ある冬の朝

結城りえる

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第四章 もうひとりの罪人

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「昨日はお前にも迷惑をかけたな、浅野」
 慎太郎の直属の上司、笹本は昨日のことを憶えているとは思えない口調で謝ってきた。
「案外、酒、弱いんだ?」
「ああ、まぁな。だから武岡部長と一緒だと送ってもらえるから安心して一緒に飲みに行けるんだ」
 まるで語尾に♪でも付いていそうな能天気な表情で彼は笑っていた。“昨日はとても楽しかったな、シャンシャン♪”と終わったかのように。慎太郎にはそれがモヤッとせずにはいられない。武岡も武岡だと思う。人は自分と相反する性格の人間に惹かれるというが、武岡が素敵過ぎてこういう平凡な人間に惹かれるのかもしれない。
(……優しいところもあるけどさ、ガミガミうるさいだけだぞ、コノ人。しかもくたびれたおっさんに半分くらい足を突っ込んでる感じだし、いったい何処が良いんだろう?)
 まったくもってとんだ恋敵ライバルだ。
「ちゃんと家までんですよね?」
 少し意地悪な気分になった慎太郎は笹本にそう尋ねた。ところが、笹本はすぐに返答を躊躇った。
「いやぁ…。それが、オレの家まで武岡部長が送ってくれたのはいいんだが、家の鍵がどうしても見当たらなくて、仕方なく…」
「………?」
 笹本は咳払いをしてごまかすように小声で成り行きを説明する。
「帰宅を諦めて武岡部長のマンションで厄介になった」
(………ゲッ!?まさかのお持ち帰りかよ)
 慎太郎はうっかり下世話な想像をしそうになったが、武岡の人間性を考えると、きっとソレはなかったのだろうと思いとどまる。
「………課長、サイテー」
「こらっ!そういう時だけ課長とかいうな!」
「じゃあ、今朝は家に帰っていないとか?」
「ああ。家の鍵、会社のデスクの引き出しの中にキーケースごと忘れていたんだ」
(会社のデスクの引き出しにキーケースごと忘れただって…?)
 慎太郎は思わず笹本の言葉に心中でrepeat after meの状態で目を丸くしてみせた。
「え?そんな忘れ方する、フツー?」
 わりとここ最近気にして直そうとしていた敬語も途端に砕け散る。
「あのなー、鬼の首を獲ったみたいにそういう話し方でオレを責めるな!オレだってな、万能人間じゃないときもあるんだよ。特にお前みたいに危なっかしい部下を持ってヒヤヒヤしたプレゼンの後にようやく肩の荷が下りたんだ。油断したんだよ」
 笹本らしくない言い訳だと慎太郎はすぐに思った。聞くところによれば、笹本が持っているキーケースには家のマンションの鍵以外に大切な鍵や管理職だけが持つことが許されている、システム上の鍵などが付いていたのだ。いくら油断したとはいえ、キーケースなど常時ポケットなどに入れたり身につけているようなものを、なぜデスクの引き出しに入れたというのだろう。慎太郎は不審にしか思えなかった。
 ともあれ、笹本が自分でそう言っている以上、慎太郎は追及する気にはならなかった。どんな意図があったのかは知らないが、笹本がわざとうっかりを装った疑いはそのまま残った。
 普段どおり業務をこなし、昼休みがやってきた。社食も良いがたまには外で食事をしようかと、スマホのハンバーガーチェーンのアプリをタップしていた慎太郎の腕を、いきなり横から強く引っ張る者がいた。
「浅野君、ジャンクフードも魅了的だがいい店を知ってるんだ、付き合ってくれるかな?」
 それは武岡だった。ふいにこの課に現れ、彼が直々に慎太郎に会いに来たのを見た者たちは、一瞬ざわついた。
 ほとんど強引に武岡によってランチに連れ出された慎太郎は、意外な場所に連れて来られた。
「へい、毎度!武岡さん、いらっしゃい」
「やぁ、大将。まだ金目の煮付けはある?」
「おうよ、ぎりぎりそちらのお連れさんの分までかな」
「やった!今日はツイてるな」
 見た目はどう見ても鮮魚店のようだ。しかもなかなかの老舗。ショーケースもレトロで昭和で時が止まっているかのようないい味が出ている。70代ぐらいの頑固そうなその店の主は、すぐ隣の細い通路に通じる飾り気のないドアを開けてくれた。するとどうだろう。壁に定食のメニューが数枚づつぶら下がっている。サバの味噌煮や塩焼き、アジのフライ、武岡が先ほど聞いていた金目の煮付けの札も残り2枚となっていた。どうやらこの奥は食堂になっているらしい。
「これを持って席に行き、オーダーの時に差し出すのさ。この店で出せる定食の数とオーダーが簡単に出来る、便利なものだろう?この店は知る人ぞ知る名店なんだ。金目の煮付けは本当に美味くてね。今日はオレの驕りだよ」
 武岡は慎太郎にそう説明すると、金目の煮付け定食の札を2枚取った。
「え?だって、オレ、昨日も部長にご馳走になったし」
「それはそれ。今日は君にお礼を言おうと思ってね。昨夜のこと、智之には黙っておいてくれたから」
 慎太郎は武岡とテーブルを挟んで座り、恐縮した面持ちで彼の言葉を聞いている。
「……プライベートな詮索は……オレ、苦手……だから………です」
 慎太郎は武岡に失礼が無いように言葉を選んだ。
「うん……解ってた。浅野君は不器用だが、まるで月みたいな存在だと思う時があるな」
 随分と詩人のような喩えをされ、慎太郎は戸惑った。もちろん褒め言葉だとは思うが、そういうのは女性に言うべき喩えではないだろうか。
「オレ……そんなに弱々しく見える…の……いや、見えますか?」
「はっはっは、いや、ごめんごめん。気を悪くしないでくれ。そういう意味じゃないんだ。月は、明るい朝がやってくると逃げるようにいなくなるだろう?煩くてにぎやかな奴は苦手なんじゃないか、君は?」
 図星だった。武岡は上に立つべき人間であるだけに、ここ数日で自分という名のキャラクターをとことん観察して分析したのかもしれない。
「あとな、月は闇を照らしてくれるだろ?困ってるときにさりげなく照らしてくれる優しさがあるんだ。智之から聞いたよ。出勤前に猫を助けて怪我をしたそうじゃないか?」
「え?そんな話まで」
「ああ。智之から聞いたんだ。オレは確かに何度か君の入社面接には関わってきている。だから自分の判断が間違っていないことを、智之から聞いてホッとしたのさ」
 武岡と笹本は本当に心から解りあっているのかもしれない。ただ、そこに恋愛感情があるかどうかは謎だった。それでも、武岡は笹本に惹かれているのだ。
「聞いて…いいです?」
「なんだい?」
「笹本課長……何処が好きなんですか?」
 我ながら聞き難いところをストレートに聞いているな、と慎太郎は思った。
「そうだな…」
 武岡の視界にはオーダーした金目の煮付け定食を運んでくる店員が見えていた。それをテーブルに置いて去っていくと、ようやく答えた。
「あいつの好きなところは人間的にさっぱりしてて気持ちがいいからかな。まぁ一言でいえばそうだけど、自分の信念があるところとか、かといって人に価値観を押しつけたりしないとか、相手の気持ちを芯から知ろうと努力してる。そんなヤツをオムツが取れたばかりの幼児の頃から知ってるんだ」
 笹本を語る武岡はどこか嬉しそうで、照れくさそうにしている。ビジネスシーンで縁なし眼鏡ツーポイントフレームが目元で光るクールな印象とは大違いだった。
(なんなんだ!?結局のろけかよ…)
 心のなかで悪態をつきながらも、慎太郎のなかでは嫉妬の気持ちはなかった。社外で見た武岡の幸せそうな表情がもっと見たいとおもわずにはいられなかった。
「あの……やっぱり、課長には…言わないんですか?」
「オレの気持ちをかい?」
「はい。言わないと伝わらないんじゃないかと…思うんで。部下のオレが言うのもヘンですが、あのひと……恋愛ごとには鈍いんじゃないかと」
「……そうだね」
 さっきまで幸せそうだった武岡の顔に急に陰りが差した。
「正直、迷ってるさ。オレもあいつもそろそろ人生の伴侶を見つけなければならない。それに……」
「それに……?」
「智之には……たしか恋人がいたんじゃないかな」
「そんな……!」
 慎太郎はふいに自分のなかの想像の範疇が狭すぎることを指摘されたような気がした。それもそうだ。二人とも結婚という二文字が周囲から期待される年齢ではある。笹本にどれほどの野心があるかは不明だが、少なくとも次期社長とうたわれている武岡には、周囲も結婚を期待していることだろう。
 だとしても、慎太郎は二人の距離感がとてもうらやましく、少なからず恋心を抱いた武岡に関してはどうしても幸せになってもらいたいという願いが湧き上がっていた。
(なんだろう…こういうの、ただただもったいないというか、じれったいというか。でもオレが邪魔してもダメなんだろうな。いや、でも課長の気持ちを確かめるだけなら二人の友情は壊れたりしないんじゃないか?)
 一瞬にしてそんな考えにたどり着いた慎太郎は、一人である決心をした。
「部長…。あの…さっきの話なんだけど…」
 慎太郎はそっと小声である提案を武岡に持ちかけた。“え?”という顔をして武岡は驚く。
「オレ……笹本課長に彼女が本当にいるかどうか、調べてみます」
 その日から慎太郎は勝手に身辺調査探偵のような行動に出るのだった。
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