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第四章 彼女に捧ぐ鎮魂歌
幸せな結婚式
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◆イリス・テミス
その年の夏に、わたしは十六歳になりました。
お兄様との、結婚式がありました。
十八歳の若き皇帝が聖女と結婚する喜びを、帝国全体で分かち合っているかのように、祝福が、その日のわたし達を包んでいました。
結婚式は大聖堂で行われる予定でしたから、お城でドレスに着替えてから向かうことになっていました。早朝から飾り付けられたわたしは、いつもの貧相な外見よりも、少しはましな姿のように思えます。
綺麗に編み込まれた髪の毛には、お母様のお古の髪飾りと一緒に、お花がたくさん付いています。白い絹のドレスには銀の刺繍が施されていました。今日のために、お母様と一生懸命選んだドレスです。
準備が終わった頃、お母様とお父様がやって来てくださいました。
「まあイリス! とっても素敵よ……!」
「流石は俺の娘だなあ」
お二人が口々に褒めてくださったので、顔が赤くなります。
正装に身を包んだお二人も、とびきり素敵です。お母様のドレス姿は見たことがありましたけれど、お父様の正装は初めて見たように思います。大きな体が、窮屈そうに服に収まっておりました。
三人で話していると、扉が叩かれました。開くと、従者の方ではなく、お兄様御本人がいらっしゃいます。侍女たちが、お兄様を見てため息を漏らしたのも納得で、白地に、わたしのドレスと対照的に金の装飾があしらわれた実に見事な様相でした。
義手は外され、片方の袖は空になっています。お兄様はいつだって格好いいのですが、今日は一層磨きがかかっておられました。
「あら、あなたの花嫁を早く見たくて、待ちきれなくて来てしまったの?」
お母様が笑うと、お兄様も笑います。
「からかわないでくださいよ、お母様」
それから、わたしを見て眩しそうに目を細められました。
「とても綺麗だ、イリス」
こんな素敵な人に笑いかけられると、胸がどきどきしてしまいます。毎日顔を合わせているのに、毎日好きが募るのは本当に不思議なことでした。
「そろそろ時間だから、迎えに来た」
差し出された手に、自分の手を重ねました。
お父様とお母様が口々におっしゃいます。
「俺達はお前達二人の両親だ。何があっても、守るからな」
「あなた達のことを、誇りに思うわ」
お二人は、わたしの寿命が残りわずかであることをご存知です。けれどわたしの前で悲しみを表すことは、決してありませんでした。
お城から馬車に乗る直前で、駆け寄ってくる女性たちの姿が見えました。皆、見事な金髪を太陽の光に輝かせております。なんと美しい方たちでしょうか。
「クリステル家の姉妹だ」
お兄様がそっと教えてくださいました。クリステル家の皆様は、帝都にお見えになることがなかったので、このわたしがお会いするのは初めてのことですけれど、心が弾みます。だってわたしの文通のお友達でしたもの。
あっという間に目の前にいらっしゃった年長の女性が、きっとレジーナ様なのでしょう。わたしの手を取ると、そのまま抱きしめてくださいました。ぱっと離れると、彼女は言います。
「イリス! 本当に可愛いわ!」
その後ろにいたシンディ様とパトリシア様も、順にわたしを抱きしめてくださいます。
「絶世の美女ね、戦場を一緒に駆け回っていたのが嘘みたいだわ」
「絵本のお姫様のようです、イリス様! 付添人を務めるという本日の光栄に感謝いたします」
美しい三姉妹です。以前のわたしの、かけがえのないお友達でした。今のわたしにとっても、そうです。
「こんなに綺麗な花嫁がいたら、わたし達を選ばなかったのも納得ね」
レジーナ様の言葉に、お兄様は楽しげに笑い返しました。
「イリスはいつだって、世界で一番綺麗だ」
お兄様はそう言って、そっとわたしの頬にキスをしてくださいました。
大勢の人々が押しかけ、帝都はまるでお祭りのようです。
ローザリア本土の人間だけではありません。ヘル領から、タイラー・ガン総督もいらっしゃいましたし、国交を結んだスタンダリア王国からも、幼い王がわざわざいらっしゃいました。お兄様がお世話になったミーディア神学校の学長もいらっしゃいましたし、エンデ国からも司祭様方が集まって、友好国からも、たくさんの使者がいらっしゃってくださいました。
わたし達が馬車で駆け抜ける道の両側には、見たこともないほど多くの人がローザリアの旗を振っています。皆、口々にわたし達への祝いの言葉を叫びました。
胸が詰まりそうでした。こんなにたくさんの人に、幸せを願ってもらえるなんて、なんてわたしは幸せ者なのでしょうか。
馬車の隣で、お兄様が、わたしを見て微笑みました。こんなに素敵な方がわたしの夫になるなんて、まだ信じられません。
よく晴れた夏の日でした。眩しい日差しが聖堂の硝子を通ってわたし達に降り注ぎます。シューメルナ様が祀られている祭壇の前に、お兄様と共に並びました。
ヴァリ聖密卿が、結婚の誓いの立会人でした。
あの口付けのことを、わたしは考えないようにしていました。あれ以来、そんなこともありませんでしたし、彼の方も、いつも通りの態度だったからです。
「結婚おめでとう、イリス、ディミトリオス。二人のことを、心から祝福するよ」
聖典の言葉を読み上げた後で、ヴァリ聖密卿は、彼自身の言葉でそう言ってくださいました。お兄様が、わたしを見て微笑んでくださいます。皆が、わたしを愛し、祝福してくださいました。
わたしは幸せでした。聖女になってからずっとずっと、我慢して来ました。死の瞬間まで、わたしは自由ではなかったのです。
だからこんなに幸せな時が訪れるなんて、考えてもみませんでした。両親がいて、友人がいて、大好きな方と結婚する。
わたしの命の終わりが、残り少ないからって、それがどうしたというのでしょう? これほどの幸福が訪れたんですもの。それだけで生まれてきた意味は、十分すぎるほどあるように思えました。命の最後に、これほどの幸せな時間がもらえるなんて、考えてもみませんでしたもの。
◇◆◇
相変わらず祝福は帝国中を渦巻いていましたが、夜になって、わたしとお兄様には平穏がやってきました。
お兄様のお部屋で、たった二人きりで過ごします。一緒に夕食を食べ、とりとめのないことを話しました。お兄様は楽しげで、だからわたしもすごく楽しいと思いました。お兄様のお部屋は片付けられ、山のような本は、今日は姿を消しています。国政のことも、聖女のことも、悲しい話も、今日だけはしませんでした。
ご飯を食べ終え、ちょっとだけお酒も飲んで、お話も尽きた頃、お兄様は言いました。
「そろそろ、寝ようか」
わたしの心臓は、どうにかしてしまいそうなくらいに高鳴りました。お兄様の手がテーブルに置かれたわたしの手に触れ、黄金色の瞳が、じっと向けられました。
わたしの許可を、待っているのだと気が付きました。耳まで熱くなってしまいます。ゆっくりと、わたしが頷くと、そのまま手に、キスをされました。わたしはこれから、前のイリスと同じように、お兄様と本当の恋人になるのです。
いいえ、結婚をしたのですから、夫婦になるのです。お兄様の妻に、わたしはなるのです。
けれど、お兄様が使用人さんに命じて、食器を片付けさせていた時です。
ふいに、違和感を覚えました。
部屋が、急に暗くなったような気がしたのです。燭台の灯りはそのままだし、そんなはずはないのに……。
お兄様も同じように異変を感じ取ったのか、立ち上がったまま、眉根を寄せられていました。
「なんだ……何が……。誰だ!」
突然お兄様は背後を振り返りました。わたしも、そこに視線を向け、そうしてはっきりと視認しました。ぼやけた黒い影が、お兄様の背後に佇んでいたのを。
きゃあと、悲鳴を上げ立ち上がってしまいました。
まだ部屋の中にいた使用人さんが、驚いたようにわたし達を見ています。けれど瞬きの間に、影は消えていました。部屋の明るさも、元に戻ったように思います。
一体何が起きたのか少しも分からず、あたりをきょろきょろ見回していると、お兄様がわたしの腕に触れました。見上げ、疑問を声に出す前に、唇が触れました。
――あ、キスだ。
そんなことを、ぼんやりと考えました。ようやく顔を離した後で、また唖然としている使用人さん達に向かって、お兄様は冷たく言い放ちます。
「何を見ている? さっさと失せろ下衆が」
いつもの口調とは、全然違う話し方でした。
慌てた様子で使用人さん達は部屋を出ていきます。わたし達はまた、二人きりになります。けれどさっきまでの温かな空気は失せていました。漠然とした不安を抱えたまま、わたしはお兄様を見上げます。
お兄様は、目を細め、わたしの頬に触れました。
「イリス――ああ、イリス。なんと美しい娘だろう。こうしてお前に触れる時を、長い間待ち侘びていた」
お兄様のご様子が変で、わたしは泣きそうになりました。だって毎日一緒にいるのに、まるで久しぶりに会ったみたいなんですもの。
「お兄様、どうされたの?」
「どうもしていない。正しいものが正しい場所に戻っただけだ」
こんな話し方は、こんな態度は、まるで、まるで――。
「あなたは、誰? ディミトリオスお兄様なの……?」
「不安にならなくていい、イリス。俺こそがディミトリオスだ」
次にあったのは、息を継ぐ間もないほどの激しい口付けでした。深く、深く、喰らい尽くされそうになるほどの、キスでした。いつもの口付けとは異なっていました。混乱のまま、必死で受け入れましたけれど、目には涙が滲んでしまいました。
彼が離れた瞬間、わたしは大きく息を吸い込みます。頭がくらくらします。
お兄様は、顔を歪められました。
「くそ、まだ意識が残っているのか」
それからまたしても、わたしの唇にキスをされます。今度は、触れるようなキスでした。
「お前はもうすぐ解放される。幸せになれる。誓った幸福を、俺は必ず果たす。お前は今度こそ、望みを叶えられる。どうか待っていてくれ」
そう言った瞬間、お兄様は、何かに弾かれたように背後に倒れられました。
「うあっ……!」
額に汗を浮かべながら、お兄様は肩で呼吸をなさいます。辛いのか、目を固く閉じておられました。
「お兄様! 大丈夫ですか! ディミトリオスお兄様!」
「何かが、僕の中に入った……! 何かが……。何か」
お兄様は首を横に振り、はっきりと言いました。
「……あれは、ディミトリオスだった」
その年の夏に、わたしは十六歳になりました。
お兄様との、結婚式がありました。
十八歳の若き皇帝が聖女と結婚する喜びを、帝国全体で分かち合っているかのように、祝福が、その日のわたし達を包んでいました。
結婚式は大聖堂で行われる予定でしたから、お城でドレスに着替えてから向かうことになっていました。早朝から飾り付けられたわたしは、いつもの貧相な外見よりも、少しはましな姿のように思えます。
綺麗に編み込まれた髪の毛には、お母様のお古の髪飾りと一緒に、お花がたくさん付いています。白い絹のドレスには銀の刺繍が施されていました。今日のために、お母様と一生懸命選んだドレスです。
準備が終わった頃、お母様とお父様がやって来てくださいました。
「まあイリス! とっても素敵よ……!」
「流石は俺の娘だなあ」
お二人が口々に褒めてくださったので、顔が赤くなります。
正装に身を包んだお二人も、とびきり素敵です。お母様のドレス姿は見たことがありましたけれど、お父様の正装は初めて見たように思います。大きな体が、窮屈そうに服に収まっておりました。
三人で話していると、扉が叩かれました。開くと、従者の方ではなく、お兄様御本人がいらっしゃいます。侍女たちが、お兄様を見てため息を漏らしたのも納得で、白地に、わたしのドレスと対照的に金の装飾があしらわれた実に見事な様相でした。
義手は外され、片方の袖は空になっています。お兄様はいつだって格好いいのですが、今日は一層磨きがかかっておられました。
「あら、あなたの花嫁を早く見たくて、待ちきれなくて来てしまったの?」
お母様が笑うと、お兄様も笑います。
「からかわないでくださいよ、お母様」
それから、わたしを見て眩しそうに目を細められました。
「とても綺麗だ、イリス」
こんな素敵な人に笑いかけられると、胸がどきどきしてしまいます。毎日顔を合わせているのに、毎日好きが募るのは本当に不思議なことでした。
「そろそろ時間だから、迎えに来た」
差し出された手に、自分の手を重ねました。
お父様とお母様が口々におっしゃいます。
「俺達はお前達二人の両親だ。何があっても、守るからな」
「あなた達のことを、誇りに思うわ」
お二人は、わたしの寿命が残りわずかであることをご存知です。けれどわたしの前で悲しみを表すことは、決してありませんでした。
お城から馬車に乗る直前で、駆け寄ってくる女性たちの姿が見えました。皆、見事な金髪を太陽の光に輝かせております。なんと美しい方たちでしょうか。
「クリステル家の姉妹だ」
お兄様がそっと教えてくださいました。クリステル家の皆様は、帝都にお見えになることがなかったので、このわたしがお会いするのは初めてのことですけれど、心が弾みます。だってわたしの文通のお友達でしたもの。
あっという間に目の前にいらっしゃった年長の女性が、きっとレジーナ様なのでしょう。わたしの手を取ると、そのまま抱きしめてくださいました。ぱっと離れると、彼女は言います。
「イリス! 本当に可愛いわ!」
その後ろにいたシンディ様とパトリシア様も、順にわたしを抱きしめてくださいます。
「絶世の美女ね、戦場を一緒に駆け回っていたのが嘘みたいだわ」
「絵本のお姫様のようです、イリス様! 付添人を務めるという本日の光栄に感謝いたします」
美しい三姉妹です。以前のわたしの、かけがえのないお友達でした。今のわたしにとっても、そうです。
「こんなに綺麗な花嫁がいたら、わたし達を選ばなかったのも納得ね」
レジーナ様の言葉に、お兄様は楽しげに笑い返しました。
「イリスはいつだって、世界で一番綺麗だ」
お兄様はそう言って、そっとわたしの頬にキスをしてくださいました。
大勢の人々が押しかけ、帝都はまるでお祭りのようです。
ローザリア本土の人間だけではありません。ヘル領から、タイラー・ガン総督もいらっしゃいましたし、国交を結んだスタンダリア王国からも、幼い王がわざわざいらっしゃいました。お兄様がお世話になったミーディア神学校の学長もいらっしゃいましたし、エンデ国からも司祭様方が集まって、友好国からも、たくさんの使者がいらっしゃってくださいました。
わたし達が馬車で駆け抜ける道の両側には、見たこともないほど多くの人がローザリアの旗を振っています。皆、口々にわたし達への祝いの言葉を叫びました。
胸が詰まりそうでした。こんなにたくさんの人に、幸せを願ってもらえるなんて、なんてわたしは幸せ者なのでしょうか。
馬車の隣で、お兄様が、わたしを見て微笑みました。こんなに素敵な方がわたしの夫になるなんて、まだ信じられません。
よく晴れた夏の日でした。眩しい日差しが聖堂の硝子を通ってわたし達に降り注ぎます。シューメルナ様が祀られている祭壇の前に、お兄様と共に並びました。
ヴァリ聖密卿が、結婚の誓いの立会人でした。
あの口付けのことを、わたしは考えないようにしていました。あれ以来、そんなこともありませんでしたし、彼の方も、いつも通りの態度だったからです。
「結婚おめでとう、イリス、ディミトリオス。二人のことを、心から祝福するよ」
聖典の言葉を読み上げた後で、ヴァリ聖密卿は、彼自身の言葉でそう言ってくださいました。お兄様が、わたしを見て微笑んでくださいます。皆が、わたしを愛し、祝福してくださいました。
わたしは幸せでした。聖女になってからずっとずっと、我慢して来ました。死の瞬間まで、わたしは自由ではなかったのです。
だからこんなに幸せな時が訪れるなんて、考えてもみませんでした。両親がいて、友人がいて、大好きな方と結婚する。
わたしの命の終わりが、残り少ないからって、それがどうしたというのでしょう? これほどの幸福が訪れたんですもの。それだけで生まれてきた意味は、十分すぎるほどあるように思えました。命の最後に、これほどの幸せな時間がもらえるなんて、考えてもみませんでしたもの。
◇◆◇
相変わらず祝福は帝国中を渦巻いていましたが、夜になって、わたしとお兄様には平穏がやってきました。
お兄様のお部屋で、たった二人きりで過ごします。一緒に夕食を食べ、とりとめのないことを話しました。お兄様は楽しげで、だからわたしもすごく楽しいと思いました。お兄様のお部屋は片付けられ、山のような本は、今日は姿を消しています。国政のことも、聖女のことも、悲しい話も、今日だけはしませんでした。
ご飯を食べ終え、ちょっとだけお酒も飲んで、お話も尽きた頃、お兄様は言いました。
「そろそろ、寝ようか」
わたしの心臓は、どうにかしてしまいそうなくらいに高鳴りました。お兄様の手がテーブルに置かれたわたしの手に触れ、黄金色の瞳が、じっと向けられました。
わたしの許可を、待っているのだと気が付きました。耳まで熱くなってしまいます。ゆっくりと、わたしが頷くと、そのまま手に、キスをされました。わたしはこれから、前のイリスと同じように、お兄様と本当の恋人になるのです。
いいえ、結婚をしたのですから、夫婦になるのです。お兄様の妻に、わたしはなるのです。
けれど、お兄様が使用人さんに命じて、食器を片付けさせていた時です。
ふいに、違和感を覚えました。
部屋が、急に暗くなったような気がしたのです。燭台の灯りはそのままだし、そんなはずはないのに……。
お兄様も同じように異変を感じ取ったのか、立ち上がったまま、眉根を寄せられていました。
「なんだ……何が……。誰だ!」
突然お兄様は背後を振り返りました。わたしも、そこに視線を向け、そうしてはっきりと視認しました。ぼやけた黒い影が、お兄様の背後に佇んでいたのを。
きゃあと、悲鳴を上げ立ち上がってしまいました。
まだ部屋の中にいた使用人さんが、驚いたようにわたし達を見ています。けれど瞬きの間に、影は消えていました。部屋の明るさも、元に戻ったように思います。
一体何が起きたのか少しも分からず、あたりをきょろきょろ見回していると、お兄様がわたしの腕に触れました。見上げ、疑問を声に出す前に、唇が触れました。
――あ、キスだ。
そんなことを、ぼんやりと考えました。ようやく顔を離した後で、また唖然としている使用人さん達に向かって、お兄様は冷たく言い放ちます。
「何を見ている? さっさと失せろ下衆が」
いつもの口調とは、全然違う話し方でした。
慌てた様子で使用人さん達は部屋を出ていきます。わたし達はまた、二人きりになります。けれどさっきまでの温かな空気は失せていました。漠然とした不安を抱えたまま、わたしはお兄様を見上げます。
お兄様は、目を細め、わたしの頬に触れました。
「イリス――ああ、イリス。なんと美しい娘だろう。こうしてお前に触れる時を、長い間待ち侘びていた」
お兄様のご様子が変で、わたしは泣きそうになりました。だって毎日一緒にいるのに、まるで久しぶりに会ったみたいなんですもの。
「お兄様、どうされたの?」
「どうもしていない。正しいものが正しい場所に戻っただけだ」
こんな話し方は、こんな態度は、まるで、まるで――。
「あなたは、誰? ディミトリオスお兄様なの……?」
「不安にならなくていい、イリス。俺こそがディミトリオスだ」
次にあったのは、息を継ぐ間もないほどの激しい口付けでした。深く、深く、喰らい尽くされそうになるほどの、キスでした。いつもの口付けとは異なっていました。混乱のまま、必死で受け入れましたけれど、目には涙が滲んでしまいました。
彼が離れた瞬間、わたしは大きく息を吸い込みます。頭がくらくらします。
お兄様は、顔を歪められました。
「くそ、まだ意識が残っているのか」
それからまたしても、わたしの唇にキスをされます。今度は、触れるようなキスでした。
「お前はもうすぐ解放される。幸せになれる。誓った幸福を、俺は必ず果たす。お前は今度こそ、望みを叶えられる。どうか待っていてくれ」
そう言った瞬間、お兄様は、何かに弾かれたように背後に倒れられました。
「うあっ……!」
額に汗を浮かべながら、お兄様は肩で呼吸をなさいます。辛いのか、目を固く閉じておられました。
「お兄様! 大丈夫ですか! ディミトリオスお兄様!」
「何かが、僕の中に入った……! 何かが……。何か」
お兄様は首を横に振り、はっきりと言いました。
「……あれは、ディミトリオスだった」
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