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最終章 彼女は死んで、また生まれる
彼女によく似たその彼女
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アリア・ルトゥムが手紙に書いて寄越した村へ到着したのは、手紙を受け取ってから間もなくのことであった。
数人にのみ行き先を告げ国を出た。一人で向かうつもりだったが、せめて護衛は付けてくれとのことであったため、少数のみ同行を許した。だがその数人も、町へと置いて、一人で村へやってきた。
高原の平野にある集落はのどかであり、涼やかに空気が澄み渡る中、牧草地帯に放牧された家畜の姿がぽつりぽつりとあった。小さな村と言えど、それなりに人口は多いようだ。
だが、彼女はいなかった。
「銀髪の娘さんなら確かに三週間ほどこの村にいたが、数日前にもう行っちまったよ。ほら、あの丘の屋敷に滞在してたんだ」
聞いた村人は親切にもそう言って、丘の上を指さした。そこには屋敷が一つ建っている。
「気立ての良い兄妹でね。お兄さんの方はあまり姿を見せなかったが、礼儀正しくて穏やかな方だったよ。美男美女でね、どこかの貴族のご兄妹だろうと、皆で囁きあったものさ」
兄がいるのならば、イリスであるはずがない。
彼女であるならば、必ずディマに会うはずだ。
そうはせず、方々を旅して回っているのなら、やはり人違いなのだろうか。
「そうですか。次の予定は聞いていますか?」
藁にも縋る思いで尋ねたが、村人は首を横に振った。
「さあねえ。あまり踏み込んでほしくなさそうだったから」
結局は無駄足だったのだ。
打ちのめされた気分だった。もう希望は抱かないと思っていたはずだった。それなのに、心から火が消えたように感じるのは、頭で整理を付けたところで、心が叫んでいるからだ。彼女に再び会うことを。
他の者にも尋ねたが、同じような返答があるだけだ。
ディマは、少女が滞在していたという屋敷に入った。鍵はかかっておらず、誰もいなかった。古い屋敷だったが、埃は被っておらず、人がいた形跡はあった。
一通り中を回り、寝室の一つに入り、ベッドの上に座る。
既に、アリアの手紙から、数週間経っていた。
急いだとは言え、ローザリアから大陸へ渡るにも時間はかかる。大陸の町は、ローザリアほど道も舗装されておらず、交通の便は悪かった。
ベッドの上に長い銀髪を一本見つけ、ディマはそれを手に取った。
(イリスのものなのだろうか)
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
その一本に、口づけをする。甘美と孤独が、同時に押し寄せるようだった。
大陸は広い。その少女を探せるはずがない。それでも未練がましく彼女の魔力を探り、見つけられないまま、夕暮れが深まる前に麓の町まで戻った。
幸いにして、国の運営は信頼できる者達に引き継いできた。もうしばらくは大陸に留まってもいいだろう。だが留まる意味はあるだろうか。
翌朝になって、護衛を断り、ディマは教会の中にいた。一人で静かに考える時間が欲しかった。
少女の、次の行き先も分からない。
(手がかりは途絶えたんだ)
昨晩、僅かな望みをかけて、イリスの魔力を探ってみた。だが何も感知しない。
司祭の説教を聞きながら、今もまた、そっと探ってみる。当然のように、彼女の魔力は感じられなかった。
ディマは息を吐いて、教会の祭壇の上の木彫りの像に目を向けた。穏やかな少女の表情をして、その木彫りは目を閉じている。まるでこの世は幸福で満たされているのだと確信しているかのような、安らかな笑みだった。
イリスだと司祭は言い張るが、あまり似ていないように思えた。
説教の途中だがディマは立ち上がった。こんな大陸の僻地までやってきて、得たものといえば、彼女はどこにもいないという事実だけだ。部屋に戻って、国へも戻ろう。そう考えたときだった。
目を見張った。
――いた。
「イリス……?」
銀色の髪が歩幅に合わせ、さらりと揺れる。町娘の着るような紺色のワンピースから、白い手足が伸びていた。
彼女も丁度立ち上がり、信者のために開け放たれた扉から、教会を出ていくところだった。
「イリス‼︎」
突然大声を出したディマに、信者の数人が顔を上げた。黙れと言うように司祭が咳払いをする声が聞こえたが、それどころではなかった。
呼びかけは聞こえなかったのか、少女は教会を出ていったため、ディマも走って追いかけた。
眩しい日差しに目が眩む。
教会の外は雑踏で、少女の姿が人混みに紛れていく。人の間からちらちらとみえる銀髪に向けて、ディマは声を張り上げた。
「イリス、待ってくれ!」
この距離で、声は届いているはずだ。だが彼女は立ち止まらない。
このままでは彼女は人混みに消えてしまう。
(ここで見失ってたまるか!)
ディマは空に向けて魔法陣を放った。
上空で花火が散る。驚いた人々が、足を止める。その中に、彼女の姿もあった。
そこでようやく、彼女を直視した。
束の間、心臓が止まってしまったかと思った。
呼吸をするのも、忘れていた。
人々と同様に空を見上げるその顔は、その瞳は、まさしく彼女そのものだった。
「――イリス」
十年経った。だが見間違えるはずがない。
ディマは彼女に歩み寄り、どこにも逃げてしまわないように、その腕を掴む。
突然のこと、少女は怯えたようにディマを見上げた。見知らぬ人を見つめるような瞳だった。
「イリス」
呼びかける声が震えた。
彼女を前にしてもっと別の言葉を言うべきだと思ったが、何も出てこなかった。ただ間抜けのように、その名を呼ぶことしかできない。
「イリス……」
繰り返すディマに、少女は眉を顰め、きっぱりと言った。
「わたしは、そのような名前ではありません」
ああ、声さえも――。とディマは思った。声さえも、思い描いた彼女そのものだ。
いつまでも聞いていたくなるほど心地いい。
「なぜ否定するんだ? 理由があるのか」
絞り出すように、そう尋ねた。
少女はディマの腕を振り払う。その瞳には、不審者に対する強い抵抗感が露出していた。
「だって本当に違いますもの。先日も他の方にイリス様でしょうと言われましたけど、わたし、違う名前だし、まさか聖女様なんてこと、ありません。外見が似ているのでしょうけど、聖女様にお会いしたこともありません」
彼女は気分を害しているようだった。
離された手を握りしめ、改めて彼女をまじまじと見る。アリアの手紙に書いてあった。出会った少女は、どう見ても十代後半だったと。目の前の少女も、そうだ。幾分年上に見積もったとしても、二十歳そこそこだろう。
イリス・テミスであるならば、二十六歳だ。お世辞にも、目の前の少女はそうは見えなかった。
(他人の空似、なのか……? だがそれにしては、似すぎている)
記憶の中の彼女と相違ない。相違ないということは、やはり年が、若いということだ。ディマの中でイリスは十六歳の少女のまま、年を取っていなかった。
多少冷静になり、目の前で胡散臭そうにディマを見ている少女に尋ねた。
「君の年は?」
「十七歳」
瞬間、ディマは目を閉じた。
では彼女ではない。当たり前だ。彼女であるはずがない。
「あの、大丈夫?」
目を開けると、少女がこちらにハンカチを差し出していた。ディマは自分が泣いていることに気がついた。
「すみません」
ようやくディマはそう言った。
「あなたがとても、彼女に似ていて」
「もう会えない方?」
「十年前に、失ってしまいました」
「大切な方だったのですね」
困ったように眉を下げる少女から、ディマは目が離せない。
「はい。大切な、妻でした」
そう言った時、彼女の目から疑念が消え失せ、同情に変わるのが分かった。
「それはお気の毒に」
言ってから、思い至ったのか微笑んだ。
「イリス様という銀髪の女性が奥様だったなんて、まるでローザリアのディミトリオス様みたいですね」
ディマは微笑みだけで返事をした。
少女はじっとこちらを見ている。このまま抱きしめてキスをして、ローザリアに連れ去ってしまいたい。本当にイリスではないのか。他人で、ここまで、顔も、声も似ることがあり得るのか。
「また君に会えるだろうか」
しかし彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい。わたし達、理由あってひとところに留まれなくて。今日か明日には、他のところに行くんです」
ディマは引き下がった。
「次はどこに行くんだ? 僕もそこに一緒に行く。必ず行く」
「まだ決めていないんです。いつも兄さんが決めるから」
兄――。兄という言葉が、妙に引っかかる。
「せめて、それじゃあ、君の名前だけでも、教えてくれないか」
「えっと、わたしは……」
知らない人に名乗ることを、躊躇うような雰囲気だった。だがディマの真剣さに根負けしたのか、彼女は小さく答えた。
「……カミラ・ロジャース」
聞いた名前に、目眩を覚えた。
カミラというのは、母の名前だ。
ロジャースというのは、母の、元夫の姓だった。
数人にのみ行き先を告げ国を出た。一人で向かうつもりだったが、せめて護衛は付けてくれとのことであったため、少数のみ同行を許した。だがその数人も、町へと置いて、一人で村へやってきた。
高原の平野にある集落はのどかであり、涼やかに空気が澄み渡る中、牧草地帯に放牧された家畜の姿がぽつりぽつりとあった。小さな村と言えど、それなりに人口は多いようだ。
だが、彼女はいなかった。
「銀髪の娘さんなら確かに三週間ほどこの村にいたが、数日前にもう行っちまったよ。ほら、あの丘の屋敷に滞在してたんだ」
聞いた村人は親切にもそう言って、丘の上を指さした。そこには屋敷が一つ建っている。
「気立ての良い兄妹でね。お兄さんの方はあまり姿を見せなかったが、礼儀正しくて穏やかな方だったよ。美男美女でね、どこかの貴族のご兄妹だろうと、皆で囁きあったものさ」
兄がいるのならば、イリスであるはずがない。
彼女であるならば、必ずディマに会うはずだ。
そうはせず、方々を旅して回っているのなら、やはり人違いなのだろうか。
「そうですか。次の予定は聞いていますか?」
藁にも縋る思いで尋ねたが、村人は首を横に振った。
「さあねえ。あまり踏み込んでほしくなさそうだったから」
結局は無駄足だったのだ。
打ちのめされた気分だった。もう希望は抱かないと思っていたはずだった。それなのに、心から火が消えたように感じるのは、頭で整理を付けたところで、心が叫んでいるからだ。彼女に再び会うことを。
他の者にも尋ねたが、同じような返答があるだけだ。
ディマは、少女が滞在していたという屋敷に入った。鍵はかかっておらず、誰もいなかった。古い屋敷だったが、埃は被っておらず、人がいた形跡はあった。
一通り中を回り、寝室の一つに入り、ベッドの上に座る。
既に、アリアの手紙から、数週間経っていた。
急いだとは言え、ローザリアから大陸へ渡るにも時間はかかる。大陸の町は、ローザリアほど道も舗装されておらず、交通の便は悪かった。
ベッドの上に長い銀髪を一本見つけ、ディマはそれを手に取った。
(イリスのものなのだろうか)
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
その一本に、口づけをする。甘美と孤独が、同時に押し寄せるようだった。
大陸は広い。その少女を探せるはずがない。それでも未練がましく彼女の魔力を探り、見つけられないまま、夕暮れが深まる前に麓の町まで戻った。
幸いにして、国の運営は信頼できる者達に引き継いできた。もうしばらくは大陸に留まってもいいだろう。だが留まる意味はあるだろうか。
翌朝になって、護衛を断り、ディマは教会の中にいた。一人で静かに考える時間が欲しかった。
少女の、次の行き先も分からない。
(手がかりは途絶えたんだ)
昨晩、僅かな望みをかけて、イリスの魔力を探ってみた。だが何も感知しない。
司祭の説教を聞きながら、今もまた、そっと探ってみる。当然のように、彼女の魔力は感じられなかった。
ディマは息を吐いて、教会の祭壇の上の木彫りの像に目を向けた。穏やかな少女の表情をして、その木彫りは目を閉じている。まるでこの世は幸福で満たされているのだと確信しているかのような、安らかな笑みだった。
イリスだと司祭は言い張るが、あまり似ていないように思えた。
説教の途中だがディマは立ち上がった。こんな大陸の僻地までやってきて、得たものといえば、彼女はどこにもいないという事実だけだ。部屋に戻って、国へも戻ろう。そう考えたときだった。
目を見張った。
――いた。
「イリス……?」
銀色の髪が歩幅に合わせ、さらりと揺れる。町娘の着るような紺色のワンピースから、白い手足が伸びていた。
彼女も丁度立ち上がり、信者のために開け放たれた扉から、教会を出ていくところだった。
「イリス‼︎」
突然大声を出したディマに、信者の数人が顔を上げた。黙れと言うように司祭が咳払いをする声が聞こえたが、それどころではなかった。
呼びかけは聞こえなかったのか、少女は教会を出ていったため、ディマも走って追いかけた。
眩しい日差しに目が眩む。
教会の外は雑踏で、少女の姿が人混みに紛れていく。人の間からちらちらとみえる銀髪に向けて、ディマは声を張り上げた。
「イリス、待ってくれ!」
この距離で、声は届いているはずだ。だが彼女は立ち止まらない。
このままでは彼女は人混みに消えてしまう。
(ここで見失ってたまるか!)
ディマは空に向けて魔法陣を放った。
上空で花火が散る。驚いた人々が、足を止める。その中に、彼女の姿もあった。
そこでようやく、彼女を直視した。
束の間、心臓が止まってしまったかと思った。
呼吸をするのも、忘れていた。
人々と同様に空を見上げるその顔は、その瞳は、まさしく彼女そのものだった。
「――イリス」
十年経った。だが見間違えるはずがない。
ディマは彼女に歩み寄り、どこにも逃げてしまわないように、その腕を掴む。
突然のこと、少女は怯えたようにディマを見上げた。見知らぬ人を見つめるような瞳だった。
「イリス」
呼びかける声が震えた。
彼女を前にしてもっと別の言葉を言うべきだと思ったが、何も出てこなかった。ただ間抜けのように、その名を呼ぶことしかできない。
「イリス……」
繰り返すディマに、少女は眉を顰め、きっぱりと言った。
「わたしは、そのような名前ではありません」
ああ、声さえも――。とディマは思った。声さえも、思い描いた彼女そのものだ。
いつまでも聞いていたくなるほど心地いい。
「なぜ否定するんだ? 理由があるのか」
絞り出すように、そう尋ねた。
少女はディマの腕を振り払う。その瞳には、不審者に対する強い抵抗感が露出していた。
「だって本当に違いますもの。先日も他の方にイリス様でしょうと言われましたけど、わたし、違う名前だし、まさか聖女様なんてこと、ありません。外見が似ているのでしょうけど、聖女様にお会いしたこともありません」
彼女は気分を害しているようだった。
離された手を握りしめ、改めて彼女をまじまじと見る。アリアの手紙に書いてあった。出会った少女は、どう見ても十代後半だったと。目の前の少女も、そうだ。幾分年上に見積もったとしても、二十歳そこそこだろう。
イリス・テミスであるならば、二十六歳だ。お世辞にも、目の前の少女はそうは見えなかった。
(他人の空似、なのか……? だがそれにしては、似すぎている)
記憶の中の彼女と相違ない。相違ないということは、やはり年が、若いということだ。ディマの中でイリスは十六歳の少女のまま、年を取っていなかった。
多少冷静になり、目の前で胡散臭そうにディマを見ている少女に尋ねた。
「君の年は?」
「十七歳」
瞬間、ディマは目を閉じた。
では彼女ではない。当たり前だ。彼女であるはずがない。
「あの、大丈夫?」
目を開けると、少女がこちらにハンカチを差し出していた。ディマは自分が泣いていることに気がついた。
「すみません」
ようやくディマはそう言った。
「あなたがとても、彼女に似ていて」
「もう会えない方?」
「十年前に、失ってしまいました」
「大切な方だったのですね」
困ったように眉を下げる少女から、ディマは目が離せない。
「はい。大切な、妻でした」
そう言った時、彼女の目から疑念が消え失せ、同情に変わるのが分かった。
「それはお気の毒に」
言ってから、思い至ったのか微笑んだ。
「イリス様という銀髪の女性が奥様だったなんて、まるでローザリアのディミトリオス様みたいですね」
ディマは微笑みだけで返事をした。
少女はじっとこちらを見ている。このまま抱きしめてキスをして、ローザリアに連れ去ってしまいたい。本当にイリスではないのか。他人で、ここまで、顔も、声も似ることがあり得るのか。
「また君に会えるだろうか」
しかし彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい。わたし達、理由あってひとところに留まれなくて。今日か明日には、他のところに行くんです」
ディマは引き下がった。
「次はどこに行くんだ? 僕もそこに一緒に行く。必ず行く」
「まだ決めていないんです。いつも兄さんが決めるから」
兄――。兄という言葉が、妙に引っかかる。
「せめて、それじゃあ、君の名前だけでも、教えてくれないか」
「えっと、わたしは……」
知らない人に名乗ることを、躊躇うような雰囲気だった。だがディマの真剣さに根負けしたのか、彼女は小さく答えた。
「……カミラ・ロジャース」
聞いた名前に、目眩を覚えた。
カミラというのは、母の名前だ。
ロジャースというのは、母の、元夫の姓だった。
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