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洋平が大伯母トラとの対決を決意するまで、多くの時間を要しなかった。良き理解者である洋太郎と里恵も当てならない以上、彼には直談判するより他に手立てがなかったのである。
トラは、美保浦から大きな峠を越えて南に下り、そこから東へ五キロ行き、再び大きな峠を越えて北に上がった『片田(かただ)』という、美保浦に匹敵する村の『船屋』に嫁いでいた。船屋は、その名のとおり船の建造や修理をするドックを生業としていて、漁業で成り立っているこの界隈の分限者だった。
恵比寿水産がこれといった支障もなく順調に発展していったのも、トラが当時船屋の当主だった夫、つまり洋太郎の義兄を通じて、各方面に根回しをしていたことも大きな要因となっていた。祖父洋太郎が彼女に頭が上がらないのは、この辺りにも原因があるのだろうと洋平は推察していた。
さて、思案すべきはどうやって片田へ行くかであった。
路線バスはあったが、直通は無く、乗換えを含めると片道二時間も掛かったうえに、洋平は一度もこの方面のバスへ乗ったことがなかった。しかも、一人でバスに乗っていれば、不審を抱いた誰かが余計な気を回して、恵比寿家に連絡をするかもしれない。
洋平は、自分の思惑を前もってトラに知られたくなかった。彼女は、まさか従順だった自分が直談判に訪れるとは夢にも思っていないだろう。彼は、トラの虚を付きたいと思っていたのである。
洋平は、海岸線沿いの山道を歩いて行くことにした。四キロ足らずの距離なので、一時間ほどで辿り着くことができる近道である。
しかも、洋平はその道を良く知っていた。片田へ行く途中に、アケビや栗の穴場が数多くあったので、毎年秋になると、頻繁にそれらを採りに行っていたからである。
ただ、いくつか問題もあった。栗取りは、いつも友人や下級生ら七、八人と連れ立っており、一人きりで歩いたことは一度もないということ。そして最大の難所、別名『蝮沢(まむしざわ)』と呼ばれる、蝮が繁殖する沢を通らなければならないということだった。
洋平の耳には、沢には蝮がうようよしているという噂も入っていたため、これまでに渡ったことは一度もない。沢の先にアケビや栗の穴場があっても、決して近づいたことはなかったのである。
だが、洋平の決意は揺るがなかった。
トラとの直談判が避けられないように、蝮沢の踏破も越えなければならない試練だと腹を据えたのである。
翌日、午前の勉強を済ませると、洋平は美鈴に理由を話して大工屋へ帰し、釣り道具を手にして片田へと向かった。片田は小瀬へ行く道筋の先にあったので、釣り道具を手にしていても、誰も疑うことがないし、蝮沢の備えとして長靴も履けると計算したうえでのことだった。
熟知した道とはいえ、山道の一人歩きは、結構勇気がいるものである。
片田までのほとんどの道幅が、人一人が通れるほどの狭さで、しかも小瀬を過ぎた辺りからは、至る所でそれをも塞ぐように雑草が生い茂っており、場所によっては足元どころか、前方が全く見えないところもあった。おまけに、木々の密集しているところは灼熱の日差しをもすっかり閉ざし、夕闇のように薄暗くて気味が悪い。
洋平が足元に注意しながら、緩い坂を下っていくと、ふいに水の音が聞えてきた。
――蝮沢だ。
洋平の背筋に緊張が奔った。そして、いよいよ蝮沢かと思った途端、とぐろを巻く夥しい数の蝮が脳裏に浮かび、足が竦んで動けなくなった。立ち止まっていれば、余計危ないとわかっていても、まるで金縛りにあったように一歩が踏み出せない。
――このまま引き返そうか。
と弱気が心を覆い始める。前にも踏み出せず、後ろにも引けず、洋平が逡巡していると、前方でガサッという音がした。
その刹那、洋平は踵を返していた。
――情けない、情けない……。
と唇を噛み締めながら、早足で戻って行った。
小さな峠を越えると、美保浦の景色に戻った。視線の先には、小瀬が見えていた。見慣れた風景なのに、なぜか懐かしさを覚えた洋平の瞼に、ふいに美鈴の笑顔が浮かんだ。彼女のはしゃぐ声も聞えたような気がした。
――よし、もう一度挑戦しよう。
洋平は、身体に力が漲ってくるのを感じた。
洋平は、再び片田へ向け力強く歩みを進めた。また水の音がしたが、今度は怯まなかった。それこそ、呼吸も忘れるほど無我夢中で蝮沢を走って渡った。蝮がいたかどうかもわからないほど、一目散に走り切った。
蝮沢が背に遠くなると、どっと疲れが襲ってきた。だが、道のりはまだ半ばである。洋平は立ち止まって、二、三度深呼吸をして息を整えると、片田へと歩き出した。
時計を持っていなかったので、確かな時間はわからなかった。ただ、歩いた距離の感覚で、本能的に片田が近いことを肌に感じていると、峠の頂上に立ったところで、急に視界が広がり、紺碧の海が目に飛び込んで来た。
――片田の海だ。
これまで一度も見たことはなかったが、洋平はそう確信した。
片田の海の表情は、美保浦のそれとは違っていた。東向きの美保浦湾と違い、北向きの片田湾は、波の向きに加えて光の当る海面の反射角が違うからなのだろう。
村人に場所を訊き、どうにか船屋に着いた。さすがに、この界隈有数の分限者だけのことはあって、恵比寿家に勝るとも劣らないほどの立派な屋敷だった。
洋平は深呼吸を一つすると、眦を決して門を潜った。
「こんにちは!」
洋平は玄関先に立ち、まるで宣戦布告でもするかのように、ことさら大きな声を上げた。
トラは、美保浦から大きな峠を越えて南に下り、そこから東へ五キロ行き、再び大きな峠を越えて北に上がった『片田(かただ)』という、美保浦に匹敵する村の『船屋』に嫁いでいた。船屋は、その名のとおり船の建造や修理をするドックを生業としていて、漁業で成り立っているこの界隈の分限者だった。
恵比寿水産がこれといった支障もなく順調に発展していったのも、トラが当時船屋の当主だった夫、つまり洋太郎の義兄を通じて、各方面に根回しをしていたことも大きな要因となっていた。祖父洋太郎が彼女に頭が上がらないのは、この辺りにも原因があるのだろうと洋平は推察していた。
さて、思案すべきはどうやって片田へ行くかであった。
路線バスはあったが、直通は無く、乗換えを含めると片道二時間も掛かったうえに、洋平は一度もこの方面のバスへ乗ったことがなかった。しかも、一人でバスに乗っていれば、不審を抱いた誰かが余計な気を回して、恵比寿家に連絡をするかもしれない。
洋平は、自分の思惑を前もってトラに知られたくなかった。彼女は、まさか従順だった自分が直談判に訪れるとは夢にも思っていないだろう。彼は、トラの虚を付きたいと思っていたのである。
洋平は、海岸線沿いの山道を歩いて行くことにした。四キロ足らずの距離なので、一時間ほどで辿り着くことができる近道である。
しかも、洋平はその道を良く知っていた。片田へ行く途中に、アケビや栗の穴場が数多くあったので、毎年秋になると、頻繁にそれらを採りに行っていたからである。
ただ、いくつか問題もあった。栗取りは、いつも友人や下級生ら七、八人と連れ立っており、一人きりで歩いたことは一度もないということ。そして最大の難所、別名『蝮沢(まむしざわ)』と呼ばれる、蝮が繁殖する沢を通らなければならないということだった。
洋平の耳には、沢には蝮がうようよしているという噂も入っていたため、これまでに渡ったことは一度もない。沢の先にアケビや栗の穴場があっても、決して近づいたことはなかったのである。
だが、洋平の決意は揺るがなかった。
トラとの直談判が避けられないように、蝮沢の踏破も越えなければならない試練だと腹を据えたのである。
翌日、午前の勉強を済ませると、洋平は美鈴に理由を話して大工屋へ帰し、釣り道具を手にして片田へと向かった。片田は小瀬へ行く道筋の先にあったので、釣り道具を手にしていても、誰も疑うことがないし、蝮沢の備えとして長靴も履けると計算したうえでのことだった。
熟知した道とはいえ、山道の一人歩きは、結構勇気がいるものである。
片田までのほとんどの道幅が、人一人が通れるほどの狭さで、しかも小瀬を過ぎた辺りからは、至る所でそれをも塞ぐように雑草が生い茂っており、場所によっては足元どころか、前方が全く見えないところもあった。おまけに、木々の密集しているところは灼熱の日差しをもすっかり閉ざし、夕闇のように薄暗くて気味が悪い。
洋平が足元に注意しながら、緩い坂を下っていくと、ふいに水の音が聞えてきた。
――蝮沢だ。
洋平の背筋に緊張が奔った。そして、いよいよ蝮沢かと思った途端、とぐろを巻く夥しい数の蝮が脳裏に浮かび、足が竦んで動けなくなった。立ち止まっていれば、余計危ないとわかっていても、まるで金縛りにあったように一歩が踏み出せない。
――このまま引き返そうか。
と弱気が心を覆い始める。前にも踏み出せず、後ろにも引けず、洋平が逡巡していると、前方でガサッという音がした。
その刹那、洋平は踵を返していた。
――情けない、情けない……。
と唇を噛み締めながら、早足で戻って行った。
小さな峠を越えると、美保浦の景色に戻った。視線の先には、小瀬が見えていた。見慣れた風景なのに、なぜか懐かしさを覚えた洋平の瞼に、ふいに美鈴の笑顔が浮かんだ。彼女のはしゃぐ声も聞えたような気がした。
――よし、もう一度挑戦しよう。
洋平は、身体に力が漲ってくるのを感じた。
洋平は、再び片田へ向け力強く歩みを進めた。また水の音がしたが、今度は怯まなかった。それこそ、呼吸も忘れるほど無我夢中で蝮沢を走って渡った。蝮がいたかどうかもわからないほど、一目散に走り切った。
蝮沢が背に遠くなると、どっと疲れが襲ってきた。だが、道のりはまだ半ばである。洋平は立ち止まって、二、三度深呼吸をして息を整えると、片田へと歩き出した。
時計を持っていなかったので、確かな時間はわからなかった。ただ、歩いた距離の感覚で、本能的に片田が近いことを肌に感じていると、峠の頂上に立ったところで、急に視界が広がり、紺碧の海が目に飛び込んで来た。
――片田の海だ。
これまで一度も見たことはなかったが、洋平はそう確信した。
片田の海の表情は、美保浦のそれとは違っていた。東向きの美保浦湾と違い、北向きの片田湾は、波の向きに加えて光の当る海面の反射角が違うからなのだろう。
村人に場所を訊き、どうにか船屋に着いた。さすがに、この界隈有数の分限者だけのことはあって、恵比寿家に勝るとも劣らないほどの立派な屋敷だった。
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「こんにちは!」
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