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第三章 宮廷遊戯
胡蝶の夢
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教会から、鎮魂歌が漏れ聞こえていた。
此度の争乱の戦死者を悼むためか、あるいは別の誰かが亡くなったのかもしれない。
その日、わたしはディマと二人で帝都を歩いていた。街にいる、普通の人々の格好をして、腕を組みながら。誰もわたし達の存在に気付いていなかった。
わたしの髪には、ディマがくれたリボンが揺れている。
わたしの首には、ディマがくれた金の指輪が輝いた。
わたし達が帝都に戻ってきてから、ひと月が過ぎようとしていた。
ディマは戴冠式を速やかに終え、正式にローザリア帝国の皇帝になった。
クリステル家の主人は牢を生き延び、娘たちと共に領地へ戻った。
クロードは聖密卿として、今までと変わらず司祭達を束ねる。
フォルセティ家は次男が継ぎ、ルシオは帝都に留まった。
オーランドは帝都近くに屋敷を構え、そこにサーリを療養させている。
エルアリンドは死後名誉を回復し信者に戻り、彼の遺族には年金が約束された。
アール・ガモットは軍部顧問になり、タイラー・ガンはヘルへと戻った。
創造主派のための教会の建設が始まり、隠れ住んでいた彼らは少しずつ信仰を表明し始めた。セオドア帝の時代とは異なり、誰も殺し合いはしなかった。
自由で豊かなローザリア。その理想に向けて、この国は進み始めた。
――アリアは、目を、覚まさない。
彼女の体を貫いていた水晶剣は抜き出され、司祭達の監視下の元、眠っている。わたしにも、彼女にも、魔法は未だ、戻らない。
ライラは、わたしの侍女として城に住んでいた。わたしがどれほど司祭達に頼んでも、ライラが姉に会うことは許されていなかった。
そうしてわたしは、ディミトリオス皇帝の婚約者という立場になった。教皇庁はわたしをまだ聖女として指名しているけれど、魔力は全然、なかった。
けれども別に、憂いもなかった。
お城に戻れば、お父様とお母様が待っている。騎士テミス家の領地は彼らに返還されたけれど、管理人に今は任せ、しばらくは帝都にとどまると言っていた。
両親がいて、ディマがいる。イリスの世界は、完璧だった。
一日中、幸せな時間を二人で過ごして、そろそろ城に帰ろうと思った時だ。ディマは言った。
「イリスを、連れていきたい場所があるんだ」
わたし達は手を繋ぎながら、石段を登る。
ディマが立ち止まったのは、家々の間の、人の気配のない、小さな古い橋の上だった。
ディマがわたしの肩を抱いた。
「領地の屋敷から見た夕日と、似ている気がしてさ」
わたしもディマに、体を預けた。
西陽がわたし達の顔を照らす。
街中に、鐘楼が見える。あの塔は、イリスが閉じ込められていた場所だ。だけど今は、怖くない。
街は人々の賑わいで活気付いて、朗らかな笑みを浮かべている。美しい景色だった。
「故郷の夕日とは違うけど、ここが僕らのいるところだ」
随分遠くに来てしまったし、思い描いた未来とは違う。でもこれも、間違いでは決してなかった。
「初めて会った日のこと、よく覚えてる。イリスは姉さんぶって、僕を慰めようとしていただろ。あの日から、イリスのことが大好きだった。この子と結婚しようって、そう思ったんだ。やっとイリスに約束した幸せの中に来れた」
そう言ってディマは、わたしの前に跪いた。
「イリス、僕と結婚して欲しい。僕の全身全霊をかけて、君を幸せにする。僕の全てを君に捧げる。だから、半年後、君が十六歳になったら、僕の、奥さんになってください」
風が吹いて、わたしの髪を揺らした。
夕日にディマの顔が輝いた。彼の目が、力強くわたしを見ている。わたしは首から下げた指輪を外すと、左手の薬指にはめた。
「ディマ、見て。指輪、ぴったりになったの」
不思議そうな顔を、ディマはする。
「わたしのいたところでは、左手の薬指に指輪をはめると、結婚の意味だったの」
わたしはディマの手を引き立たせると、そのまま抱きしめて、頬にキスをした。
彼は笑ってわたしの頬を両手で挟むと、長い、長い、味わうような、キスをする。
彼に触れられると、心が喜びに震える。ずっと彼を待っていたのだと、そう思う。わたしも彼を抱きしめ返した。するともっと強い力で、抱きしめ返される。
誰にも邪魔されない、何の悲しみも後ろめたさもない、幸せな、キスだった。顔を離した後で、わたしは言う。
「これが、夢ならいいのに。二度と目覚めたくないくらい、心地が良いんだもの」
「夢は嫌だ。ずっと夢見てきたんだから。現実がいいよ」
そう言って、ディマはまた、わたしにキスをした。
「君を愛してる。心の底から、君が好きだ。幸せになろう。約束だ。誰も邪魔できないくらいに、僕はイリスを幸せにする」
わたしたちは、何度こうして約束しただろう。そうして今日また、約束を繰り返す。
ディマの温かな体が、わたしの体をすっぽり包む。大好きで、幸せになってほしいと願う、離れ難い、人だった。
わたしの心は満ちていた。
前世からわたしの魂に付き纏う寂しさが、薄れて行くのを感じた。
とても今、幸せだと思った。
わたしも、彼女に約束した幸せの、その中にいるんだって、そう思った。
思った瞬間に、分かってしまった。
どうしてわたしがこの世界に生み出されたのか、なぜわたしという存在があったのか、やっと、分かったんだ。
「……ディマ、わたし、あなたが好き。あなたが大好き。あなたと一緒に、幸せになることを、ずっとずっと、願っていたの」
言うと、ディマは微笑んだ。
「そんなこと、知ってるよ」
彼の手を握る。大きな、男の人の手だった。
悲しみを堪えて、震える小さな男の子はもういない。代わりにとても立派な青年が、わたしを見て笑っていた。
「ディマ、あのね。もし、この先、暗闇に飲み込まれそうになって、あなたの中の怪物が暴れだしそうになったら、わたしのことを思い出して。
寂しい時はわたしを想って。わたしもあなたを想うから。
悲しみに支配されそうな時は、わたしの名前を呼んでほしい。わたしもあなたの名前を呼ぶから。助けが必要な時、わたしの姿が見えなくなってしまうかもしれない。だけど心はいつだって、あなたの側にあるんだから。どうか忘れないで。世界が滅んだって、わたし、あなたの側にいる。
……わたしも、ディマが好き。本当に、大好き。わたしの全身全霊をかけて、あなたをずっと、愛してる」
ディマの生きていく先の道を、見つめられないのが残念だ。
心残りは、それくらい。本当に、それくらい。後は、全部、満足だった。
そう思って、わたしは、目を閉じた。
――ねえイリス。
わたしは彼女に語りかけた。
わたし、分かったの。どうしてわたしが生み出されたのか。
これはひとつひとつ、あなたの後悔をなくすための物語だったのね。
お父様とお母様が生きていて、イリスの名誉も傷つけられなくて、そうしてディマと、結ばれる。それがあなたの望んだ物語だったのね。
そのためには、あなたがあなたであってはだめだって、そう思ったのね。
そんな悲しい風に、思ってしまったのね。
時間がかかってしまって、ごめんなさい。でもわたし、ようやく、あなたを幸せにすることができた。
あなたは遠い世界に夢を見たのかもしれないけれど、この世界だって、それほど悪くはないわ。
世界に絶望したあなたも、また生きたいって、そう思えたでしょう?
世界を大きく変えることはできなくても、少しずつなら変えていける。わたしたちが諦めない限り、運命なんて変わり続けていくんだわ。
わたし、この世界が好きよ。この世界が、大好き。だからあなたも、この世界を許してあげて、欲しい――。
思考はまとまりを欠いていく。
徐々に徐々に、わたしという存在が、薄れていくのを感じた。だから最期の瞬間まで、わたしは彼女に伝え続ける。
ねえイリス。だけどこれから先は、あなたはあなたでなくてはならない。
あなたが呪ったのだから、あなたの呪縛は、あなた自身によって解かれなくてはならないんだわ。
わたし、あなたに感謝してる。だってこんなに素敵な人生を、贈ってくれたんだもの。
わたし、前世で孤児だった。家族も愛も知らなかったし、必要ないんだって、そう思ってた。でも全然、間違っていたわ。イリス、あなたがわたしに教えてくれたのよ。
だから今度は、わたしがあなたに贈ってあげる。
ねえイリス。わたし、とても頑張ったわ。必死にイリスを生きたのよ。自分のようにあなたを愛して、守ってみせたでしょう? 約束を、見事果たしてみせたでしょう?
ねえ、覚えてる? 小さい頃に、した約束のこと。いつかあなたが生きても良いって思えたら、この命を返すって。
そう、思ったんでしょう? 生きたいって、やっとそう思えたのね。
だとしたら、良かった。本当に良かった。
ねえイリス。
だからもう、怯えなくていい。
だってこの世界は、イリス、今度は。今度は――……。
――。
――――。
――――――。
長い、夢を見ていたように思いました。
それは時々悲しくて、つらくって、やるせなくって、切なくて。
とんでもなく不器用な人が、主人公だったような気がします。けれどとびきり楽しくて、幸せな、夢でした。
白い、霧の中にいたようにも思います。
周囲はぼんやりとしていて、わたしもずっと、ぼんやりとしていて――。わたしは誰で、どうしてここにいるのか、全然分かりませんでした。
けれど、その霧は今、すっかり晴れて、わたしは自分が誰か、はっきりと思い出しました。
目を、開けました。
目の前に、ディミトリオスお兄様がおりました。
珍しく驚いたように目を見開いて、わたしを見つめていました。
不思議なのは、彼が以前よりもずっと、険の取れたようなお顔をされていることです。
日に焼けたようにも思います。でももしかすると勘違いで、髪型のせいかもしれません。
「お兄様、御髪を、お切りになられたの? とてもよくお似合いです」
そう微笑みかけると、彼は泣きそうな顔になりました。彼の指が、ゆっくりとわたしの頬に触れ、離れていきました。
はて、と思いました。
ここは外です。街には美しい夕日が沈みかけていました。ほんのすこしだけ故郷を思い出して、胸が疼きます。
「どうして、外にいるのですか?」
わたしは、焦ってしまいました。わたしは牢にいなくてはならないはずなのです。戻らなくてはなりません。あの、冷たい石の床の上に。
だってわたしは、イリス・テミス。
偽の聖女として、明日、処刑される運命なのですから。
此度の争乱の戦死者を悼むためか、あるいは別の誰かが亡くなったのかもしれない。
その日、わたしはディマと二人で帝都を歩いていた。街にいる、普通の人々の格好をして、腕を組みながら。誰もわたし達の存在に気付いていなかった。
わたしの髪には、ディマがくれたリボンが揺れている。
わたしの首には、ディマがくれた金の指輪が輝いた。
わたし達が帝都に戻ってきてから、ひと月が過ぎようとしていた。
ディマは戴冠式を速やかに終え、正式にローザリア帝国の皇帝になった。
クリステル家の主人は牢を生き延び、娘たちと共に領地へ戻った。
クロードは聖密卿として、今までと変わらず司祭達を束ねる。
フォルセティ家は次男が継ぎ、ルシオは帝都に留まった。
オーランドは帝都近くに屋敷を構え、そこにサーリを療養させている。
エルアリンドは死後名誉を回復し信者に戻り、彼の遺族には年金が約束された。
アール・ガモットは軍部顧問になり、タイラー・ガンはヘルへと戻った。
創造主派のための教会の建設が始まり、隠れ住んでいた彼らは少しずつ信仰を表明し始めた。セオドア帝の時代とは異なり、誰も殺し合いはしなかった。
自由で豊かなローザリア。その理想に向けて、この国は進み始めた。
――アリアは、目を、覚まさない。
彼女の体を貫いていた水晶剣は抜き出され、司祭達の監視下の元、眠っている。わたしにも、彼女にも、魔法は未だ、戻らない。
ライラは、わたしの侍女として城に住んでいた。わたしがどれほど司祭達に頼んでも、ライラが姉に会うことは許されていなかった。
そうしてわたしは、ディミトリオス皇帝の婚約者という立場になった。教皇庁はわたしをまだ聖女として指名しているけれど、魔力は全然、なかった。
けれども別に、憂いもなかった。
お城に戻れば、お父様とお母様が待っている。騎士テミス家の領地は彼らに返還されたけれど、管理人に今は任せ、しばらくは帝都にとどまると言っていた。
両親がいて、ディマがいる。イリスの世界は、完璧だった。
一日中、幸せな時間を二人で過ごして、そろそろ城に帰ろうと思った時だ。ディマは言った。
「イリスを、連れていきたい場所があるんだ」
わたし達は手を繋ぎながら、石段を登る。
ディマが立ち止まったのは、家々の間の、人の気配のない、小さな古い橋の上だった。
ディマがわたしの肩を抱いた。
「領地の屋敷から見た夕日と、似ている気がしてさ」
わたしもディマに、体を預けた。
西陽がわたし達の顔を照らす。
街中に、鐘楼が見える。あの塔は、イリスが閉じ込められていた場所だ。だけど今は、怖くない。
街は人々の賑わいで活気付いて、朗らかな笑みを浮かべている。美しい景色だった。
「故郷の夕日とは違うけど、ここが僕らのいるところだ」
随分遠くに来てしまったし、思い描いた未来とは違う。でもこれも、間違いでは決してなかった。
「初めて会った日のこと、よく覚えてる。イリスは姉さんぶって、僕を慰めようとしていただろ。あの日から、イリスのことが大好きだった。この子と結婚しようって、そう思ったんだ。やっとイリスに約束した幸せの中に来れた」
そう言ってディマは、わたしの前に跪いた。
「イリス、僕と結婚して欲しい。僕の全身全霊をかけて、君を幸せにする。僕の全てを君に捧げる。だから、半年後、君が十六歳になったら、僕の、奥さんになってください」
風が吹いて、わたしの髪を揺らした。
夕日にディマの顔が輝いた。彼の目が、力強くわたしを見ている。わたしは首から下げた指輪を外すと、左手の薬指にはめた。
「ディマ、見て。指輪、ぴったりになったの」
不思議そうな顔を、ディマはする。
「わたしのいたところでは、左手の薬指に指輪をはめると、結婚の意味だったの」
わたしはディマの手を引き立たせると、そのまま抱きしめて、頬にキスをした。
彼は笑ってわたしの頬を両手で挟むと、長い、長い、味わうような、キスをする。
彼に触れられると、心が喜びに震える。ずっと彼を待っていたのだと、そう思う。わたしも彼を抱きしめ返した。するともっと強い力で、抱きしめ返される。
誰にも邪魔されない、何の悲しみも後ろめたさもない、幸せな、キスだった。顔を離した後で、わたしは言う。
「これが、夢ならいいのに。二度と目覚めたくないくらい、心地が良いんだもの」
「夢は嫌だ。ずっと夢見てきたんだから。現実がいいよ」
そう言って、ディマはまた、わたしにキスをした。
「君を愛してる。心の底から、君が好きだ。幸せになろう。約束だ。誰も邪魔できないくらいに、僕はイリスを幸せにする」
わたしたちは、何度こうして約束しただろう。そうして今日また、約束を繰り返す。
ディマの温かな体が、わたしの体をすっぽり包む。大好きで、幸せになってほしいと願う、離れ難い、人だった。
わたしの心は満ちていた。
前世からわたしの魂に付き纏う寂しさが、薄れて行くのを感じた。
とても今、幸せだと思った。
わたしも、彼女に約束した幸せの、その中にいるんだって、そう思った。
思った瞬間に、分かってしまった。
どうしてわたしがこの世界に生み出されたのか、なぜわたしという存在があったのか、やっと、分かったんだ。
「……ディマ、わたし、あなたが好き。あなたが大好き。あなたと一緒に、幸せになることを、ずっとずっと、願っていたの」
言うと、ディマは微笑んだ。
「そんなこと、知ってるよ」
彼の手を握る。大きな、男の人の手だった。
悲しみを堪えて、震える小さな男の子はもういない。代わりにとても立派な青年が、わたしを見て笑っていた。
「ディマ、あのね。もし、この先、暗闇に飲み込まれそうになって、あなたの中の怪物が暴れだしそうになったら、わたしのことを思い出して。
寂しい時はわたしを想って。わたしもあなたを想うから。
悲しみに支配されそうな時は、わたしの名前を呼んでほしい。わたしもあなたの名前を呼ぶから。助けが必要な時、わたしの姿が見えなくなってしまうかもしれない。だけど心はいつだって、あなたの側にあるんだから。どうか忘れないで。世界が滅んだって、わたし、あなたの側にいる。
……わたしも、ディマが好き。本当に、大好き。わたしの全身全霊をかけて、あなたをずっと、愛してる」
ディマの生きていく先の道を、見つめられないのが残念だ。
心残りは、それくらい。本当に、それくらい。後は、全部、満足だった。
そう思って、わたしは、目を閉じた。
――ねえイリス。
わたしは彼女に語りかけた。
わたし、分かったの。どうしてわたしが生み出されたのか。
これはひとつひとつ、あなたの後悔をなくすための物語だったのね。
お父様とお母様が生きていて、イリスの名誉も傷つけられなくて、そうしてディマと、結ばれる。それがあなたの望んだ物語だったのね。
そのためには、あなたがあなたであってはだめだって、そう思ったのね。
そんな悲しい風に、思ってしまったのね。
時間がかかってしまって、ごめんなさい。でもわたし、ようやく、あなたを幸せにすることができた。
あなたは遠い世界に夢を見たのかもしれないけれど、この世界だって、それほど悪くはないわ。
世界に絶望したあなたも、また生きたいって、そう思えたでしょう?
世界を大きく変えることはできなくても、少しずつなら変えていける。わたしたちが諦めない限り、運命なんて変わり続けていくんだわ。
わたし、この世界が好きよ。この世界が、大好き。だからあなたも、この世界を許してあげて、欲しい――。
思考はまとまりを欠いていく。
徐々に徐々に、わたしという存在が、薄れていくのを感じた。だから最期の瞬間まで、わたしは彼女に伝え続ける。
ねえイリス。だけどこれから先は、あなたはあなたでなくてはならない。
あなたが呪ったのだから、あなたの呪縛は、あなた自身によって解かれなくてはならないんだわ。
わたし、あなたに感謝してる。だってこんなに素敵な人生を、贈ってくれたんだもの。
わたし、前世で孤児だった。家族も愛も知らなかったし、必要ないんだって、そう思ってた。でも全然、間違っていたわ。イリス、あなたがわたしに教えてくれたのよ。
だから今度は、わたしがあなたに贈ってあげる。
ねえイリス。わたし、とても頑張ったわ。必死にイリスを生きたのよ。自分のようにあなたを愛して、守ってみせたでしょう? 約束を、見事果たしてみせたでしょう?
ねえ、覚えてる? 小さい頃に、した約束のこと。いつかあなたが生きても良いって思えたら、この命を返すって。
そう、思ったんでしょう? 生きたいって、やっとそう思えたのね。
だとしたら、良かった。本当に良かった。
ねえイリス。
だからもう、怯えなくていい。
だってこの世界は、イリス、今度は。今度は――……。
――。
――――。
――――――。
長い、夢を見ていたように思いました。
それは時々悲しくて、つらくって、やるせなくって、切なくて。
とんでもなく不器用な人が、主人公だったような気がします。けれどとびきり楽しくて、幸せな、夢でした。
白い、霧の中にいたようにも思います。
周囲はぼんやりとしていて、わたしもずっと、ぼんやりとしていて――。わたしは誰で、どうしてここにいるのか、全然分かりませんでした。
けれど、その霧は今、すっかり晴れて、わたしは自分が誰か、はっきりと思い出しました。
目を、開けました。
目の前に、ディミトリオスお兄様がおりました。
珍しく驚いたように目を見開いて、わたしを見つめていました。
不思議なのは、彼が以前よりもずっと、険の取れたようなお顔をされていることです。
日に焼けたようにも思います。でももしかすると勘違いで、髪型のせいかもしれません。
「お兄様、御髪を、お切りになられたの? とてもよくお似合いです」
そう微笑みかけると、彼は泣きそうな顔になりました。彼の指が、ゆっくりとわたしの頬に触れ、離れていきました。
はて、と思いました。
ここは外です。街には美しい夕日が沈みかけていました。ほんのすこしだけ故郷を思い出して、胸が疼きます。
「どうして、外にいるのですか?」
わたしは、焦ってしまいました。わたしは牢にいなくてはならないはずなのです。戻らなくてはなりません。あの、冷たい石の床の上に。
だってわたしは、イリス・テミス。
偽の聖女として、明日、処刑される運命なのですから。
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