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第一章 敗北者達へ捧ぐ
懐かしき友の死
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目の前に、幼い少年の姿があった。黒い髪を後ろに束ねた青い目の可愛らしい少年。ルミナシウスだとフィオナは思った。
「ルミナシウス様、そのお顔……どうされたのですか?」
その日現れた彼は左の頬を赤く腫らしていたため、心配になりそう尋ねた。彼は自らの頬に触れて目を伏せる。
「貴女を解放するように父に頼んだら、叱られてしまいました」
慌ててフィオナは言った。
「そんなことを言う必要はないのです。わたしは、自分の運命を受け入れているのですから。わたしの為に、傷つく必要はないのですよ」
心が痛んだ。
――お優しいルミナシウス様は、わたしのことを案じてくださって、傷ついてしまった。
鉄格子の隙間から手を伸ばし、その温かな頬に触れると、彼は顔を上げた。
「貴女のためじゃない」
悲しそうな目をして、ルミナシウスはそう言った。
「僕が貴女のことをとても好きなんです。死んでほしくない。生きていてほしいから」
思いがけない言葉に、ふいに涙がこぼれ落ちた。誰からも憎まれたようなフィオナのことを、まだ誰かが好きだと言ってくれるなんて、思いもよらなかった。
ルミナシウスは、フィオナが死の恐怖に涙を流したのかと思ったのかもしれない。
今度は彼がフィオナの頬に触れ流れた涙を拭い、そうして無理やり口の端を上げたような、不器用な笑みを作ってみせた。
「毎朝女神様にお祈りをするんです。貴女が幸福になれますようにって。だからきっと、大丈夫」
彼もまた、泣きそうな顔でそう言った。
――夢の中の、場面が変わる。
白く細い首に、縄がかけられる。
足下の床が抜け、体が死に向かって無慈悲に垂直に落ちていった。
◇◆◇
「―――――っ!」
冷や汗をかきながらフィオナは飛び起きた。まだ夜だった。雨はもう止んでいて、虫の声が聞こえていた。
ゴツゴツとした岩肌が指に触れる。慣れない場所で眠ったから、こんな夢を見たのだろうか。死の間際の感覚は、思い出すだけでもぞっとする。
前世の夢を見ることは今までも時々あったが、今見た夢はいつになく鮮明だった。目が覚めても、消えることがない。
フィオナの額の上で休んでいたらしい人工精霊が宙に浮き上がる。弱々しい光を手で掴んだ。
「……ルミナシウス」
それはこの人工精霊の名前だったが、今ではもう、それ以外の意味を持つ。どうして忘れていたのだろうか。
(ルミナシウス様は、わたしが一番最後に持った友人だったんだ)
ルカリヨン王国の王子、ルミナシウス。
聡明で、心優しい少年。囚われの身であったフィオナだが、彼と話す時は心から笑う時もあったくらい、大切な友人だった。
ひとつ思い出すと、連鎖的に浮かんでくる。
ルカリヨン王国は東大陸の中央部に位置しており、元々は農業と酪農が盛んな国だった。十六年前の世界は親竜派と、数は少ないが過激な反竜派の国が入り乱れていて、大陸の情勢は不安定で、別の勢力に飲まれないように必死だった。ルカリヨン王国も例に漏れず武力を鍛えていて、フィオナが白銀の番ということが分かった時、当時の国王は大層喜んでいた。
フィオナには婚約者がいたが、引き離されて――。
(そうだわ! 彼の名前はレオニール・ローズデールだった。両親同士が友人で、わたし達も幼馴染だった。その人に裏切られてわたしは死んだんだ)
次々に、記憶が浮かんでくる。
フィオナが白銀に輿入れする際は親竜派だった王国は、王の代替わりで反竜派に変わった。
(レオニールお兄様は母が死んだとわたしを呼び出し罠にかけた。そう……レオニールお兄様だ。わたしは婚約者のことを、親しみを込めてそう呼んでいた。"レオニールお兄様”って)
彼と初めて出会ったのは幼少期に住んでいた父の領地で、家族で屋敷を訪ねて来た。その土地のことを、フィオナはとても愛していた。
気候は比較的安定していて、いつも外で遊んでいた。遠くの山々に沈む夕日を見るのが好きだった。
(お父様もお母様も、お兄様もお姉様もいて、子供の頃のフィオナ・ラインは、とても幸せだった)
それから、それから――――。
「大丈夫ですか、随分とうなされていましたが」
「わっ!」
慌ててフィオナは体を逸らした。突然、目の前にルイの顔があったからだ。
すみません、とルイは微笑む。甘く蕩けそうな笑みに思うのは、まだ頭がおかしいせいだろうとフィオナは結論付けた。
「起きてからも固まってしまっていたので、心配して声をかけました」
「だ、大丈夫です。少し、変な夢を見ちゃって……」
そうですか、と言ってルイは隣に座り直した。彼の様子からすると、今まで眠っていなかったようだ。
ルミナシウスがフィオナの手から浮き上がり、ルイの周りを飛んでいた。
(なんだかこの子も、ルイ様のことが好きみたい)
森の中は静寂に包まれていた。今はもう、虫の声もしない。
フィオナの思考はまた、前世のことを考えた。記憶の連鎖はもう起きなかったため、今日知ったジャグのことを考える。
深い黒と、加減によっては青緑に見える鱗を持つ有鱗族の人。固い皮膚が防具の代わりになるのか、上半身はほぼ裸だった。は虫類のように長い口と、黄緑色の目を持つ人だった。
そうして、思い至った。
「あの、ルイ様。もしかして、ジャグさんはルカリヨン王国の王子様の護衛だった方ではありませんか?」
言ってから、そうに違いないと確信した。処刑の際に、ルミナシウスの後ろにいた兵士はジャグに違いない。
確信したがルイが知っているかどうかはまた別だと思い直して、また変なことを言ってしまった自分を嫌いになりかける。だがルイは頷いた。
「確かに彼は、ルミナシウスという王子の護衛でした」
フィオナの胸に、懐かしさが広がっていく。
今見たばかりの夢が、頭の中を駆け巡った。ルミナシウスの青い目を思い出す。青の中に、金の欠片を散らしたような美しい瞳をしていて、フィオナはそれがとても好きだった。
「ルカリヨン王国のご出身のルイ様ならご存知でしょうか。ルミナシウス様……彼は今どうされているのでしょうか? とても可愛らしい少年で、いつも牢に会いに来てくださいました。信じられないかもしれませんが、処刑までの短い間、わたし達、とても良い友人同士だったんです」
きっと立派な青年になっただろう。当時が七歳だったから、今は二十三になっているはずだ。
再会できたら、また友人になれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた。
「ルミナシウスは七つで死にました」
聞こえた声にはっとする。
ルイは暗く、底冷えするような赤い瞳でフィオナを見つめ返してきていた。
「うそ……」
嘘ではないとは分かっていた。だが嘘だと思いたかった。
目に涙が滲む。考えてみれば分かることだ。王族は皆死んだと、ルイはさっき言っていた。
険しい顔をしていたルイはわずかに表情を緩めて、フィオナの頬を流れた涙を指先で拭う。
「貴女が悲しむことはありません。貴女を処刑した王国ですよ」
そのための報復として、白銀はルカリヨン王国を滅ぼしたのに、喜びこそすれ、悲しんだら意味がない。
理性はそう思うのに、心は悲しみを捨ててはくれなかった。
(死んでしまったなんて可哀想に。まだ七歳だったのに……。あんな幼い子も殺された。わたしは、何も知らずに生きてきたなんて)
フィオナのために祈ってくれた、優しい少年だった。彼に生まれ変わりはあるのだろうか。自分の知らない間に、一体どれだけの死が存在していたのだろうか。
「ルイ様の家族も死んでしまったの……?」
ルイは答えずに、わずかに微笑んだだけだった。悲しげな笑みに、フィオナの胸は締め付けられる。
竜人に土地を奪われた者が報復として竜の番を殺し、その報復として竜は国を滅ぼした。――そこにいくつの悲しみがあったというの? 途方に暮れる思いだった。
憎悪の連鎖は終わらない。
重苦しい静寂が森の中を支配する。どちらもそれから何も言わなかった。
夢はもう見なかったが、深夜に一度だけ目を覚ました。
ルイはやはり眠らずに、フィオナの隣に座っていた。
雨雲は消え去っていて、月の光が差し込んで、彼の姿を照らしていた。
夜の彼方を見つめる彼の赤い瞳の中に、金を砕いたような光が幾片もあることを、フィオナはその時初めて知った。
「ルミナシウス様、そのお顔……どうされたのですか?」
その日現れた彼は左の頬を赤く腫らしていたため、心配になりそう尋ねた。彼は自らの頬に触れて目を伏せる。
「貴女を解放するように父に頼んだら、叱られてしまいました」
慌ててフィオナは言った。
「そんなことを言う必要はないのです。わたしは、自分の運命を受け入れているのですから。わたしの為に、傷つく必要はないのですよ」
心が痛んだ。
――お優しいルミナシウス様は、わたしのことを案じてくださって、傷ついてしまった。
鉄格子の隙間から手を伸ばし、その温かな頬に触れると、彼は顔を上げた。
「貴女のためじゃない」
悲しそうな目をして、ルミナシウスはそう言った。
「僕が貴女のことをとても好きなんです。死んでほしくない。生きていてほしいから」
思いがけない言葉に、ふいに涙がこぼれ落ちた。誰からも憎まれたようなフィオナのことを、まだ誰かが好きだと言ってくれるなんて、思いもよらなかった。
ルミナシウスは、フィオナが死の恐怖に涙を流したのかと思ったのかもしれない。
今度は彼がフィオナの頬に触れ流れた涙を拭い、そうして無理やり口の端を上げたような、不器用な笑みを作ってみせた。
「毎朝女神様にお祈りをするんです。貴女が幸福になれますようにって。だからきっと、大丈夫」
彼もまた、泣きそうな顔でそう言った。
――夢の中の、場面が変わる。
白く細い首に、縄がかけられる。
足下の床が抜け、体が死に向かって無慈悲に垂直に落ちていった。
◇◆◇
「―――――っ!」
冷や汗をかきながらフィオナは飛び起きた。まだ夜だった。雨はもう止んでいて、虫の声が聞こえていた。
ゴツゴツとした岩肌が指に触れる。慣れない場所で眠ったから、こんな夢を見たのだろうか。死の間際の感覚は、思い出すだけでもぞっとする。
前世の夢を見ることは今までも時々あったが、今見た夢はいつになく鮮明だった。目が覚めても、消えることがない。
フィオナの額の上で休んでいたらしい人工精霊が宙に浮き上がる。弱々しい光を手で掴んだ。
「……ルミナシウス」
それはこの人工精霊の名前だったが、今ではもう、それ以外の意味を持つ。どうして忘れていたのだろうか。
(ルミナシウス様は、わたしが一番最後に持った友人だったんだ)
ルカリヨン王国の王子、ルミナシウス。
聡明で、心優しい少年。囚われの身であったフィオナだが、彼と話す時は心から笑う時もあったくらい、大切な友人だった。
ひとつ思い出すと、連鎖的に浮かんでくる。
ルカリヨン王国は東大陸の中央部に位置しており、元々は農業と酪農が盛んな国だった。十六年前の世界は親竜派と、数は少ないが過激な反竜派の国が入り乱れていて、大陸の情勢は不安定で、別の勢力に飲まれないように必死だった。ルカリヨン王国も例に漏れず武力を鍛えていて、フィオナが白銀の番ということが分かった時、当時の国王は大層喜んでいた。
フィオナには婚約者がいたが、引き離されて――。
(そうだわ! 彼の名前はレオニール・ローズデールだった。両親同士が友人で、わたし達も幼馴染だった。その人に裏切られてわたしは死んだんだ)
次々に、記憶が浮かんでくる。
フィオナが白銀に輿入れする際は親竜派だった王国は、王の代替わりで反竜派に変わった。
(レオニールお兄様は母が死んだとわたしを呼び出し罠にかけた。そう……レオニールお兄様だ。わたしは婚約者のことを、親しみを込めてそう呼んでいた。"レオニールお兄様”って)
彼と初めて出会ったのは幼少期に住んでいた父の領地で、家族で屋敷を訪ねて来た。その土地のことを、フィオナはとても愛していた。
気候は比較的安定していて、いつも外で遊んでいた。遠くの山々に沈む夕日を見るのが好きだった。
(お父様もお母様も、お兄様もお姉様もいて、子供の頃のフィオナ・ラインは、とても幸せだった)
それから、それから――――。
「大丈夫ですか、随分とうなされていましたが」
「わっ!」
慌ててフィオナは体を逸らした。突然、目の前にルイの顔があったからだ。
すみません、とルイは微笑む。甘く蕩けそうな笑みに思うのは、まだ頭がおかしいせいだろうとフィオナは結論付けた。
「起きてからも固まってしまっていたので、心配して声をかけました」
「だ、大丈夫です。少し、変な夢を見ちゃって……」
そうですか、と言ってルイは隣に座り直した。彼の様子からすると、今まで眠っていなかったようだ。
ルミナシウスがフィオナの手から浮き上がり、ルイの周りを飛んでいた。
(なんだかこの子も、ルイ様のことが好きみたい)
森の中は静寂に包まれていた。今はもう、虫の声もしない。
フィオナの思考はまた、前世のことを考えた。記憶の連鎖はもう起きなかったため、今日知ったジャグのことを考える。
深い黒と、加減によっては青緑に見える鱗を持つ有鱗族の人。固い皮膚が防具の代わりになるのか、上半身はほぼ裸だった。は虫類のように長い口と、黄緑色の目を持つ人だった。
そうして、思い至った。
「あの、ルイ様。もしかして、ジャグさんはルカリヨン王国の王子様の護衛だった方ではありませんか?」
言ってから、そうに違いないと確信した。処刑の際に、ルミナシウスの後ろにいた兵士はジャグに違いない。
確信したがルイが知っているかどうかはまた別だと思い直して、また変なことを言ってしまった自分を嫌いになりかける。だがルイは頷いた。
「確かに彼は、ルミナシウスという王子の護衛でした」
フィオナの胸に、懐かしさが広がっていく。
今見たばかりの夢が、頭の中を駆け巡った。ルミナシウスの青い目を思い出す。青の中に、金の欠片を散らしたような美しい瞳をしていて、フィオナはそれがとても好きだった。
「ルカリヨン王国のご出身のルイ様ならご存知でしょうか。ルミナシウス様……彼は今どうされているのでしょうか? とても可愛らしい少年で、いつも牢に会いに来てくださいました。信じられないかもしれませんが、処刑までの短い間、わたし達、とても良い友人同士だったんです」
きっと立派な青年になっただろう。当時が七歳だったから、今は二十三になっているはずだ。
再会できたら、また友人になれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた。
「ルミナシウスは七つで死にました」
聞こえた声にはっとする。
ルイは暗く、底冷えするような赤い瞳でフィオナを見つめ返してきていた。
「うそ……」
嘘ではないとは分かっていた。だが嘘だと思いたかった。
目に涙が滲む。考えてみれば分かることだ。王族は皆死んだと、ルイはさっき言っていた。
険しい顔をしていたルイはわずかに表情を緩めて、フィオナの頬を流れた涙を指先で拭う。
「貴女が悲しむことはありません。貴女を処刑した王国ですよ」
そのための報復として、白銀はルカリヨン王国を滅ぼしたのに、喜びこそすれ、悲しんだら意味がない。
理性はそう思うのに、心は悲しみを捨ててはくれなかった。
(死んでしまったなんて可哀想に。まだ七歳だったのに……。あんな幼い子も殺された。わたしは、何も知らずに生きてきたなんて)
フィオナのために祈ってくれた、優しい少年だった。彼に生まれ変わりはあるのだろうか。自分の知らない間に、一体どれだけの死が存在していたのだろうか。
「ルイ様の家族も死んでしまったの……?」
ルイは答えずに、わずかに微笑んだだけだった。悲しげな笑みに、フィオナの胸は締め付けられる。
竜人に土地を奪われた者が報復として竜の番を殺し、その報復として竜は国を滅ぼした。――そこにいくつの悲しみがあったというの? 途方に暮れる思いだった。
憎悪の連鎖は終わらない。
重苦しい静寂が森の中を支配する。どちらもそれから何も言わなかった。
夢はもう見なかったが、深夜に一度だけ目を覚ました。
ルイはやはり眠らずに、フィオナの隣に座っていた。
雨雲は消え去っていて、月の光が差し込んで、彼の姿を照らしていた。
夜の彼方を見つめる彼の赤い瞳の中に、金を砕いたような光が幾片もあることを、フィオナはその時初めて知った。
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