145 / 156
第四章 彼女に捧ぐ鎮魂歌
愛する者が幸福であるために
しおりを挟む
ディミトリオスは強烈な痛みで目が覚めた。
体中が、いつか味わったあの炎で、焼き払われているかのように激しく痛んだ。あるいは細切れに肉が引き千切られ続けているかのような。
叫びながらのたうち回った。
いるのは大聖堂の地下には変わりない。だが、側にイリスの結晶はなかった。幼い聖女の姿もない。がらんどうの地下に、ディミトリオスの絶叫が響いた。
司祭等が、すぐにやってくる。
入り込んだ浮浪者だと思われたらしい。部屋に連れて行かれ、看病と食事が与えられたが、痛みが去ることはなかった。
「痛みは闇の魔術の代償のようです。かなり強い魔術をつかわれたのでしょう?」
見たこともない司祭がそう言った。
――闇の魔術だと?
使った覚えはない。だが、心当たりはあった。イリスの力を行使したが、常人が使うならば闇に属するものだったのだろう。
ふらりとディミトリオスは立ち上がり、止める司祭を振り払い、状況を確認するため外に出た。そうして知る。
幼いオーランドが帝位についた祝賀が、帝都中で開かれていた。
知っている現在より遥か過去に、時間が戻っていた。
世界は崩壊した。間違いなく、あの世界は消えてしまった。
――これがイリスの望みだったのか? なぜ、時を戻した。俺を媒介にして。
時戻りの魔術は当然ながら闇の魔術であるため、代償を払う必要があった。四六時中襲う、この強大な痛みが、ディミトリオスの代償だった。
ひとしきり嘆いた後、覚悟を決めた。やることはすでに把握していた。
もはや自分の幸福は叶わない。ならば今度こそイリスが願いを叶えられるように生きよう。
――俺はお前を、幸福にしてやる。
そう誓った。
アグスフェロ・ヘイブンの邸宅に侵入し、火を放つ。当の本人は、自ら手を下した。魔術さえ使わず、その首を、縄で締め上げた。
「貴様はイリスを死に追いやった、最もゲスい元凶だ……!」
ディミトリオスの手の中で、ヘイブンは事切れた。なぜ自分がこの恐ろしい容貌の男に殺されなくてはならないのか、その理由さえ知らないままに。
そのまま、ディミトリオスはヘイブンに成り代わった。権力を有する聖密卿は、いずれ現れるであろう聖女と近づくに、まさにうってつけの地位だった。信心深いローザリア人の信仰を支配していると言ってもいい。
大聖堂の司祭達は、一度ディミトリオスを見ていたが、事故で酷い傷を負ったと言い、肌の露出を極力抑える彼を、疑う者はいなかった。
そうしながら、ディミトリオスは、自分の異変に気がついた。
死に近づいたせいか、闇に深く触れたせいか、人外の魔術を体に取り込んだせいか、あるいは遺伝が今になって覚醒したのか、クロードと同様、人の魂というものが、見えるようになっていたのだ。
成り代わりが成功した後、密やかにテミス家の領地を訪れ、ミランダの手の中にいる赤子を見て愕然とした。
あれが、イリスの魂なのか?
魂がひび割れ、漏れ出していた。
醜くひしゃげ、歪んでいた。
――破損している。あれではすぐに死んでしまう。なんと弱々しいのだろう。それに、なんだあれは。時戻りの代償なのか? 魂が、呪われている。
水晶には、どこまで意識があったのだろうか。恐らくは、今まで考えられていた以上に明確に、意思があるのではないのか。
悲劇の運命に逆らおうと、彼女は禁忌を犯し、魂が呪われてしまっていた。
おまけにその魂に、闇の魔術がかけられていた。何者がかけたものなのか。イリス自身の手によるものなのかは分からないが、術式は利用できそうであった。
だからディミトリオスは、彼女の魂を安定させるため、闇の魔術を上書きした。何重にも、何重にも、あの魂が消えかける度に、何度も魔術を行使した。その度に、体の痛みは増していった。彼女の魂が安定するまで、様子を、常に見ていた。やがて彼にとっても、彼女は何者にも代えがたい、愛おしい赤ん坊となった。
放っておけばこのイリスもあのイリスと同じ運命を辿るのだろうが、異なるのは、己がヘイブンとして、今度こそイリスの願った終焉を迎えさせてやることだ。
この領地の中に、母と幼い自分がいるのだろうとは思っていた。だが会うつもりは、なかった。
やがてディミトリオスが、テミス家にやってきたらしい。
遠くよりその姿を確認したディミトリオスは、幼い自分の姿に驚愕した。養父母を愛そうと努力しているようだ。
――あれが俺だとは、なんと情けないのだ。
ディマは、ディミトリオスの記憶の中で、確かに自分の姿を見た。
(僕だ……僕のことも、ディミトリオスは見ていたのか)
この世界で、自分自身に見られていたとは、まさか考えてもいなかった。
ディミトリオスは同時に、イリスの異変にも気がついた。
何度も反芻した思い出の中の彼女とは、性格も、話す口調も何もかも異なっている。人目を避けて隠れて泣くディミトリオスに、幼いイリスは寄り添い慰めた。さながら年長者が年少者に取る態度のようだ。以前のイリスの子どもの頃は、甘えん坊で泣き虫で、ひたすらに兄を慕っていたが、今の彼女は妙に大人びて、遥かに冷静に見えた。
イリスに時が戻る前の知識があると知ったのは、彼女がクロード・ヴァリに向けて書いた手紙を見たときだ。彼女から出された手紙は、それが誰に向けたどのような類のものであろうとも、常に確認していたのだ。
アリア・ルトゥムが聖女であると、彼女は確かに知っていた。
心が打ち震えた。
記憶があるから、大人びて見えたのか。
しかし同時に疑問はあった。
前の世界を覚えているのなら、俺がここにいることも知っているはずだ。なのになぜ、知らぬふりをして会いに来ないのか――? 贖罪をさせているつもりなのか。あるいは別の理由があるのか。
いやそもそも、あれは本当にイリスなのか? 逆行前に魂は見えなかったから、確認のしようがない。疑問は解消されなかった。
手紙はクロードには渡さずに、エルアリンドへと渡した。
彼ならば、前と同じくイリスを帝都まで引っ張ってくるのだろうから。
彼女は必ず聖女にならないといけない。そうでないと、彼女の願いが叶わない。
一方で、ディミトリオスはクロードに会うことを避けていた。
彼は魂が見える。己がディミトリオスであると気付かれては邪魔をされてしまう。既に彼は、この世界のディミトリオスを見ているのだから。
だが幼いディミトリオスの処刑騒ぎの時、方々を走り回っていたクロードに遂に気取られる。イリスの手紙をエルアリンドに渡したことを突き止め怪しんだのだ。
無断で聖密卿の部屋の扉を開いたクロードは、彼にしては珍しく、唖然とした表情を浮かべた。
「ディミトリオス――?」
気付かれた。この男からは逃れようがない。
恐怖と同時に、やはりこみ上げる愛情と憐憫があった。
観念し、ディミトリオスは全てを話す。クロードは、信じたようだった。
「では私も、君に協力しようじゃないか」
年下の彼は、兄めいてそう微笑んだ。
ディミトリオスが奇妙さを覚えたのは、不思議と時が戻る前の彼とは異なり、その瞳に愛情を感じたことだ。
以前の彼は冷徹だった。だが、今の彼の瞳は、優しさを帯びているように思えてならなかった。何が違うというのだ。この世界と前の世界は。
彼に車椅子を押されながら、幼少期の自分の処刑を助けた。彼をここで死なせるわけにはならなかった。自分である彼は、最も利用しやすい駒だった。イリスの願いを遂げるために、生かしておくに越したことはない。
「今のイリスにある記憶は、君とは性質が異なるようだよ」
処刑騒ぎの後で、クロードはそう言った。
救い出された幼いディミトリオスとイリスが、面会をしている間だった。すでに彼女は聖女として、人々に表明された後だった。
「イリスは今も、あの体の中にいる。表に別の魂を立たせ、自分は眠っているのだろう。これは仮説だが、以前の彼女が魂を砕き、今の彼女を作り出したのではないかな。いわば自分の代わりに世界を生きてくれる分身だ」
「なぜそんなことをする必要がある」
「この世界に、嫌気が差したのかもしれないね」
「どうしたら前のイリスが戻るんだ?」
クロードは首を横に振る。
「分からないな。だが重なる魂の影に常にイリスがいる。表に今いる彼女の魂はあまり安定していない。時が来て、元のイリスの心の傷が癒えれば、再びこの世に出現するかもしれない」
だが――と、兄は言う。
「あの魂の、なんと美しいことだろう。今にも崩壊してもおかしくない危うい均衡であるのに、生きようと刹那に輝く。あの光は、いつまでも見つめていたいほど、綺麗だ。消えてほしくはないな」
ディミトリオスは彼の目に潜む愛情に、また気がついた。以前の彼はイリスに少しの情も抱いていなかったはずだった。あるいはそれほどまでに、今のイリスを気に入っているということなのだろうか。
ディミトリオスは、それからもイリスを見守った。彼女の中に眠るイリスを目覚めさせ、今度こそ彼女の希望を叶えてやるために。彼女がこの世界で目覚めても良いと、思えるように、今のイリスの力になった。
イリスは毎日大聖堂にやってきて、祈りを捧げ、ディミトリオスに会って、会話を交わした。声で気付かれてはならないと、会話は主に手話だった。彼女もすぐに、手話を覚えた。以前のイリスと同様に、彼女はかなりの努力家のようだった。
二人で交わす会話は、なんとも満ち足り、癒やされるものだった。以前のイリスとは異なるのに、今のイリスもまた、ディミトリオスにとってかけがえのない少女となっていた。
ある時、深刻な表情を浮かべたイリスが大聖堂にやってきた。クリステル家反乱について、彼女は悩んでいるようだった。ディミトリオスはこう伝えた。
――愛する者が幸福である選択を、常にしてきた。
常に、常に、そうしてきた。そのつもりだった。今もそうだ。イリスだけのために、生きていた。
ディマは愕然とした。
(その結果がこれか――! なんてザマなんだ!!)
己の姿が受け入れ難く感じる。だが間違いなく、彼は自分自身なのだ。
ディミトリオスはそれからも、ひたすらにイリスのために生きた。
だから、この世界のディミトリオスのことも守った。愛を信じ希望を見つめるその姿を軽蔑しながらも、ルカ・リオンテールが放った襲撃者から彼を助けた。
イリスが幸福であるためには、この世界のディミトリオスには生きていてもらわなくてはならない。
一方で、この世界の自分を憎悪した。
なぜ、自分と同じ魂を持つこの男の魂はかように輝くのか分からない。己の魂は醜く錆びつき輝きさえしないのに。
汚れていなくてはならないはずだ。ディミトリオスが真っ当に彼女を救えたなどと、あり得てはならない。
あり得たかもしれない成功を見るのは、彼女を救う道があったのだと知るのは、己自身の生き方が失敗だったと知らされ続けるのは、耐え難い苦痛だった。
若く愚かで、未熟な自分を、嫌悪していた。俺が苦しんでいるのに、貴様が幸福を感じているのはおかしなことだ。早く貴様も苦しみ抜けばいい。
――ここはまるで地獄の底だ。
いつか思ったように、ディミトリオスは考えていた。だがそれでもやはり、イリスの作り出した地獄なら、地獄でさえも愛おしい。
(これ以上、この記憶の中にいてはならない)
ディマはそう思った。彼の記憶を通して見るよく知るイリスの表情が、ディマの心を一層悩ましいものにした。懐かしさが溢れ、いつまでも浸っていたくなる。だが、それではだめだ。
ディマは光を探った。以前体を乗っ取りかけられて以来、対抗すべく策を練っていた。以前彼が体に侵入した時、別の方向に引っ張られるような感覚があった。あれはヘイブンの体が魂を求めていたに違いなかった。元の体に戻れないのなら、そちらの体に戻ればいい。
抜け殻になったヘイブンの体が教皇庁のどこかにあるはずだ。元は自分の体なのだから、必ずこの魂で動くはずだ。
ディマは深く集中した。
(僕らのイリスを守らなくては。――そうだろうイリス?)
呼びかけたのは、ずっと心の中にいる彼女の方へだった。
イリスを独りにはしないと誓った。彼女の願ったイリスの幸福は、ディミトリオスが願ったイリスの幸福では決してないはずだった。
だからディマは戻ってきた。再びの混沌の中へと。
◇◆◇
今、ディマは足をもいだ自分の体に剣を向ける。
致命傷を負わせるつもりだったが、魔力は拮抗している。彼は対抗し、攻撃はわずかに逸れた。おまけに今のこの体は、気を抜くと意識を失いそうになるほどの激しい痛みに苛まれ、魔力の制御が普段よりぎこちない。
ディミトリオスはこの世界で、常にこの痛みと共に生きてきたのか。
だがそれがなんだというのだ。責め苦に耐え抜いたとて、称賛には値しない。
イリスを背後に隠しながら、ディマは自分に向かって叫んだ。
「貴様だけはここで殺す! 貴様の記憶を見てよく分かった。救いたかったのはイリスじゃない! 憐れんだのはイリスじゃない! 自分自身だったんだろう!」
ディミトリオスは黙ってこちらを見つめている。
だからディマはまた言った。自己嫌悪は、頂点に達する。
「全てにおいて貴様は間違っていた! 滅びなんて願わせないくらいに、愛を詰め込むことこそが、お前がやらねばならないことだった! 愛してるって、どんな時だって伝え続ければ良かったんだろう! 愛していたら、死なせたりしない! 何が何でも、一緒に生きることこそが愛だ! 僕はそうする。貴様のできなかったことを、僕はやってやる!」
それこそが、ディマの求める正義だった。
体中が、いつか味わったあの炎で、焼き払われているかのように激しく痛んだ。あるいは細切れに肉が引き千切られ続けているかのような。
叫びながらのたうち回った。
いるのは大聖堂の地下には変わりない。だが、側にイリスの結晶はなかった。幼い聖女の姿もない。がらんどうの地下に、ディミトリオスの絶叫が響いた。
司祭等が、すぐにやってくる。
入り込んだ浮浪者だと思われたらしい。部屋に連れて行かれ、看病と食事が与えられたが、痛みが去ることはなかった。
「痛みは闇の魔術の代償のようです。かなり強い魔術をつかわれたのでしょう?」
見たこともない司祭がそう言った。
――闇の魔術だと?
使った覚えはない。だが、心当たりはあった。イリスの力を行使したが、常人が使うならば闇に属するものだったのだろう。
ふらりとディミトリオスは立ち上がり、止める司祭を振り払い、状況を確認するため外に出た。そうして知る。
幼いオーランドが帝位についた祝賀が、帝都中で開かれていた。
知っている現在より遥か過去に、時間が戻っていた。
世界は崩壊した。間違いなく、あの世界は消えてしまった。
――これがイリスの望みだったのか? なぜ、時を戻した。俺を媒介にして。
時戻りの魔術は当然ながら闇の魔術であるため、代償を払う必要があった。四六時中襲う、この強大な痛みが、ディミトリオスの代償だった。
ひとしきり嘆いた後、覚悟を決めた。やることはすでに把握していた。
もはや自分の幸福は叶わない。ならば今度こそイリスが願いを叶えられるように生きよう。
――俺はお前を、幸福にしてやる。
そう誓った。
アグスフェロ・ヘイブンの邸宅に侵入し、火を放つ。当の本人は、自ら手を下した。魔術さえ使わず、その首を、縄で締め上げた。
「貴様はイリスを死に追いやった、最もゲスい元凶だ……!」
ディミトリオスの手の中で、ヘイブンは事切れた。なぜ自分がこの恐ろしい容貌の男に殺されなくてはならないのか、その理由さえ知らないままに。
そのまま、ディミトリオスはヘイブンに成り代わった。権力を有する聖密卿は、いずれ現れるであろう聖女と近づくに、まさにうってつけの地位だった。信心深いローザリア人の信仰を支配していると言ってもいい。
大聖堂の司祭達は、一度ディミトリオスを見ていたが、事故で酷い傷を負ったと言い、肌の露出を極力抑える彼を、疑う者はいなかった。
そうしながら、ディミトリオスは、自分の異変に気がついた。
死に近づいたせいか、闇に深く触れたせいか、人外の魔術を体に取り込んだせいか、あるいは遺伝が今になって覚醒したのか、クロードと同様、人の魂というものが、見えるようになっていたのだ。
成り代わりが成功した後、密やかにテミス家の領地を訪れ、ミランダの手の中にいる赤子を見て愕然とした。
あれが、イリスの魂なのか?
魂がひび割れ、漏れ出していた。
醜くひしゃげ、歪んでいた。
――破損している。あれではすぐに死んでしまう。なんと弱々しいのだろう。それに、なんだあれは。時戻りの代償なのか? 魂が、呪われている。
水晶には、どこまで意識があったのだろうか。恐らくは、今まで考えられていた以上に明確に、意思があるのではないのか。
悲劇の運命に逆らおうと、彼女は禁忌を犯し、魂が呪われてしまっていた。
おまけにその魂に、闇の魔術がかけられていた。何者がかけたものなのか。イリス自身の手によるものなのかは分からないが、術式は利用できそうであった。
だからディミトリオスは、彼女の魂を安定させるため、闇の魔術を上書きした。何重にも、何重にも、あの魂が消えかける度に、何度も魔術を行使した。その度に、体の痛みは増していった。彼女の魂が安定するまで、様子を、常に見ていた。やがて彼にとっても、彼女は何者にも代えがたい、愛おしい赤ん坊となった。
放っておけばこのイリスもあのイリスと同じ運命を辿るのだろうが、異なるのは、己がヘイブンとして、今度こそイリスの願った終焉を迎えさせてやることだ。
この領地の中に、母と幼い自分がいるのだろうとは思っていた。だが会うつもりは、なかった。
やがてディミトリオスが、テミス家にやってきたらしい。
遠くよりその姿を確認したディミトリオスは、幼い自分の姿に驚愕した。養父母を愛そうと努力しているようだ。
――あれが俺だとは、なんと情けないのだ。
ディマは、ディミトリオスの記憶の中で、確かに自分の姿を見た。
(僕だ……僕のことも、ディミトリオスは見ていたのか)
この世界で、自分自身に見られていたとは、まさか考えてもいなかった。
ディミトリオスは同時に、イリスの異変にも気がついた。
何度も反芻した思い出の中の彼女とは、性格も、話す口調も何もかも異なっている。人目を避けて隠れて泣くディミトリオスに、幼いイリスは寄り添い慰めた。さながら年長者が年少者に取る態度のようだ。以前のイリスの子どもの頃は、甘えん坊で泣き虫で、ひたすらに兄を慕っていたが、今の彼女は妙に大人びて、遥かに冷静に見えた。
イリスに時が戻る前の知識があると知ったのは、彼女がクロード・ヴァリに向けて書いた手紙を見たときだ。彼女から出された手紙は、それが誰に向けたどのような類のものであろうとも、常に確認していたのだ。
アリア・ルトゥムが聖女であると、彼女は確かに知っていた。
心が打ち震えた。
記憶があるから、大人びて見えたのか。
しかし同時に疑問はあった。
前の世界を覚えているのなら、俺がここにいることも知っているはずだ。なのになぜ、知らぬふりをして会いに来ないのか――? 贖罪をさせているつもりなのか。あるいは別の理由があるのか。
いやそもそも、あれは本当にイリスなのか? 逆行前に魂は見えなかったから、確認のしようがない。疑問は解消されなかった。
手紙はクロードには渡さずに、エルアリンドへと渡した。
彼ならば、前と同じくイリスを帝都まで引っ張ってくるのだろうから。
彼女は必ず聖女にならないといけない。そうでないと、彼女の願いが叶わない。
一方で、ディミトリオスはクロードに会うことを避けていた。
彼は魂が見える。己がディミトリオスであると気付かれては邪魔をされてしまう。既に彼は、この世界のディミトリオスを見ているのだから。
だが幼いディミトリオスの処刑騒ぎの時、方々を走り回っていたクロードに遂に気取られる。イリスの手紙をエルアリンドに渡したことを突き止め怪しんだのだ。
無断で聖密卿の部屋の扉を開いたクロードは、彼にしては珍しく、唖然とした表情を浮かべた。
「ディミトリオス――?」
気付かれた。この男からは逃れようがない。
恐怖と同時に、やはりこみ上げる愛情と憐憫があった。
観念し、ディミトリオスは全てを話す。クロードは、信じたようだった。
「では私も、君に協力しようじゃないか」
年下の彼は、兄めいてそう微笑んだ。
ディミトリオスが奇妙さを覚えたのは、不思議と時が戻る前の彼とは異なり、その瞳に愛情を感じたことだ。
以前の彼は冷徹だった。だが、今の彼の瞳は、優しさを帯びているように思えてならなかった。何が違うというのだ。この世界と前の世界は。
彼に車椅子を押されながら、幼少期の自分の処刑を助けた。彼をここで死なせるわけにはならなかった。自分である彼は、最も利用しやすい駒だった。イリスの願いを遂げるために、生かしておくに越したことはない。
「今のイリスにある記憶は、君とは性質が異なるようだよ」
処刑騒ぎの後で、クロードはそう言った。
救い出された幼いディミトリオスとイリスが、面会をしている間だった。すでに彼女は聖女として、人々に表明された後だった。
「イリスは今も、あの体の中にいる。表に別の魂を立たせ、自分は眠っているのだろう。これは仮説だが、以前の彼女が魂を砕き、今の彼女を作り出したのではないかな。いわば自分の代わりに世界を生きてくれる分身だ」
「なぜそんなことをする必要がある」
「この世界に、嫌気が差したのかもしれないね」
「どうしたら前のイリスが戻るんだ?」
クロードは首を横に振る。
「分からないな。だが重なる魂の影に常にイリスがいる。表に今いる彼女の魂はあまり安定していない。時が来て、元のイリスの心の傷が癒えれば、再びこの世に出現するかもしれない」
だが――と、兄は言う。
「あの魂の、なんと美しいことだろう。今にも崩壊してもおかしくない危うい均衡であるのに、生きようと刹那に輝く。あの光は、いつまでも見つめていたいほど、綺麗だ。消えてほしくはないな」
ディミトリオスは彼の目に潜む愛情に、また気がついた。以前の彼はイリスに少しの情も抱いていなかったはずだった。あるいはそれほどまでに、今のイリスを気に入っているということなのだろうか。
ディミトリオスは、それからもイリスを見守った。彼女の中に眠るイリスを目覚めさせ、今度こそ彼女の希望を叶えてやるために。彼女がこの世界で目覚めても良いと、思えるように、今のイリスの力になった。
イリスは毎日大聖堂にやってきて、祈りを捧げ、ディミトリオスに会って、会話を交わした。声で気付かれてはならないと、会話は主に手話だった。彼女もすぐに、手話を覚えた。以前のイリスと同様に、彼女はかなりの努力家のようだった。
二人で交わす会話は、なんとも満ち足り、癒やされるものだった。以前のイリスとは異なるのに、今のイリスもまた、ディミトリオスにとってかけがえのない少女となっていた。
ある時、深刻な表情を浮かべたイリスが大聖堂にやってきた。クリステル家反乱について、彼女は悩んでいるようだった。ディミトリオスはこう伝えた。
――愛する者が幸福である選択を、常にしてきた。
常に、常に、そうしてきた。そのつもりだった。今もそうだ。イリスだけのために、生きていた。
ディマは愕然とした。
(その結果がこれか――! なんてザマなんだ!!)
己の姿が受け入れ難く感じる。だが間違いなく、彼は自分自身なのだ。
ディミトリオスはそれからも、ひたすらにイリスのために生きた。
だから、この世界のディミトリオスのことも守った。愛を信じ希望を見つめるその姿を軽蔑しながらも、ルカ・リオンテールが放った襲撃者から彼を助けた。
イリスが幸福であるためには、この世界のディミトリオスには生きていてもらわなくてはならない。
一方で、この世界の自分を憎悪した。
なぜ、自分と同じ魂を持つこの男の魂はかように輝くのか分からない。己の魂は醜く錆びつき輝きさえしないのに。
汚れていなくてはならないはずだ。ディミトリオスが真っ当に彼女を救えたなどと、あり得てはならない。
あり得たかもしれない成功を見るのは、彼女を救う道があったのだと知るのは、己自身の生き方が失敗だったと知らされ続けるのは、耐え難い苦痛だった。
若く愚かで、未熟な自分を、嫌悪していた。俺が苦しんでいるのに、貴様が幸福を感じているのはおかしなことだ。早く貴様も苦しみ抜けばいい。
――ここはまるで地獄の底だ。
いつか思ったように、ディミトリオスは考えていた。だがそれでもやはり、イリスの作り出した地獄なら、地獄でさえも愛おしい。
(これ以上、この記憶の中にいてはならない)
ディマはそう思った。彼の記憶を通して見るよく知るイリスの表情が、ディマの心を一層悩ましいものにした。懐かしさが溢れ、いつまでも浸っていたくなる。だが、それではだめだ。
ディマは光を探った。以前体を乗っ取りかけられて以来、対抗すべく策を練っていた。以前彼が体に侵入した時、別の方向に引っ張られるような感覚があった。あれはヘイブンの体が魂を求めていたに違いなかった。元の体に戻れないのなら、そちらの体に戻ればいい。
抜け殻になったヘイブンの体が教皇庁のどこかにあるはずだ。元は自分の体なのだから、必ずこの魂で動くはずだ。
ディマは深く集中した。
(僕らのイリスを守らなくては。――そうだろうイリス?)
呼びかけたのは、ずっと心の中にいる彼女の方へだった。
イリスを独りにはしないと誓った。彼女の願ったイリスの幸福は、ディミトリオスが願ったイリスの幸福では決してないはずだった。
だからディマは戻ってきた。再びの混沌の中へと。
◇◆◇
今、ディマは足をもいだ自分の体に剣を向ける。
致命傷を負わせるつもりだったが、魔力は拮抗している。彼は対抗し、攻撃はわずかに逸れた。おまけに今のこの体は、気を抜くと意識を失いそうになるほどの激しい痛みに苛まれ、魔力の制御が普段よりぎこちない。
ディミトリオスはこの世界で、常にこの痛みと共に生きてきたのか。
だがそれがなんだというのだ。責め苦に耐え抜いたとて、称賛には値しない。
イリスを背後に隠しながら、ディマは自分に向かって叫んだ。
「貴様だけはここで殺す! 貴様の記憶を見てよく分かった。救いたかったのはイリスじゃない! 憐れんだのはイリスじゃない! 自分自身だったんだろう!」
ディミトリオスは黙ってこちらを見つめている。
だからディマはまた言った。自己嫌悪は、頂点に達する。
「全てにおいて貴様は間違っていた! 滅びなんて願わせないくらいに、愛を詰め込むことこそが、お前がやらねばならないことだった! 愛してるって、どんな時だって伝え続ければ良かったんだろう! 愛していたら、死なせたりしない! 何が何でも、一緒に生きることこそが愛だ! 僕はそうする。貴様のできなかったことを、僕はやってやる!」
それこそが、ディマの求める正義だった。
71
あなたにおすすめの小説
婚約破棄歴八年、すっかり飲んだくれになった私をシスコン義弟が宰相に成り上がって迎えにきた
鳥羽ミワ
恋愛
ロゼ=ローラン、二十四歳。十六歳の頃に最初の婚約が破棄されて以来、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいの婚約破棄を経験している。
幸い両親であるローラン伯爵夫妻はありあまる愛情でロゼを受け入れてくれているし、お酒はおいしいけれど、このままではかわいい義弟のエドガーの婚姻に支障が出てしまうかもしれない。彼はもう二十を過ぎているのに、いまだ縁談のひとつも来ていないのだ。
焦ったロゼはどこでもいいから嫁ごうとするものの、行く先々にエドガーが現れる。
このままでは義弟が姉離れできないと強い危機感を覚えるロゼに、男として迫るエドガー。気づかないロゼ。構わず迫るエドガー。
エドガーはありとあらゆるギリギリ世間の許容範囲(の外)の方法で外堀を埋めていく。
「パーティーのパートナーは俺だけだよ。俺以外の男の手を取るなんて許さない」
「お茶会に行くんだったら、ロゼはこのドレスを着てね。古いのは全部処分しておいたから」
「アクセサリー選びは任せて。俺の瞳の色だけで綺麗に飾ってあげるし、もちろん俺のネクタイもロゼの瞳の色だよ」
ちょっと抜けてる真面目酒カス令嬢が、シスコン義弟に溺愛される話。
※この話はカクヨム様、アルファポリス様、エブリスタ様にも掲載されています。
※レーティングをつけるほどではないと判断しましたが、作中性的ないやがらせ、暴行の描写、ないしはそれらを想起させる描写があります。
次期騎士団長の秘密を知ってしまったら、迫られ捕まってしまいました
Karamimi
恋愛
侯爵令嬢で貴族学院2年のルミナスは、元騎士団長だった父親を8歳の時に魔物討伐で亡くした。一家の大黒柱だった父を亡くしたことで、次期騎士団長と期待されていた兄は騎士団を辞め、12歳という若さで侯爵を継いだ。
そんな兄を支えていたルミナスは、ある日貴族学院3年、公爵令息カルロスの意外な姿を見てしまった。学院卒院後は騎士団長になる事も決まっているうえ、容姿端麗で勉学、武術も優れているまさに完璧公爵令息の彼とはあまりにも違う姿に、笑いが止まらない。
お兄様の夢だった騎士団長の座を奪ったと、一方的にカルロスを嫌っていたルミナスだが、さすがにこの秘密は墓場まで持って行こう。そう決めていたのだが、翌日カルロスに捕まり、鼻息荒く迫って来る姿にドン引きのルミナス。
挙句の果てに“ルミタン”だなんて呼ぶ始末。もうあの男に関わるのはやめよう、そう思っていたのに…
意地っ張りで素直になれない令嬢、ルミナスと、ちょっと気持ち悪いがルミナスを誰よりも愛している次期騎士団長、カルロスが幸せになるまでのお話しです。
よろしくお願いしますm(__)m
【完結】勘当されたい悪役は自由に生きる
雨野
恋愛
難病に罹り、15歳で人生を終えた私。
だが気がつくと、生前読んだ漫画の貴族で悪役に転生していた!?タイトルは忘れてしまったし、ラストまで読むことは出来なかったけど…確かこのキャラは、家を勘当され追放されたんじゃなかったっけ?
でも…手足は自由に動くし、ご飯は美味しく食べられる。すうっと深呼吸することだって出来る!!追放ったって殺される訳でもなし、貴族じゃなくなっても問題ないよね?むしろ私、庶民の生活のほうが大歓迎!!
ただ…私が転生したこのキャラ、セレスタン・ラサーニュ。悪役令息、男だったよね?どこからどう見ても女の身体なんですが。上に無いはずのモノがあり、下にあるはずのアレが無いんですが!?どうなってんのよ!!?
1話目はシリアスな感じですが、最終的にはほのぼの目指します。
ずっと病弱だったが故に、目に映る全てのものが輝いて見えるセレスタン。自分が変われば世界も変わる、私は…自由だ!!!
主人公は最初のうちは卑屈だったりしますが、次第に前向きに成長します。それまで見守っていただければと!
愛され主人公のつもりですが、逆ハーレムはありません。逆ハー風味はある。男装主人公なので、側から見るとBLカップルです。
予告なく痛々しい、残酷な描写あり。
サブタイトルに◼️が付いている話はシリアスになりがち。
小説家になろうさんでも掲載しております。そっちのほうが先行公開中。後書きなんかで、ちょいちょいネタ挟んでます。よろしければご覧ください。
こちらでは僅かに加筆&話が増えてたりします。
本編完結。番外編を順次公開していきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
【完結】転生白豚令嬢☆前世を思い出したので、ブラコンではいられません!
白雨 音
恋愛
エリザ=デュランド伯爵令嬢は、学院入学時に転倒し、頭を打った事で前世を思い出し、
《ここ》が嘗て好きだった小説の世界と似ている事に気付いた。
しかも自分は、義兄への恋を拗らせ、ヒロインを貶める為に悪役令嬢に加担した挙句、
義兄と無理心中バッドエンドを迎えるモブ令嬢だった!
バッドエンドを回避する為、義兄への恋心は捨て去る事にし、
前世の推しである悪役令嬢の弟エミリアンに狙いを定めるも、義兄は気に入らない様で…??
異世界転生:恋愛 ※魔法無し
《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、ありがとうございます☆
冷酷騎士団長に『出来損ない』と捨てられましたが、どうやら私の力が覚醒したらしく、ヤンデレ化した彼に執着されています
放浪人
恋愛
平凡な毎日を送っていたはずの私、橘 莉奈(たちばな りな)は、突然、眩い光に包まれ異世界『エルドラ』に召喚されてしまう。 伝説の『聖女』として迎えられたのも束の間、魔力測定で「魔力ゼロ」と判定され、『出来損ない』の烙印を押されてしまった。
希望を失った私を引き取ったのは、氷のように冷たい瞳を持つ、この国の騎士団長カイン・アシュフォード。 「お前はここで、俺の命令だけを聞いていればいい」 物置のような部屋に押し込められ、彼から向けられるのは侮蔑の視線と冷たい言葉だけ。
元の世界に帰ることもできず、絶望的な日々が続くと思っていた。
──しかし、ある出来事をきっかけに、私の中に眠っていた〝本当の力〟が目覚め始める。 その瞬間から、私を見るカインの目が変わり始めた。
「リリア、お前は俺だけのものだ」 「どこへも行かせない。永遠に、俺のそばにいろ」
かつての冷酷さはどこへやら、彼は私に異常なまでの執着を見せ、甘く、そして狂気的な愛情で私を束縛しようとしてくる。 これは本当に愛情なの? それともただの執着?
優しい第二王子エリアスは私に手を差し伸べてくれるけれど、カインの嫉妬の炎は燃え盛るばかり。 逃げ場のない城の中、歪んだ愛の檻に、私は囚われていく──。
ご褒美人生~転生した私の溺愛な?日常~
紅子
恋愛
魂の修行を終えた私は、ご褒美に神様から丈夫な身体をもらい最後の転生しました。公爵令嬢に生まれ落ち、素敵な仮婚約者もできました。家族や仮婚約者から溺愛されて、幸せです。ですけど、神様。私、お願いしましたよね?寿命をベッドの上で迎えるような普通の目立たない人生を送りたいと。やりすぎですよ💢神様。
毎週火・金曜日00:00に更新します。→完結済みです。毎日更新に変更します。
R15は、念のため。
自己満足の世界に付き、合わないと感じた方は読むのをお止めください。設定ゆるゆるの思い付き、ご都合主義で書いているため、深い内容ではありません。さらっと読みたい方向けです。矛盾点などあったらごめんなさい(>_<)
【完結】婚約破棄された令嬢の毒はいかがでしょうか
まさかの
恋愛
皇太子の未来の王妃だったカナリアは突如として、父親の罪によって婚約破棄をされてしまった。
己の命が助かる方法は、友好国の悪評のある第二王子と婚約すること。
カナリアはその提案をのんだが、最初の夜会で毒を盛られてしまった。
誰も味方がいない状況で心がすり減っていくが、婚約者のシリウスだけは他の者たちとは違った。
ある時、シリウスの悪評の原因に気付いたカナリアの手でシリウスは穏やかな性格を取り戻したのだった。
シリウスはカナリアへ愛を囁き、カナリアもまた少しずつ彼の愛を受け入れていく。
そんな時に、義姉のヒルダがカナリアへ多くの嫌がらせを行い、女の戦いが始まる。
嫁いできただけの女と甘く見ている者たちに分からせよう。
カナリア・ノートメアシュトラーセがどんな女かを──。
小説家になろう、エブリスタ、アルファポリス、カクヨムで投稿しています。
盲目王子の策略から逃げ切るのは、至難の業かもしれない
当麻月菜
恋愛
生まれた時から雪花の紋章を持つノアは、王族と結婚しなければいけない運命だった。
だがしかし、攫われるようにお城の一室で向き合った王太子は、ノアに向けてこう言った。
「はっ、誰がこんな醜女を妻にするか」
こっちだって、初対面でいきなり自分を醜女呼ばわりする男なんて願い下げだ!!
───ということで、この茶番は終わりにな……らなかった。
「ならば、私がこのお嬢さんと結婚したいです」
そう言ってノアを求めたのは、盲目の為に王位継承権を剥奪されたもう一人の王子様だった。
ただ、この王子の見た目の美しさと薄幸さと善人キャラに騙されてはいけない。
彼は相当な策士で、ノアに無自覚ながらぞっこん惚れていた。
一目惚れした少女を絶対に逃さないと決めた盲目王子と、キノコをこよなく愛する魔力ゼロ少女の恋の攻防戦。
※但し、他人から見たら無自覚にイチャイチャしているだけ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる