蒼碧の革命〜人魚の願い〜

蒼河颯人

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第五章 革命の時

第五十八話 優しい眼差し

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 それからどれ位の時間が経ったのか、良く分からなかった。らしくなく、いつの間にかまどろんでしまったに違いない。額に雫の落ちる感触が、少女の意識を現実へとゆっくりと呼び覚ました。

(ここは……どこだろう?)

 レイアがゆっくり目を開けると、透明な丸い空間の中にいるのに気が付いた。波に飲み込まれたと思ったが、そうではなかった。ただ感じるのは人肌の心地よい温もりに包まれた感触だ。ああ、自分は無事だったと思った途端、きゅっと胸の奥が締め付けられるように感じがして、鼻の奥の方がつんとしてくる。

(ああ、これはきっと彼の腕だ。この大きな翼で包み込むように私を抱き締めてくれるのは、彼しかいないから)

 ゆっくりと視線を上げると、輝く小麦色の髪が視野に入った。薄暗かった視界が突然明るくなり、パライバ・ブルーの瞳がヘーゼル色の瞳を見守るかのように、優しく見つめている。彼の指が、彼女の額にかかる濡れそぼった前髪を横へとよけてくれたからだろう。
 背中に感じる腕の温もりと、太腿の下にある鱗の感触。
 レイアは身体の奥底から何かが込み上げてきて、思わず涙がこぼれ落ちそうになる。いつの間にか、彼の右手にあったはずのトライデントは姿を消していた。

「アリオン……? これは……?」
「私が術で出した。水を避ける為の小舟とでも思ってもらえばいい。私はなくても大丈夫だが、君はそういうわけにはいくまい?」

 そう言われてレイアはああなるほどと思った。

(ああ、そうか。この状況では確かに、人間より人魚の方が動きやすいよな……こちらは下手すると服の重みで溺れるし……)

「アーサー達は?」
「彼らやゲノルは私達と同じような状態だ。無事だから安心してくれ」
 
 アリオンが引き起こした大洪水で、室内は大量の水で海のようになっていた。レイア達を包むそれは波に揺られつつ、水の上をぷかぷかと浮かんでいる。大洪水伝説に登場する方舟のようなものだろう。
 
「……まさか自分の〝力〟でここまでのものが召喚出来るとは思わなかったよ。予想外過ぎて正直私も驚いている。流石にこの城全てを沈没させるわけにはいかないから、これでも手加減したのだが。もう少ししたら周りの水は自然とひいてゆく筈だ。このまま待っていよう」
「アエスは?」
「先ほど流されて行くのをこの目で見た。あの波達は彼を容赦なく海まで運んで行くだろう。二度と陸には上がれまい」
「そうなんだ。あんたを散々苦しめていた奴にしては、随分とあっけないなと思ったよ。でも……」

 レイアはふとアリオンの左腕を見た。あれほど彼を苦しめ続けていた左手首の腕輪は既になく、前腕にびっしりと巻き付いたようなピーコック・ブルーの鱗だけが燦然と輝いている。

「私は、あんたが拘束から解放されてやっと自由になれたのが、とても嬉しいよ」
「何もかも君達のお陰だ。本当に、感謝しているよ」

 耳代わりである青緑色のひれのようなものがゆらりゆらりと動いていた。長いまつ毛に縁取られた切れ長の目には憤怒の色は跡形もなく、今は穏やかな光が宿っている。白皙の肌を滑り落ちる水滴がきらきらと輝いており、無意識ながらもついため息が出てしまう。こんな時だが、レイアは美しい人魚姿のアリオンについ見惚れてしまう自分を抑えるのが苦しかった。
  
「ねぇ、ところで牢に閉じ込められているあんたの仲間達のところには、行かなくて良いのか?」
「あの腕輪さえ外せれば、海に生きる者達のことは心配しなくても、大丈夫だ」
「あんたがそう言うのなら、大丈夫だね」
 
 (そっか。アリオンの仲間達はみんな人魚だから、水の中は平気だったね)
 
 腕輪さえなければ〝力〟を使える者達は牢を容易に抜け出せる。力のない者達を助けて、この音に向かって歩けば海にたどり着けるだろう。

 そう思うと、レイアの脳裏にまた懐かしい思い出が蘇ってきた。生前の父王に連れられてアルモリカ王国に来た時の、全ての始まりとも言える思い出だった。
 
 (そう言えば、アリオンに初めて出会った時も、こんな感じだったっけ……)
 
 落とした帽子を取ろうとして海に落ちて溺れかけたその時、近くで泳いでいた幼い頃のアリオンが、自分を浜辺まで連れて行ってくれた。その時の興奮と心臓の高鳴りは、今ならはっきりと思い出すことが出来る。
 
 ――誰か助けてーっ! ――
 ――大丈夫? ぼくにつかまって。陸まで連れて行ってあげる―― 
 
 家来達が大山鳴動するわ、エオン王とコンスタンス妃に散々泣かれ叱られるわと、後が散々だったが、幼い自分には忘れられない大切な思い出だ。口元が緩んだレイアを見ていたアリオンは、小首を傾げた。
 
「?」
「ふふふ。あんたと初めて会った時のことをふと思い出してね」
 
 レイアは突然、両腕を持ち上げてアリオンの首に巻き付け、彼の顔を自分の方へと強く抱き寄せた──ヘーゼル色の瞳を涙でうるませながら。水に濡れた衣服が身体中に張り付いて突っ張る感じがあったが、気にもとめなかった。そしてそのまま全身を王子の身体にぴったりと押しつけてくる。少女に抱き締められた王子は目を見開きやや固まった。よく見ると、頬が桜貝のようにうっすらと赤くなっているようだ。
 
「レイア……?」
「私をまた助けてくれてありがとう。アリオン。凄みを効かせたあんたも、とてもかっこ良かった」
「レイア……」

 視線を絡ませ、見つめ合う二人は静かに目を閉じ、唇をそっと重ね合わせた。アリオンは小柄な背中に手を回し、己の方へと更に強く抱き寄せる。彼の唇はしっとりとしていながらも羽のようにふわふわしていて、穏やかで優しい温もりが唇を通して伝わってきた。身体中がじんわりと温かくなってきたレイアは快い夢を見ているかのような感覚になり、その口付けに何とか応えようとする。二人はもれるようなため息とともに、遠慮がちに向きを変えつつ何度も唇をそっと重ね合った──離れるのを惜しむかのように。
 そして、ゆっくりと見つめ合い、互いの身体を互いの腕でしっかりと絡め合った──互いの存在を身体で確かめ合うように。

(私達はちゃんと生きている。大丈夫、生きている……)

 隙間がないように、二つの熱はぴったりと重なっている。二つの心臓に逃げ場などない。布を介して熱がはっきりと伝わってきた──心臓を破りほとばしるような、焼けつくようなその熱さ。

 アリオンを抱き締める腕に力を込めたレイアの耳に、激しく脈打つ鼓動が聞こえてきた。これは彼の心臓の音だ。力強く打ち続ける生命の音。打ち寄せる波のように、聞いていて安心する音。唯一無二の愛しい音──

(ああ、この音をずっと聞いていたい。ずっとこうしていたい。このまま時間が止まってしまえば良いのに……)

 部屋中の水が完全にひいてしまうまで波に揺られつつ、二人は決して離れようとはしなかった。
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