鈴蛍

久遠

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 家に戻ると、幸いにも裏門の鍵は開いたままだった。
 二人は納屋に入り、背中合わせになって着替え始めた。締め切った納屋の中は、昼間の残熱に、雨の湿気が加わり、噎せ返るような息苦しさだった。
 濡れた服を脱ぎ、乾いたタオルで身体を拭き、浴衣に袖を通して帯を締めようとしたときだった。洋平は、ふと背後に物音がしないことに気づいた。美鈴が着替えている気配がしないのだ。
 一瞬、もうすでに着替え終わったのかと思ったが、思い返してみると、ずっとそのような状態であることに思い当った。
 洋平は、背中越しに訊ねた。
「鈴ちゃん、もう着替えた?」 
「……」
 返事が返ってこない。
「ねえ、鈴ちゃん。着替え終わった?」
「……」
 重ねて訊いても、やはり返事が無かった。
「振り向くよ、いいね」
 洋平は念を押し、自分の行為を正当化しておいてからゆっくりと振り返った。
――あっ、しまった……。
 洋平は咄嗟に目を瞑った。見てはいけないものを目にしてしまったのだ。
 美鈴はブラウスを脱いだ状態で、洋平の方を向いて立っていた。
 事態を飲み込めない洋平は恐る恐る訊ねた。
「どげしただ、鈴ちゃん」
「……」
 それでもなお、美鈴は口を閉じたままだった。
 蛍狩りの前とは一変した様子に、あの蛍火を観たことで彼女の精神が異常をきたしたのかも知れないと洋平は真剣に思った。
 それほど彼女は別人格に見えた。
 洋平は、目を開けて良いものかどうか計りかねていた。蛍狩りとは違う異様な緊張感が彼を襲っていた。
「ねえ、鈴……」
 もう一度、洋平が声を掛けようとしたとき、その言葉を遮るように、美鈴が口を開いた。 
「目を開けて……」
「えっ!」
 驚きのあまり、洋平は思わず目を開けそうになったが、ぎゅっと瞼を固く閉じて下を向いた。
 洋平は躊躇っていた。美鈴の言葉とはいえ、従って良いものかどうか迷っていた。 
「洋君、顔を上げて、私を見て」
 と、彼女は語気を強めて言った。
 二度目の催促に勇気を得た洋平は、目を開けてゆっくりと顔を上げた。
 二股電球の、豆電球の方しか灯っていない凡庸とした明るさの中に、白い彼女の姿が浮かんで見えた。雨に濡れたシュミーズは、彼女の乳房を包む下着をはっきりと透けて映し出していた。その下着もまた、肌に張り付いていたので、少女にしてはしっかりと丸みを帯びた一双のふくらみが看て取れた。
「ご、ごめん」
 罪悪感に責め立てられて、もう一度目を閉じた洋平に、美鈴は思いも寄らないことを言った。
「触りたい?」
 一瞬、何を言っているのか洋平にはわからなかった。
 洋平は目を開けて、美鈴の目と合わせた。
 唖然としている洋平に向かって、彼女はもう一度言った。
「触っても良いよ」
 洋平は、混乱の波に溺れそうになっていた。驚愕と興味と誘惑と畏怖――。複雑に入り混じったそれらが、津波のように彼の心を飲み込んで行った。
 いや正直に言えば、美鈴の一言は、そうした中にあってさえも洋平が心の奥底に、秘かな期待を持って宿していた唯一の言葉であった。
「……」
 だが、それでも洋平は答えに窮していた。
 もし触りたいと『真実』を言えば、己の心の奥底に巣食っている、やましい精神を見透かされ、触りたくないと『嘘』を言えば、この甘美な世界は幕を閉じることになる、と洋平にはわかっていたからだ。
 洋平はどちらも嫌だった。
 できることならば、この時間が長く続くことを望んでいた。迷いに迷う洋平は、視線のやり場にも困り始めた。彼女と目を合わせているだけで、揺らぐ心の内を見透かされそうな気がしたのである。
 洋平が逃れるように、視線を彼女の足元に下ろした。すると、見計らったように、彼女の足が動いたかと思うと、氷の上を滑るかの如く、すうーと近づいて来て、洋平の足元で止まった。
 それはまるで、亡霊が地面より少しだけ宙に浮いたまま、移動するかのようにスムーズだった。そして、洋平が戸惑う間もなく、美鈴は彼の右手を取り、自分の左胸に引き寄せてしまった。美鈴の素早い一連の動作に、洋平は逆らうことができなかった。
 ビクン……。
 洋平の手が美鈴のふくらみに触れた瞬間、彼女の身震いが手に伝わった。乳房が受けた初めての刺激に、彼女の身体が自然と反応したものだった。
――やわらかい、とてもやわらかい。
 洋平は、初めの手触りにそう思った。とても下着の上から触れているとは思えない感触だった。
 美鈴の胸の鼓動が、洋平の手のひらを打った。擽ったくも心地良いその刺激こそ、まさしく彼女の生命の息吹だった。絶え間なく、正確なリズムを刻むその神聖な律動は、すぐさま洋平のそれと同調し始めた。そして、腕を通して伝う美鈴の血潮の波は、しだいにより大きく、より激しさを増してゆき、つれて洋平の胸の鼓動に、同様の変化をもたらした。
 二人に言葉は不要だった。
 ただ見つめ合っているだけで、心が通じている気がした。洋平の腕を伝うものは、美鈴の血潮だけでなく、二人の想いもまた交流していると信じて疑わなかった。だからこそ、美鈴がゆっくりと目を閉じたとき、洋平には彼女が求めているものがわかった。
 洋平は躊躇うことなく顔を近づけ、そっと唇を合わせた。二度目となる今度は、前より長く合わせていた。彼女の唇を軽く吸ってみる余裕さえあった。
 そのうち、全身が熱く火照ってきた。もちろん、室温の高さという外部の熱の仕業もあるにはあったが、何よりも、身体の内より湧き出でる興奮の熱が、毛穴という毛穴を通して、外に吹き出ていることに他ならなかった。
 洋平には、美鈴も同様であることがわかっていた。口や鼻から出る息の熱だけでなく、彼女が発する身体全体の熱を肌に感じていたからである。
 やがて唇を離し、目を開けた洋平は、閉じられた美鈴の両方の眼より、一筋流れるものを見た。むせ返るような密室の中で、二人とも顔中に大粒の汗を掻いてはいたが、彼はそれが涙だと確信した。
 洋平の脳裏に、あの墓地一面に灯っていた灯篭を見て、彼女が涙していた場面が過ぎった。転瞬、彼の胸に全身の血液が逆流するほどの激情が込み上げてきて、思わず彼女の身体を引き寄せた。
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