鈴蛍

久遠

文字の大きさ
13 / 64

第五章 初恋成就(1)

しおりを挟む
 寺本隆夫の存在は、洋平の心にはっきりと暗い影を落としていた。
 洋平は、隆夫が遥か以前から美鈴と単なる知り合いという以上の親密な間柄だということを妬み、二人が親戚関係にあるという現実を羨んだ。つまり彼は、血脈という自身がどのように足掻いても得られない美鈴との特別な関係性を隆夫が有していることに嫉妬したのである。
 洋平は、これまでに経験したことのない焦燥感を味わっていた。美鈴を隆夫に奪われるかも知れないという不安に苛められていた。彼はこれまで、何不自由なく育てられ、欲しいものがあれば、たいていの物は手に入れてきた。だが今度ばかりは、恵比寿家の権威と祖父の助力も当てにはならなかった。
 唯一、己の力のみが試されるのである。しかも競う相手が、日頃自分が適わないと感じていた隆夫だっただけに、その不安は一層強いものとなっていた。
 心を広く靄が覆っていた。この重苦しい憂いは、当分晴れそうもないと洋平は自覚していた。

 翌日、洋平の焦燥感に拍車が掛かる事態になった。美鈴から連絡があり、恵比寿家には来られないというのだ。
――隆夫と一緒にいるのだ。
 洋平は、そう確信した。
 昨日の今日であれば、そう思っても無理はなかった。それでも洋平は、気を取り直し、他の理由を考えてみたが、気休めにしかならなかった。洋平は、久しぶりに会った親戚同士なら、一日ぐらいは当然の成り行きなのかもしれないと自分自身に言い聞かせた。
 だが翌日になって、この淡い望みも儚く消えた。美鈴はこの日も家にやって来ることがなかったのである。
 洋平は心に光を失ったまま、悶々とした時間を過ごさねばならなかった。
――彼女の心は、隆夫の許に移ってしまったのか……?
 疑念から生まれる失望は、洋平の忍耐を容赦なく駆逐した。そして、このまま悪い想像ばかりを働かし、手を拱いていても、この心の痛みから逃れることはできない、という思いが増幅していった。
 追い込まれた洋平は、プライドをかなぐり捨て、真実を確かめる行動に打って出た。無我夢中で家を飛び出した彼は、隆夫の家の壁伝いを徘徊し、盗人のように中を窺ったのである。
 誰かが通り掛かる度に、すぐ先にある駄菓子屋に駆け込み、人影が無くなったと見るや、また表に出て行くという怪しげな行動を繰り返した。洋平は、およそ恵比寿家の総領に有るまじき惨めな行為も全く厭わなかった。
 幸いだったのは、駄菓子屋の老夫婦とは物心が付いた頃から、昵懇の仲であったため、彼の不審な行動にも、きっと何か事情があってのことなのだろうと好意的に受け止め、黙認してくれたことだった。
 挙動不審な動きを繰り返して三十分が経った。
 突如、隆夫の家の中から、男女二人の笑い声が漏れてきた。大声を上げているのは、明らかに隆夫であり、もう一人の少女の声は美鈴のように聞こえた。微かな声でよく聞き取れず、断定することはできなかったが、冷静さを欠く洋平には、何者の声であれ、彼女のものとして耳に入り込んでいた。
 洋平は、真っ暗な奈落の底に突き落とされた。彼の舞い上がった想いは、美鈴と出会った日に張り巡らした予防線をとうの昔に乗り超えており、彼女を失った失望は、広げていた安全網をいとも簡単に突き破ってしまったのだった。
 洋平が生まれて初めて、世の中には自分の思い通りにならない事がある、ということを思い知らされた瞬間だった。

 こうして苦悶に満ちた二日間が過ぎた。
 次の日の朝になって、三日ぶりに彼女が恵比寿家に訪れることになったのが、洋平の心境は複雑だった。何かの間違いで、まだチャンスが残っているかも知れないという期待と、最後通告を受けたときの絶望とを秤に掛け、戸惑っていたのである。
 天秤は絶望の方に傾いていた。連絡のあった時刻を過ぎても、美鈴は姿を現さなかったのだ。大工屋で何かあれば、再び連絡があるはずであるから、道中で何かあったに違いないと確信した。
 洋平は悪い予感に、不安が急速に広がっていくのがわかった。居た堪れない洋平は、門前の通りをうろつきながら、いつ来るやも知れぬ美鈴を待っていた。ほんの数分間が永遠のように彼を苦しめた。
 彼が何度目かに、海岸通りの方へ振り向いたときだった。前方から、彼女が誰かと話しながら歩いて来る光景が目に飛び込んできた。
 洋平は悄然として、その場に立ち竦んだ。悪い予感は的中した。美鈴と肩を並べていたのは、まさに隆夫だったのである。こうして遠くから眺めると、悔しいけれども、身体の大きい隆夫は美鈴とお似合いである。
 しかも彼女は、照れくさそうにしながらも満面の笑みを浮かべている。自分には見せたことのない、その表情を目の当たりにしたとき、洋平は完全に彼女を奪われたと思った。
 心から不安が跡形もなく消え去り、入れ替わるようにして、嫉妬心が再び頭を擡げた。
 洋平は、何か恐ろしいものと出会ったときのように、門の中に駆け込み、我が身を隠そうとした。だが、一足早く二人の目に留まってしまい、その試みはできなくなった。
「よう、総領さん。ちゃんと美鈴を送り届けたけんな」
 近づいて来た隆夫は一瞥すると、口元に冷笑を浮かべながら洋平の前を通り過ぎ、足早に去って行った。
 その言い草が洋平の癇に障った。まるでナイト気取りだったからだ。しかも、普段隆夫は『洋平』と呼び捨てにしており、彼がこのような物言いをするときは、精神的な高みに立っているときと決まっていた。どう見ても、明らかに勝ち誇った素振りだったのである。
 転瞬、洋平の嫉妬心は怒りに変わった。
 しかも、嫉妬の深さに比例した甚大な憤怒の鉾先は、隆夫にではなく美鈴に向けられた。洋平は、理不尽だと理解しながらも、彼女が自分を裏切ったような思いになっていたのである。
「美鈴ちゃん、悪いけんど、今日は一緒に居られんけん。お祖父ちゃんの用で、これから一緒に街に出かけるけん、このまま帰ってくれるかあ」
 洋平は、口からでまかせを言ってしまった。
 思いも寄らない言葉に、美鈴の表情が一瞬にして強張ったのがわかった。
 彼女は、心を落ち着かせるように、一つ息を呑んでから、
「私も一緒に行っちゃだめ?」
 と縋るように訊いた。
「そりゃあ無理だけん。だって遊びに行くんじゃないけん。うちの用事で行くのだけん。美鈴ちゃんはうちとは関係ないがな」
 洋平は、きわめて冷たく言い放った。まるで心の中に悪魔が忍び込んでいるかのように……。
「……」
 彼女は無言のまま、とぼとぼと歩き出した。
――おらを裏切った報いだ。
 その憔悴した後姿に、洋平は爽快感を抱いた。 
「おらは明日も用事があるけん、うちに来んちょってな」
 洋平は彼女の背中越しに、追い討ちを掛けるように言った。もはや美鈴に振り向く気力はなく、うな垂れたまま帰って行った。
 しばらくは爽快感に浸っていた洋平だったが、時が経つにつれて、後悔の念に変わっていった。美鈴を斬り付けたはずの言葉の刃は、その切っ先を返し、何倍も鋭い切れ味で、彼自身の心を切り裂いたのだった。 
――おらはなんという狭量な人間なのだろう。
 美鈴を隆夫に盗られたのではないかという焦燥感。
 美鈴が隆夫と一緒に歩いていたことに対する嫉妬心。
 隆夫の挑発的な物言いに対する怒りを隆夫本人ではなく、全く非のない美鈴に向ける卑怯な行為。
 そして、気を落とす彼女を見て、爽快な気分になる下劣さ。
 自分はこれほど陋劣な人間だったのか。
 これほど自分勝手で心の卑しい人間なのか。
 洋平は、ほとほと自分自身に呆れ果て、自己嫌悪に苛まれていた。
 恵比寿家の総領として生まれ、家族の寵愛を一身に受けて育ってきた。その結果、いつの間にか、心の中に歪な自己顕示欲と独占欲が萌芽し、それを満足せんとして、劣等な精神に冒され、このような愚行に走ったのかもしれない。
 総領として受けていたはずの厳しい躾も、この体たらくからすれば、何ほどのものであったか、と洋平は自分自身に失望した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜

丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。 与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。 専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、 失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。 そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、 セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。 「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」 彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、 彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。 嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、 広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、 独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。 栄養と愛情を取り戻したセレナは、 誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、 社交界で注目される存在となる。 一方、セレナを失った伯爵家は、 彼女の能力なしでは立ち行かず、 ゆっくりと没落していくのだった――。 虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ホウセンカ

えむら若奈
恋愛
☆面倒な女×クセ強男の不器用で真っ直ぐな純愛ラブストーリー! 誰もが振り返る美しい容姿を持つ姫野 愛茉(ひめの えま)は、常に“本当の自分”を隠して生きていた。 そして“理想の自分”を“本当の自分”にするため地元を離れた大学に進学し、初めて参加した合コンで浅尾 桔平(あさお きっぺい)と出会う。 目つきが鋭くぶっきらぼうではあるものの、不思議な魅力を持つ桔平に惹かれていく愛茉。桔平も愛茉を気に入り2人は急接近するが、愛茉は常に「嫌われるのでは」と不安を抱えていた。 「明確な理由がないと、不安?」 桔平の言葉のひとつひとつに揺さぶられる愛茉が、不安を払拭するために取った行動とは―― ※本作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。 ※イラストは自作です。転載禁止。

幸せのありか

神室さち
恋愛
 兄の解雇に伴って、本社に呼び戻された氷川哉(ひかわさい)は兄の仕事の後始末とも言える関係企業の整理合理化を進めていた。  決定を下した日、彼のもとに行野樹理(ゆきのじゅり)と名乗る高校生の少女がやってくる。父親の会社との取引を継続してくれるようにと。  哉は、人生というゲームの余興に、一年以内に哉の提示する再建計画をやり遂げれば、以降も取引を続行することを決める。  担保として、樹理を差し出すのならと。止める両親を振りきり、樹理は彼のもとへ行くことを決意した。  とかなんとか書きつつ、幸せのありかを探すお話。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 自サイトに掲載していた作品を、閉鎖により移行。 視点がちょいちょい変わるので、タイトルに記載。 キリのいいところで切るので各話の文字数は一定ではありません。 ものすごく短いページもあります。サクサク更新する予定。 本日何話目、とかの注意は特に入りません。しおりで対応していただけるとありがたいです。 別小説「やさしいキスの見つけ方」のスピンオフとして生まれた作品ですが、メインは単独でも読めます。 直接的な表現はないので全年齢で公開します。

隠れた花嫁を迎えに

星乃和花
恋愛
(完結済:本編8話+後日談1話) 結婚式を控えた同居中の婚約者・リリィには、ひとつだけ困った癖がある。 それは、寝癖が直らないだけで、角砂糖を落としただけで、屋敷のどこかに“こっそり”隠れてしまうこと。 けれど、完璧超人と噂される婚約者・レオンは、彼女が隠れるたび必ず見つけ出し、叱らず、急かさず、甘く寄り添って迎えに来る。 「本当に私でいいのかな」——花嫁になる前夜、ベッドの下で震えるリリィに、レオンが差し出したのは“答え”ではなく、同じ目線と温かな手だった。 ほのぼの王都、屋敷内かくれんぼ溺愛ラブ。 「隠れてもいい。迎えに行くから。」

Emerald

藍沢咲良
恋愛
教師という仕事に嫌気が差した結城美咲(ゆうき みさき)は、叔母の住む自然豊かな郊外で時々アルバイトをして生活していた。 叔母の勧めで再び教員業に戻ってみようと人材バンクに登録すると、すぐに話が来る。 自分にとっては完全に新しい場所。 しかし仕事は一度投げ出した教員業。嫌だと言っても他に出来る仕事は無い。 仕方無しに仕事復帰をする美咲。仕事帰りにカフェに寄るとそこには…。 〜main cast〜 結城美咲(Yuki Misaki) 黒瀬 悠(Kurose Haruka) ※作中の地名、団体名は架空のものです。 ※この作品はエブリスタ、小説家になろうでも連載されています。 ※素敵な表紙をポリン先生に描いて頂きました。 ポリン先生の作品はこちら↓ https://manga.line.me/indies/product/detail?id=8911 https://www.comico.jp/challenge/comic/33031

悪役令嬢ですが、二度目は無能で通します……なので執事は黙っててください

放浪人
恋愛
社交界で“悪女”と呼ばれ、無実の罪で断罪された公爵令嬢リディア。 処刑の刃が落ちた瞬間、彼女は断罪される半年前の朝に時を遡っていた。 「二度目も殺されるなんて御免だわ。私は、何もできない無能な令嬢になって生き延びる!」 有能さが仇になったと悟ったリディアは、プライドも実績も捨てて「無能」を装い、北の辺境・白夜領へ引きこもる計画を立てる。 これで平和なスローライフが送れる……はずだった。 けれど、幼い頃から仕える専属執事・レージだけは誤魔化せない。 彼はリディアの嘘を最初から見抜いているくせに、涼しい顔で「無能な主人」を完璧に演じさせてくれないのだ。 「黙っててと言いましたよね?」 「ええ。ですから黙って、あなたが快適に過ごせるよう裏ですべて処理しておきました」 過保護すぎる執事に管理され、逃げ道を塞がれながらも、リディアは持ち前の正義感で領地の危機を次々と救ってしまう。 隠したいのに、有能さがダダ漏れ。 そうこうするうちに王都からは聖女と王太子の魔の手が迫り――? 「守られるだけはもう終わり。……レージ、私に力を貸しなさい」 これは、一度死んだ令嬢が「言葉」と「誇り」を取り戻し、過保護な執事の手を振りほどいて、対等なパートナーとして共に幸せを掴み取るまでの物語。

恋に異例はつきもので ~会社一の鬼部長は初心でキュートな部下を溺愛したい~

泉南佳那
恋愛
「よっしゃー」が口癖の 元気いっぱい営業部員、辻本花梨27歳  ×  敏腕だけど冷徹と噂されている 俺様部長 木沢彰吾34歳  ある朝、花梨が出社すると  異動の辞令が張り出されていた。  異動先は木沢部長率いる 〝ブランディング戦略部〟    なんでこんな時期に……  あまりの〝異例〟の辞令に  戸惑いを隠せない花梨。  しかも、担当するように言われた会社はなんと、元カレが社長を務める玩具会社だった!  花梨の前途多難な日々が、今始まる…… *** 元気いっぱい、はりきりガール花梨と ツンデレ部長木沢の年の差超パワフル・ラブ・ストーリーです。

処理中です...