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第三章
再会
しおりを挟む時は流れた。
きらびやかな繁華街の裏道、用事があって近くまできたついでに立ち寄った。
ひとりだし、一杯だけと思って入った洒落たバー。薄暗い店内でショートグラスに口をつけようとしたとき、若い男が声をかけてきた。
「やあ、久しぶり」
声の主を認るなり、眼鏡をかけた女は鋭い視線を向け、あからさまな嫌悪を浮かべる。
にこやかに、男は女に近づいた。整った面立ちに響きの良い低い声。
まともな職についているとは思えない長めの髪、細身の体躯に場に浮かない適度な軽装という出で立ちだった。
「やっと見つけたよ」
「……あんた、どうやってここが」
わかったの、と続く言葉を飲み込む。
「ちょっと話がしたいんだけど、いいかな」
「暇じゃないのよ、今度じゃ駄目なの?」
うーん、と唸り、わずかに首をかしげる。ちらりと周囲を見回す。
「こんな店に居ながら、その答えはどうかな。こちらとしては騒ぎたててもべつにかまわないんだけど」
なにそれ、まるで女が使う脅しの台詞じゃないの、と思う。
「目立つの、いやだろ」
「いいわ、わかった」
髪をひとつに束ねた女は、細いフレームの銀色をした眼鏡を押さえると溜息をついて言った。
正直、やられた、という気持ちが強い。
まさか二十年も経って、過去の清算をするはめになるとは。
急激に湧き上がる笑いが抑えられなくなる。
やられた。
結局、未来は非望でしかなかったのだ。相手のほうが長じていたというべきか。
「いままで楽しかった?」
臆面もなく正面の席にすわり、無邪気に訊ねてくる。
「楽しかったでしょう、逃げおおせたと思って」
口惜しい思いはある。
ずっと目立たぬように、人の世に紛れて暮らしてきたのに。
なんのために今まで。いや――、ようやく終えるのか。
女の目、眼鏡の奥で爛々と光る瞳。自嘲を越え、燃えるような怒りが浮かぶ。
男を見すえ、先ほどとはうって変わり、低い声で女が唸る。
「おまえ、ずっとあの女と暮らしてるのか」
ああ、と男は頷いた。
「母さんとはうまくやってるよ」
不快そうに舌打ちをして、女の声が一段と低くなった。恨めしげな声色が強くなる。
「おまえの母などとよく言えたものだ。あれはひとではないし、まんまとこんな脆い身体に押し込めやがった」
なにを言ってるの、と男はいたく愉快そうに笑った。
「きみが取り替えようって言ったんじゃないか」
目を細め、勝ち誇る笑みが浮かぶ。
男が、女の胸元に指を突きつける。
「わざわざ、女の子の格好までして、僕の気を引こうとして」
ご丁寧に、女の子のふりまでして。
僕に気に入られようとして。
「違うかい?」
「おまえこそ、なんで女のくせに男の格好なんかしてたんだ、おかげですっかり騙された」
目の前の若い男は追求されるがまま、おとなしく聞いていた。軽く目を伏せ、再び女を見る。
「いれものと心が合わないのは、それなりにあることだよ」
ふふ、と含み笑いを浮かべる。あの女――、ひとではない、ひとを護る在りようのもの。あれにそっくりな笑いかた。
「感謝してるんだ、おかげであのあと自分を偽る必要もなくなったから」
本当に、心から、と言葉を強め、
「実に楽しく過ごせたよ」
女が忌々しげに顔を歪める。黒いスラックスを履いたきれいな足を組み直し、顔をしかめてグラスを傾ける。
「こっちは散々な有様だったというのにいい気なものだ」
自業自得じゃないか、と男があっさり言ってのける。
「思ったより、きちんと馴染んで、ひとの規範や法もきちんと守って生活してるみたいだね。僕の両親……いや、父と義母も元気で、きみとうまくやってるようで安心したよ。そうそう、弟も結婚したんだったね。おめでとうを言わせてもらうよ」
女はいらだちを隠さず、ふん、と横を向く。ひとつにまとめた長い髪が、華奢な背中で揺れるのが見えた。
「おまえが疎まれたのは、ふつうではない行動を取っていたからだろうが。ひとの社会はひどく愚かで矮小、偏狭だ。異質を受け入れるほど、甘くない」
「そうだね、よく知ってる」
「おまえも身体のまま、女らしく振る舞っていれば波風も立たずに済んだだろうに」
「僕と違って、きみは演技が上手でなによりだと心から思うよ」
低く、響きの良い柔らかな声音で話す。すこし残念そうに顔を曇らせる。
それができない、できなかったから、ずっと苦しかった。小さい頃から、ずっと。
生きる世界は違和感だらけだった。
「きみたちがこの世界で、どう思って過ごしてきたか僕は知らない。どれだけ長い間、存在してきたかも知らないし。でも、ひとの生きる時間は短いからね、どうしても譲れないこともあるんだよ」
男の言葉に苛立ったのか、女はやおらグラスを煽って飲み干し、冷えた息をひとつ、吐き出した。
「結果、思惑どおりに封じ込められてこのざまだ。昔のように、力も思い通り振るえない。どんなに退屈だろうが、ひととして吾は生きるしかないというわけだ」
この先もずっと。下手に目立てば、かつての同類に目をつけられる。よく知っている。あれらは容赦が無い。
死んだら、終わり。
「ひととして死ねばそれで終わり、もはや祓われたも同然だ。ただでさえひとの身は脆弱、さらに女の身は非力このうえない。なにもできない、お手上げだ。
さすがにミシャクジは子ども好きなだけはある。実に巧妙な算段をつけたものだ、感服するよ。おまえが抱えた悩みまでまとめて解消したわけだからな」
「そうだね」
でも、と男がテーブルの上に頬杖をついて、目の前の空になったグラスを斜めにして弄ぶ。
「きみはそれでもいいだろうけど。でも、僕は……、ひとの生活を半分は捨てたようなものだよ」
そう言って立ち上がる。表情は崩さない。つくりもののような顔に微笑をうかべたまま。
テーブルから離れようとした姿勢で振り返る。
「そうだ、訊きたいことがあったんだ」
「……なんだ」
もうなんでもいい、そう言いたげな調子で答える。
見下ろす男の顔に、照明の影が落ちて表情が見えない。やけに冷ややかな声が響く。
「なんできみ、好きでもない男の、子どもなんか宿してるの」
女の動きが静止する。
しばし、互いが無言になる。店に響く音楽と客の会話がざわめく。薄暗い照明を、グラスの中の氷が映している。
「――なんだって?」
意外にも見開かれた女の目に、ふうん、と男は返した。
「なんだ、知らなかったのか。本当にふつうの人間になってしまったんだね。それはひととして、はじめての体験?」
「…… 五月蠅い」
見下ろす男を睨め上げ、自嘲を響かせた。
「そんなに可笑しいか、吾がすっかり落ちぶれたのを見るのは楽しいか」
ううん、と首を振る。
「母さんがね、伝えてほしいって言ってたのをいま思い出したよ」
思わせぶりな口調で続ける。
「きみの子どもには心が宿らないってね」
「――なに……?」
「心のないものが人を、心を生み出すのは無理だ。あるのは空っぽのうつわだけ。つまり、生きてるだけの身体」
口元に人差し指を立てる。すうっと目が細まる。
「昔みたいに、人食いでもする? 子どもは……生まれてすぐが、特にたまらない味らしいじゃない」
「巫山戯るな」
冗談じゃない、そんなことをしようものなら、ひとの世でも暮らせなくなる。歯噛みするほどに口惜しいのに、どんなにか以前の力を取り戻したいと思っても、できない。
こんな中途半端な存在では、怪異共の興味を惹いたとたん、抵抗もできずにあっという間に八つ裂きにされる。
ぶちまけた血を啜られ、肉は食われ、蛆にたかられる。ひとではない犯罪は、人知れず日常に埋もれて霧消してしまうだろう。
即答に、おや、と男が驚いた顔になる。
「意外だな、怒るの? ずいぶんとひとの世に毒されてしまったのかな。昔は相当暴れて、流れてたどり着いたあの集落で、被害が出ないように封じるのに苦労したって話、母さんから聞いてるよ」
「……」
「じゃあ、他の選択肢を出そう。聞きたい?」
女は大きく息を吐いた。焦れたようすで急いた口調になる。
「早く言え」
「ひとつ、ひとの世に従い、堕胎という手段」
ふたつめ、と言いながら、人差し指に続き中指を立てる。
「僕の言葉を信じずに、そのまま出産してみる」
まあ、心のない子は生きた屍みたいなものだから、生まれたあとに化生のものを憑かせる方法もあるよね、と含み笑いをする。
男は言った。きみにできるなら。赤子の身体を奪った、昔のきみみたいに。
みっつめ、と続けて薬指を立てる。
「新たに、 魂籠めをする」
「……」
「あの家には、きみが赤子の身体から追い出した、男の子の魂が残っている。過ごす時代は違ってしまうけど、やっともとに戻せる」
女は口を閉ざし、答えない。
「返事がないね。でも、できるだけ早く答えを出すことだよ。あまり悩んでると選択肢が減る」
じゃあ、今度こそ僕はこれで、と言い置いて、男は振り返ることもなく店を出て行った。
立場は逆転した、と思い知る。
無念極まりないが、選べる手段は知れている。
* * *
二十年ぶりに舞い戻った土地は、すっかり様変わりしていた。
山を覆っていた雑木林は消えていた。
山肌に貼り付くように、細かく区分けされた家が建ち並ぶ。一部は平地に削られて、高級志向の外観を装うマンションとなっている。
だが、あの場所に家はあった。急坂を上り詰めた、山の稜線の一区画。
正確にはすでに古い家屋は取り壊され、整地しなおされ、建て直されていた。
近年の様式に従って、白い壁に電動シャッターが取り付けられた窓。玄関前の駐車場には、普通の家と同じようにセダン型の白い車が止まっている。
秋の午後は、日が落ちるのが早い。
日差しに赤外線が混ざり、斜めに長く影を作る。午後の陽光が照りつけて、あの家の輪郭を浮かび上がらせていた。
見上げる先、こちらがわに向いた壁面はすっかり影となっていて暗い。
新築の家の窓が見える。
室内は、家の向こうから入る採光のせいか、明るく見える。
人影が見える。
寄り添うような、ふたつの人影。
目が合うように思えた。
まるでずっと待ち続け、待ちわびたかのように。
生まれたばかりの、息をするだけのぬくもりを掻き抱き、かつて居た場所へと回帰する。
見すえて息を吐く。かまうものか。
手にした新しい命に目を向ける。これは新たな好機。
女の姿をしたものは、急な坂をゆっくりと登っていった。
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