鈴蛍

久遠

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「ねえ、洋君。蛍、どうしても無理かな」
 縋るような眼差しだった。
「誰か大人の男の人が付いて行けば、もしかしたら行けえかも知れんけんど、でもうちは、お父ちゃんは仕事だし、お祖父ちゃんも無理だけん」
「うちも、祖父ちゃんと叔父さんの二人は、夕食が終わってからも、作業場に行って仕事をしているみたい」
「親戚の叔父さんたちも無理だろうなあ……」
「でも、どうしても観たい。やっぱり二人だけで行けないかなあ」
 美鈴は諦めが付かないようだった。しかし、洋平にはどうすることもできなかった。
「そいは絶対無理だけん。おらも行ったことないんだよ。場所は隆夫に教えてもらうけんど、もし道に迷ったら大変な騒ぎになるけん。第一、いったいどげして夜に家を出るっていうだあ」
「それは……」
 美鈴は言葉に詰まった。
「ねえ、鈴ちゃん。今年は諦めて、次の機会にしょいや。中学生か高校生になったら、二人だけでも行けえけん」
 慰めのつもりだったが、意に反して彼女の表情を険しいものに変えた。
「次じゃだめ。どうしても今年行きたいの!」
 初めて聞く強い口調だった。それが洋平の心に不安の波紋を広げた。
「何で次じゃいけんのかな? なにか特別な理由でもあるだか」
「特別な理由なんかないけど、どうしても今年観ておきたいの」
 勝気とも負けず嫌いとも違う頑なな態度に、洋平の不安は増幅されていった。
「言っちょくけんど、おらの鈴ちゃんへの気持ちはずっと変わらんけん。だけん、今年無理せんでも、来年でも再来年でも何時でも二人で行けがな。それとも、鈴ちゃんは、おらに対する気持ちに自信がないだか」
 ううん……と美鈴は首を横に振った。
「そんなことはない。私の気持ちも絶対に変わらないよ」
 そう断言した美鈴だったが、俯いた表情に陰影が射していた。
 彼女は呟くように言葉を継いだ。
「私が拘っているのは、そんなことじゃないの……」
 その思い詰めた物言いに、洋平は見当違いの不安だったことに気付いた。
「そんなら、なんなの? なんで、そがいに今年に拘るだ」
「ええと……、それは次だと……、それは……、そう、次に大雪なるのはいつかわからないでしょう」
 途切れ途切れの言葉は、洋平にも苦し紛れだとわかった。たったいま、気持ちは絶対に変わらないと言ったばかりである。そうであるなら、次の大雪の年を待てば良いのだ。むしろその方が、二人も大人になっていて都合が良いはずである。
「そいは今年も同じだが。いくら大雪が降ったといっても、今年だって必ず蛍が居るかどうかわからんがな。だけん、次の機会に延ばしても同じじゃないかな……」
 美鈴には乗り気がないと映ったのだろうか、いっそう語気が強まった。
「だから、今年に行っておきたいの。次の機会なんてどうなるかわからないでしょう? 必ず蛍狩りに行けるとは限らないし、ダム工事の影響だって出るかもしれないし、相手は自然なんだから、大雨でも降ったら蛍は全滅しちゃうじゃない。どっちにしても、次に必ず蛍を観られる保障なんてどこにもないんだよ。もし、次の機会に観られなかったら、きっと洋君も後悔すると思うよ」
「まあ、そりゃあ、鈴ちゃんの言う通りだけんど……」
「洋君。今年も次の機会も、ううん、来年も再来年もその先も、毎年二人一緒に行ってみれば良いじゃない。そうすれば、後悔なんかしないでしょう。とにかく私は一度思い立ったことを先延ばしにするのが大嫌いなの」
「……」
 その気迫に満ちた口調に洋平は返す言葉が見つからなかった。
 美鈴が続ける。
「洋君、どうせ同じことをいつかするなら、思い立ったときに行動する方が良いよ。思い切ってすぐに行動してする後悔より、先延ばしにしてする後悔の方がずっと大きいと思う」
 気迫に満ちた口調だった。説得力もあった。これまでも美鈴の言葉の端々から意志の強さを窺い知ることはあったが、これほど強固な態度は初めてだった。
 洋平は、もう一度考えを巡らした。しかし、どうしても夜に二人で家を抜け出す手段で行き詰まった。

「二人ともご苦労さんだったね」
 縁側に笹竹を置いたとき、見計らったように奥から里恵が冷えたぜんざいを持って来た。里恵は、度々洋平の好物のぜんざいを作ってくれた。冬は熱いまま、夏は冷やして食した。
 さっそく箸を付けた洋平を他所に、美鈴は里恵に切実な心情を吐露した。
「おばさん、隆夫君に蛍の話を聞いて、夜に山へ見に行きたいのですが、洋君が無理だって言うんです。でも私、どうしても、どうしても観に行きたんです」
「あらあら、美鈴ちゃん……どげしたかい、そんなに思いつめた顔をして……」
 事情が良く飲み込めない里恵に、洋平は隆夫から聞いた話を詳しく伝えた。
「なるほど、そういうことかね。夜に山へねえ。けんど、誰かが付いて行くと言っても、うちの親戚は皆漁師だけん、海に出ていて居らんしねえ」
 里恵もそう言ったきり考え込んでしまった。
 洋平は、やはり無理なのだろうと思った。沈鬱な空気が支配する中、庭で鳴く油蝉とミンミン蝉の合唱が、殊の外耳障りな雑音となって届いていた。
 洋平が美鈴に諦めさせる適当な言葉を模索し始めたときだった。
 里恵が意外な言葉を吐いた。
「ここは一つ、隆夫君に頼むしかないわね」
「え? 隆夫」
 洋平は思わず顔を顰めた。
「隆夫君は場所を知っちょうのでしょう。だったら、まだ安心じゃない」
 里恵は委細構わず言い切った。
 たしかに考え得る一つの方策ではあったが、隆夫に対するわだかまりが、完全に払拭されたわけではなく、洋平は気が進まなかった。
 美鈴はじっと洋平を見つめていた。
 洋平は彼女が何を訴えたいのかわかっていた。
 洋平は迷いに迷ったが、ただ黙って切々と望みを訴えている美鈴を見ているうち、彼女に蛍を見せてやりたいと思う気持ちが、隆夫へのわだかまりを駆逐していった。
「おら、隆夫に頼んでみる」
 洋平は決然と言った。
 すると、彼の口元を注視していた美鈴がすかさず、
「私も一緒に行く」
 と訴えたが、
「いや、鈴ちゃんはうちで待ちょって、おら一人で行って来るけん」
 と、洋平は押し止めた。
 このとき洋平は、一度隆夫に頼むと決めたからには、土下座をしてでも、必ずや承諾を得ようと思っていた。美鈴にはそのような惨めな姿を見られたくはなかったし、なにより彼女が傍にいれば、隆夫に対して素直になれなくなるかも知れないと案じたのだった。
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