後宮の代筆女官は恋を騙る

春乃ヨイ

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第1章

2. 皇帝の耳目

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「それで、何の御用でしょうか」

 見知らぬ人間につままれた野良猫のように警戒心を解かないまま、紫燕は目の前に座る男へと視線を送った。

 沈黙を破った紫燕の問いかけに、机上を見つめていた面がゆっくりとこちらを見上げる。絹糸のような射干玉ぬばたまの髪が肩の上をさらりと滑り落ち、耳朶じだにつけていた赤い房飾りが露わになる。下瞼に影を落とすほどの長い睫毛が微かに震えたかと思うと、蕩けるような蜂蜜色の瞳と視線が交わった。

 一瞬、後宮の妃と言われても納得するかもしれないと思うほどに端正な面立ちだった。玉のような白い肌は瑕疵かし一つなく、切れ長のまなじりと引き結ばれた薄い唇が冷たいまでの美貌を際立たせる。しかしその麗しさとは裏腹に、黒い衣に漆黒の羽織を重ねた出で立ちは闇夜に沈むような陰鬱さを湛えていた。

(いや、むしろ……)

 これだけの素材ならば、黒一色に濡れた姿の方が艶やかな色気が滲み出るというものなのだろうか。確かに、派手に着飾った高官たちよりも余程目を惹く男だ。

「紫燕」

 気だるげな低い声が狭い部屋の中に響き、こつんと筋張った長い指が机の上を叩く。
 紫燕の目前に置かれていたのは、軽く折り畳まれた二通の文だった。

 一通は昨日書いた文瑜宛の手紙。
 もう一通は、数日前に書いた皇帝宛の手紙。
 皇后に次ぐ位を与えられた四花妃しかひの一人である蘭妃に頼まれたもので、流石に金払いが良かったのでよく覚えている。

 その両方が文瑜の手に渡っている時点で、相手の言わんとすることは明白だった。

「この二通はどちらも君が書いたものだな」

 単刀直入にそう聞かれ、紫燕はむっつりと押し黙る。

(絶対ばれないはずなのに)

 一度きりの相手でない限り、紫燕の代筆は基本的に依頼主の筆跡を基にしている。気になる相手に送ってみたいということであれば多少手本よりも綺麗に整えるが、相手が依頼主の筆跡を知っている場合には代筆と分からないように書き癖から何から完全に模写する。今回の場合、文瑜に宛てたものには紫燕自身の筆跡が多少反映されているが、蘭妃のものをそっくり真似た二通目とは全く異なっているはずだ。

「仕事柄、筆跡鑑定は得意なんだ」

 文瑜が務める御史台という機関は「皇帝の耳目」として官吏・官僚の監察を行う。その長官ともなれば、重要詔書を扱うことも多いのだろう。

(文書の偽造には敏感というわけね)

 まさにその文書偽装で食っているのだから、紫燕には天敵のような相手だ。

「陛下宛の手紙を目にした時、俺に宛てられた手紙の中にどこか似通った筆跡のものが幾つかあったことを思い出した。差出人を呼び寄せたところ、紫燕という宮女が後宮で代筆業をやっているのだと。蘭妃の文も君が書いたんだろう」
「申し訳ございませんが、お答えできない決まりですから」

 少女たちの秘めた想いを扱っている以上、一度信頼を失えば商売に差し障るのだ。しかし、紫燕のつれない返答をむしろ期待していたかのように、文瑜は満足気に頷いた。

「やはり、蘭妃の依頼は陛下宛だったか」

 その言葉の真意を問う前に、目の前の文が最後まで広げられる。文瑜が無言で指し示したのは、手紙の冒頭だった。

「今頃後宮でも騒ぎになっているだろうな。蘭妃の不貞の証拠が見つかったと」
「まさか! 蘭妃様の手紙は確かに、皇帝陛下に宛てたものでした」

 反射的に紫燕は声を荒らげた。
 そこには、紫燕が書いた覚えの無い名が記されていたからだ。

 詠閔えいみん。後宮司礼監に所属する宦官の名だ。「男性」とは異なる身体を持つ宦官相手に恋文を送ったところでとは思うが、後宮では文瑜ほどではないが女性陣からの依頼が絶えない相手である。

 皇帝の妻、それも四花妃ほどの立場にある妃が後宮の管理人たる宦官と密通していたなど、両者ともに後宮追放は免れない。

(蘭妃に限ってそんなことをするはずないのに)

 きっと何らかの策謀に嵌められたに違いない。そう考えて、紫燕は改めて文に視線をやる。違和感にはすぐに気が付いた。

「そもそも、筆跡がここだけ違います」

 紫燕が書いた文には宛名を書いていなかった。蘭妃が恋文を贈る相手など、一人しかいないからだ。偽の宛名は蘭妃の筆跡に真似てはいるが、明らかに蘭妃のものでも紫燕のものとでもない。空白の部分に誰かが後で書き足したのだろう。相手の体調を気遣い、早くまた会いたいと訴えかけるその内容は、宛先が詠閔であっても成り立ってしまう。
 紫燕の偽造が分かったくらいなのだから、それくらいのことは文瑜もとっくに気が付いていたようだ。

「後宮の人間の筆跡を見知っている君なら、この字に見覚えがないか」

 その答えは、宛名を見た直後から紫燕が抱き続けていたものだった。全員とまでは言わないが、仕事柄後宮の妃たちの筆跡を目にする機会の多い紫燕には一つ心当たりがあった。

「……恐れながら、梅妃様のものに似ているかと」
「そうか、梅妃か」

 なるほど、という風に文瑜が頷く。梅妃は蘭妃と同じ四花妃の一人で、共に皇帝の寵を取り合う仲である。彼女を貶めようと策を弄していたとしてもおかしくはない。

「ですが、私の証言だけでは梅妃様の策であると証明するのは難しいのではないですか」

 証拠は「詠閔様」という三文字しかない。紫燕や文瑜のような筆跡鑑定に長けた人間ならばそれだけで書き手を特定するのには十分だが、公然と罪を追求するには証拠として弱い。その上、頼みの綱の文瑜でさえ梅妃の字を見たことはないのだ。

「そこをどうにかしてくれ」
「私がですか?」

 唐突に投げつられた無理難題に思わず敬語が崩れる。

 蘭妃の不名誉を晴らさなくてはならないということは分かる。そもそも紫燕が書いた文が事の発端なのだから全く無関係ではないということも。それでも、何故今日会ったばかりのこの男に命じられなくてはいけないないのか。梅妃の存在を突き止めるところまでは協力したのだから、後は外朝でどうにかして欲しい。

 微かな反発を覚え、紫燕は口を開く。

「どうして、私がそこまでしなくてはいけないのですか」
「手を貸してくれないのなら、俺は後宮の風紀を守るために君の代筆業を禁じなくてはいけない」

 それは困る。本当に困る。気持ち程度しか貰えない宮女の賃金だけでは、全然足りないのだ。

「恋文を書くことがそれほどの罪でしょうか」

 眉根を寄せてそううそぶいた紫燕を前に、文瑜がいすから立ち上がった。黒衣の裾が揺れ、存外に背の高い身体がこちらに近づいて来る。急いで身を引く間もなく、ぐいと腕を掴まれた。小柄な紫燕は男の身体にすっぽりと包み隠されるような形になる。長い黒髪が帳のように紫燕の視界を覆い、その中に光る琥珀色の瞳に視線を奪われる。

「君の仕事にはもう一つあるだろう」

 耳元で囁かれた言葉に、紫燕は体を硬直させた。

 宮女たちの恋文の代筆は所詮小遣い稼ぎに過ぎない。妃が皇帝に宛てる手紙も同様だ。

 病弱な皇帝。お渡りの無い後宮。あたら若さを持て余した女たち。
 紫燕が目をつけたのは、まさしく梅妃が蘭妃に被せた罪だった。

 不倫の恋の相手に宛てた秘密の恋文の代筆と、その郵送までを請け負う代行者。妃たちの文は後宮から外部に送られる際に中を検められる可能性があるが、門番の宦官たちに付け届けを送っている紫燕の文は検閲されることはない。

「本当なら、外朝で問題にすることもできるんだ」

 形の良い唇にうっすらと笑みを浮かべながら、文瑜は脅しを匂わせてくる。

(本当に嫌味な男)

 心中で毒づきながら、紫燕は渋々頷く。心底癪だが、今はこの男の言う通りにするしかないようだ。

「梅妃が犯人だと証明すれば良いんでしょう」
「ああ。期待している」

 睨み上げるような瑠璃色の瞳を見つめ返し、文瑜はするりと紫燕の腕を離した。逃げるようにして部屋を出ようと背を向けた紫燕の背中に、僅かに煽るような色を帯びた声が響いた。

「金儲けに熱心なのは良いことだがね、あまり危険な橋ばかり渡っていると、いつか寝首をかかれるぞ」
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