三言、言葉を交わしただけですぐに引き返し、美少女に興味を持った仲間に報告をし始めた。洋平は耳をそばだてていたが、あいにく彼らとの間にいた下級生の騒ぎ声に掻き消されて、何も聞こえず仕舞いに終わった。
 彼女の身上について、何の手掛かりすら得ることができなかったことで、洋平の心には焦りだけが残ることになった。
 一方で、律子は洋平の背を見つめながら、彼の心の動きを読み取っていた。だが、突然の宿敵の登場に、怪しい雲行きを感じながらも、成り行きを見守ることしかできない自分自身にもどかしさを覚えるしかなかった。

 十分間の休憩が終わり、再び海の中に入って行った。
 洋平はいつものように、沖のブイのところで泳いでいたが、次の休憩時間が近づくにつれて、東側に移動して行った。
 彼には、ある一つの考えが浮かんでいたのである。
 それは、次の休憩のとき、美少女が先ほどと同じ場所で休むと想定して、東側で泳いでいれば、真っ直ぐ浜へ泳いで戻り、そのまま彼女の近くに座っても、ごく自然な行動に映るのではないか、というだった。
 情けないようにも映るが、この頃の洋平は万事において、常に周囲の目というものを気にする小心者だった。恵比寿家の総領という、良くも悪くも事あるごとに世間の話題の俎上に載る立場にあった彼は、日頃より軽挙妄動を戒め、自らに箍を嵌めていた。
 そうすることで、いつしか慎重の度を超えて、臆病になっていたのである。
 そう考えれば、このとき洋平が少なくとも勇気を出す決意をしたことは、彼の成長でもあったろう。
 修吾の取った行動が燻っていた彼の心に火を点けただけでなく、修吾がすでに美少女に話しかけたという事実が、彼に免罪符を得たような気にさせていたのかもしれない。
 起因は何であれ、ともかく洋平が異性に対して、このような感情を抱くことは初めてであり、ましてや行動にまで移そうとするなど、彼自身ですら信じられることではなかったと言えよう。まさに、何者かに憑依されていたとしか言いようがなかった。
 彼の心中は、笛の音が待ち遠しい気持ちと、初めての試みに、一種の畏れにも似た躊躇いが混在していた。

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