鈴蛍

久遠

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第十三章 蛍火(1)

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 美鈴と過ごした最後の日を迎えた。
 洋平は、今でもこの日のことを細微に至るまで鮮明に記憶している。まさにこの夜の出来事こそが、彼女との思い出の全てをより夢幻的なものとして、彼の脳細胞に刻み込んだのだった。
 美保浦においてお墓参りということに限って言えば、十五日が最も重要な日であった。
 この日だけは、家族全員で墓参をするというのが慣わしだった。信心深い村だったので、お盆を問わずそのような家は多かったが、この日が特別だったのは正装と言うべきか、身なりを整えなければならないということだった。
 恵比寿家では、洋太郎は家紋の『丸に木瓜』の付いた羽織袴、洋一郎はスーツにネクタイを着用し、洋平も学校の制服姿でお参りをした。
 恵比寿家の墓は丘の頂上付近にあった。他家の五、六倍は広く、先祖代々の古い墓石もいくつか置かれていた。この共同墓地の造成費用も、大半が恵比寿家の寄付で賄われていたので、当然のことではあった。
 この日、洋平と美鈴は墓地で出会えるようにと、それぞれの家族に墓参の時刻を願い出ていた。もっとも、両家とも毎年八時頃に家を出発していたので異論が出ることはなかった。
 洋平は墓の隅に立ち、大工屋の墓にいる美鈴に視線を送った。
 大工屋の墓は丘の中腹より少し下の位置している。
 彼女は出会って二日目の朝、美保浦神社にやって来た服装だった。美鈴は洋平を見つけても、さすがに大きく手を振るようなことはなく、顔の辺りで控えめに振った。
 ほどなく、美鈴が恵比寿家の墓にやって来た。二人は、傍らに聳え立つ松の巨木に背凭れて、眼下に広がる風景を眺めた。足元を這うように伸びている根の中で、太さが庭の松の幹よりも成長しているものは、地中に収まり切らず鱗のようにひび割れた肌を地上に晒していた。
「鈴ちゃん、あの小さな岩が点在しちょうところが小瀬だけん。わかる?」
 洋平は、湾の南側を指差した。
「うん、わかる。ちょうど、お寺と堤防の間だね」
「じゃあ、小浜は?」
 洋平は視線を北側に向けた。
「一箇所だけ砂浜になっているところでしょう」
「当たり」
「やったあ。もうすっかり憶えたよ」
 美鈴は無邪気に笑った。
 早朝の美保浦湾は、太陽が天中に昇るまでには未だ間があるものの、すでに相当な強さで放たれている光りに照らされて、一面さざめく波が銀色を反している。その中を何艘もの小型の舟が、お盆の最後のご馳走を獲るため、沖に向かって走り出していた。
 堤防付近の磯に目を遣ると、釣り人の巻き餌をあてにした数羽のかもめが急降下し、嘴で海面を突いたかと思うと、すぐさま再び空高く飛翔する所作を繰り返している。
 それは普段といささかも変わらぬ風景だったが、見上げた空にいつになく広がりを見せていた灰色の雲が洋平は気に懸かった。
 墓地の周囲を囲む樹木では、往く夏を惜しむかのように、耳を劈かんばかりの蝉時雨が響いている。あたかも、暗い地中に幽閉された時間に比べれば、まったく割に合わない短い生涯ながら、それでもなお精一杯生命を全うしようとする魂の咆哮のようであった。
 その今を盛りと刹那に鳴き狂っているヒグラシに、確実な時の歩みを思い知らされる洋平だった。
「洋君、前から思っていたんだけど、洋君ちはともかく、他の家も新しくて大きなおうちが多いね」
 美鈴は、目線を手前に落としていた。
 見慣れているはずの風景をあらためて凝視した洋平は小さく肯いた。日頃は、とくに気に掛けることもなかったが、村全体を一望すると一目瞭然だった。
 実は、この頃の美保浦は活況を呈していた。洋平の知る限り、最も活力に満ちていた時代であったと言っても過言ではない。
 三、四年前よりかつてない豊漁が続き、しかも主な獲物が真鯛という鯵や鯖と異なり、豊漁であってもさほど値崩れしない高級魚であったため、水揚高が空前のものとなっていたからである。
 当然、漁師の歩合給は跳ね上がり、気前の良い彼らが次々と家を新築したため、好景気は大工、左官はもちろんのこと、他の様々な職種にまで浸透していった。
 他になぞらえて言うならば、『真鯛御殿』と言うべきか。この頃の美保浦は、まさにそのような状況であった。
 おっ、総領さんのガールフレンドだかい?
 とまた二人に声が掛かった。彼らは墓参の合間を見て、洋太郎と洋一郎に挨拶にやって来るのだ。周囲の墓の人々はもちろんのこと、麓近くに墓がある家の者たちも、わざわざ丘を上がって来て挨拶をしてから帰宅した。その光景を目の当たりにする度に、祖父や父の存在の大きさを再認識させられる洋平だった。

 洋平は、とうとう自転車を調達することができなかった。大人用の自転車ならば、どうにかできたが、そうはしなかった。彼は大きな自転車の後ろに美鈴を乗せる自信がなかった。舗装された道ならともかく、でこぼこの砂利道であり、もし砂利に車輪が取られて転倒して彼女に怪我をさせでもしたら、それこそ取り返しが付かなくなる。
 洋平は、すでに歩いて行くことを決心していた。墓地の裾野を歩くことは、少しの勇気を出せば済むことで、帰宅時間が遅くなることは、母に申し出て潔く罰を受けようと腹を括ったのである。
 ところが、昼近くになってさらに厄介な問題が浮上しようとしていた。夕方から夜に掛けて天気が崩れる、との予報が出たのである。墓参のときの気掛かりが、現実のものとなって立ちはだかろうとしていた。
 もし雨になれば、二本の刃を突き付けられることになる。
 一つは、雨量と時間帯によっては花火大会が中止になるということである。それは取りも直さず、洋平たちが夜に家を出るための大義名分を失うということを意味していた。
 もう一つは、仮に通り雨であっても、蛍そのものを小川に落とし下流まで押し流してしまう危険が生じるということである。
 午後になると、洋平はしばしば庭に出て、しだいに暗くなり始めた空を恨めしく眺めていた。彼は、村の漁師の子供なら誰もがそうであるように、大まかな天候を予測することができた。雲の湧き具合や流れ方、季節によっての風の向きや肌に受ける湿り気で判断するのだが、洋平の見立ても芳しいものではなかった。
 日が暮れて、洋平はウメの後、地主さんに参拝して裏門の鍵を開けておいた。
 洋平は朝晩、必ず地主さんに参拝していた。朝は今日一日が平穏無事に過ごせるようにと祈願し、晩はその日の無事のお礼を申し述べた。
 秘めた冒険計画を立てた後は、計画成功の願いを加えたが、この日がさらにいつもと違ったのは、天候の回復を付け加えたことだった。人智の及ばない自然が相手となれば、神に祈ることしか他に成す術がなかったのである。

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