イリス、今度はあなたの味方

さくたろう

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第四章 彼女に捧ぐ鎮魂歌

僕の名前を呼んでくれ

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 ディミトリオスがいた、とお兄様が言った意味が、分かりませんでした。だってディミトリオスはお兄様自身でしたから。

「人を、お呼びいたします。ヴァリ聖密卿を……」

 心配でそう言いましたけれど、お兄様は首を横に振りました。

「誰かを呼ぶ必要はない。大丈夫だ。奥で話そう。教えてくれ、僕はどうなっていた?」

 奥の部屋は寝室です。だけど、ときめきなんてありませんでした。お兄様がそうおっしゃったのは、単にそこなら、誰にも話を聞かれる心配がないからでした。
 
 お兄様のご様子がおかしかったのは、ほんの数十秒の間でした。ベッドに並んで座りながら、なるべく細かく話しました。聞いた後でお兄様は言います。

「僕の中にいたのは、間違いなくディミトリオスだった。君と同じ、時が戻る前の僕だ」

 信じ難いことでしたが、お兄様は断言します。

「僕と彼の魂は一瞬混じり合い、彼の感情を、見たように思う。深い悲しみと後悔と、強い怒りだった。一部、彼の記憶と思しきものを垣間見たが、人を蔑み見下す、碌でもない男だ。あまりにも僕らしくて、反吐が出る」

 吐き捨てるようにお兄様はそう言うと、考え込むように右手を額に当てました。

「彼がいたということは、イリスと同じように、僕に重なる魂があったということか? いや、先生は僕にそんなことを言っていなかったから、違う。だとしたら、彼が時が戻る前の世界からこの世界まで、霊魂を残していたということか? 
 なぜ彼がこの世界で生存しているんだろう。小説を信じるのなら、時を戻す時点でディミトリオスは死んでるはずだ。だがあれがフォルセティ家によって作られた話なら、どこまで虚構で真実か、もう誰にも分からない。ディミトリオスが生存していて、彼こそが時を戻し、どういう形でかは知らないが、この世界に生存していたというのか――」

「ディミトリオスお兄様が垣間見たというディミトリオスお兄様の記憶の中に、手がかりは無かったのでしょうか」

「あまりにも断片的で感情的だったから、どうかな」

 そう言いながら、お兄様は話し始めました。
 
「幼少期の頃のものは、僕とそう変わりはなかった。領地に、君と両親がいて、それなりに裕福で、不自由はなかった。城に入ってからも、彼は上手くやっていたようだ。だがどちらの記憶も曖昧で、感覚としてしか、今は残っていない。
 最も強く記憶として表れたのは、君の死に際だ。何よりも守らなくてはならなかったものを、彼は破壊してしまった。彼は誰かに叫んでいた。――聖女が誰でも良かったなら、あの子じゃなくても良かったじゃないか、と」

 お兄様の言葉を聞きながら、心に悲しみが広がるように感じました。

「それからあったのは、激しい痛みを伴うひたすらの暗黒だった。ともかく僕は自分の体を取り戻さなくてはと思い、もがき続けた。彼は僕の魂を消失させ、自分が僕となるつもりだったのだろう。
 だとしたら彼の体は僕とは異なっているのか……彼が僕の体を欲した理由があるはずだ。既に死者で、霊魂だけの存在なのか? だが死者の霊魂は微弱だと先生はかつて言っていた。体を乗っ取れるほどの魔術が作り出せるのか……」

 最後の方は、ひとりごとのようでした。そこまで言ってお兄様は、はっとわたしに顔を向けました。
 わたしに募ったのは恐怖でした。死に際の光景が、思い起こされました。生まれて初めて、自分の意思で選び取ったその死の景色です。

 ――わたしのいた塔に、誰かが来て。
 死の間際、わたし、何かを願った気がするんです。
 それをアリア様を救出する少し前に、思い出しかけたんです。でも、今は、また忘れてしまいました。
 わたし達の身に、何が起こっているのでしょうか。まだ、何か見えていないものが、あるというのでしょうか。
 
 お兄様は、震えるわたしの体を抱きしめてくださいました。

「すまないイリス。君を、悲しませたいわけじゃない。だけど、知らなくてはならないんだ」

 体を離すと、彼は言います。

「君とディミトリオスとの思い出を教えてくれ。どんな子供時代だった? 城に入ってからはどう過ごしていたんだ」
 
 もしかしたら、お兄様の身の上に起こった出来事の、手がかりになるかもしれません。思い出しながら、わたしは言いました。

「子供の頃はわたし、とても泣き虫で。ディミトリオスお兄様によく慰めてもらいました。
 今でもよく覚えていることが、お兄様が神学校に行くと言い出した時のことです。司祭様から推薦をもらったんです。でもわたし、嫌で嫌で、一晩中泣き続けていたら、ついにお兄様はいかないと言ってくださいました。思えば、わたし、とてもわがままでした」

 ヴァリ聖密卿にもお話したことでした。お兄様が息を漏らした気配がしました。

「僕等は逆だ。僕の方が泣いて、よくイリスに慰められてた。もしかすると君のディミトリオスも、隠れて泣いていたのかもしれないね」

 言われて、幼い頃のお兄様を思い出しました。
 感情を押し込めるような、じっと何かに耐えているような、彼の横顔を。悲しみを誰とも分かち合うことはなく、必死に押し込めていたのでしょうか。

「そうだったのかも、しれません。弱さを見せることをよしとしない人でしたもの。そういうところは、今のお兄様も似ている気がします」

 記憶の中のディミトリオスお兄様を思い出しました。本心を見せず、孤高の人で、その黄金の瞳はいつも、遠いどこかを見つめているようでした。
 
「小さい頃、わたし、森で迷子になったことがありました。お兄様が森に遊びに入るのを見て、後を追ったら、いつの間にか迷い込んでしまったんです。その時も、お兄様はわたしをずっと探して、自分だって傷だらけになりながらも、見つけてくださったの。優しい、人でした」

「僕等もそうだった。イリスが迷子になって。もう二度とイリスに会えなくなるんじゃないかって、そう思ったら恐ろしくて必死だったよ。イリスが危険な目に遭って、怖い思いをしてるんじゃないかと思ったら、じっとしていることなんてできなかった」

 それからわたしは、お城にお兄様がいらした時の話を、思い出せる限りしました。神学校を出て、帝都に戻っていらしたお兄様は、わたしをとても気遣ってくださいました。
 彼が皇帝になりたいなどという野望を抱いていたことなど、わたしは全然気づきませんでした。

「他人のような口調で、わたし達は話していました。わたしはそれをたまらなく寂しく感じでいましたけれど、変えられるほど、わたし達の関係は近くはなくって。
 アリア様が現れてからは、ますます遠くなりました。だけど最後に、会いにきてくださって……」

 続きを言うことが躊躇われました。

「ねえお兄様。この先の話を、聞いてくださいますか? 信じてもらえないかもしれないけれど」

「信じるよ」

 すぐにお兄様はそう言ってくださいましたから、少し勇気づけられて、わたしは話すことができました。

「わたし、何かを、知っている気がするんです。水晶結晶になってからのことを、知っているように思うんです。わたし、ローザリア帝都にいました。間違いありません。帝都に、いたんです。
 ぼんやりとした意識の中で、誰かがずっと泣いていたような気がするんです。愛を、伝えてくれた気がするんです。だけどその愛は、ひどく痛くて辛かったように、思えてならないんです」

「思い出せるのは、その感覚だけ? それが誰かは、覚えていないかい」

「思い出そうとすると、怖くて、叫びそうになるの。それだけじゃありません。お兄様が塔にいらしてくださった前後の記憶も、なんだかずっと、曖昧で……よく思い出せないんです。あの、役に立たなくてごめんなさい」

 お兄様がとても怖い顔をされていたので、思わず謝ってしまいました。

「謝ることじゃない。僕は違うことを考えていた。
 もしかすると、君に何かが作用しているのかもしれない。思い出そうとすると、恐怖を与えるような魔術を、誰かが君にかけたんじゃないのか。他のことが思い出せて、そこだけ不明瞭なんて、妙だ。誰かにとって都合が悪いことを、隠そうとしているんじゃないのか」

 そんなことをおっしゃるので、顔がこわばってしまいました。お兄様がわたしを見ます。

「怯えさせてすまない。だけど悲しむ必要は何もない。君を守り切るよ。何がなんでも、僕が守り切る」

 それは彼と彼女の、生きた証だからなのでしょうか。

「どんなわたしでした? 今まで側にいた、イリスは。わたし、知りたいんです。お兄様の口から、教えて欲しい」

 唐突な問いでしたが、お兄様は静かに笑いました。とても大切なものを見つめるように、愛おしそうに目を細めます。

「彼女の生き方は、結構不器用だったかもしれない。あんまりにも真っ直ぐ進んでいくから、周りが放っておけなかった。
 人は分かり合えると、信じているような人だった。世界には確かに愛があるのだと、信じたがっているように見えた。だから僕は、彼女の信じる世界を、守ってやりたかった」

 とても素敵な人だったのだろうと、思いました。わたしの中にいた、イリスは。だってお兄様はこんな眼差しで、わたしを見つめることはないのですから。
 それからお兄様は、わたしを見ました。

「なあイリス。お願いがあるんだ。ずっと言おうと思っていたんだ。どうか僕を、“ディマ”と呼んでくれないか」

 幼い頃、親愛を込めて彼を呼ぶ時に、度々呼んでいた名前です。かつて彼女が、彼を呼んだ名前でもありました。

「……ディマ」

 ぎこちなくそう呼ぶと、優しい、けれど寂しげな声が返ってきました。

「ああ、イリス。僕は、ここにいる」

 彼の目は、やはりわたしを見ながらも、別のものを見つめているかのようでした。
 けれど、もう、彼の最愛の人は返って来ません。魂が同じだったとしても、わたしがわたしである以上、彼女はどこにも存在しません。
 だからなのでしょうか。同時に彼の瞳は、それを悟ったように悲しみを帯びておりました。
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