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六突き目 まだ、間に合う

大切なもの

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午後も一時を回った頃、恵は歩の住む部屋の扉の前にいた。
ピンポーン
チャイムのボタンを押す恵。
しばらく待つが、返事がない。
約束の時間に、迎えに行かなかった恵は後悔していた。
自分のことばかり考えて、大事な友達を放ったらかしにしてしまった。
「ごめんな、歩。それにしても、どこ行ったんだろ?」
昨日の、一城との一件で咲に連絡を取れずにいる恵。
スマホのメッセージを見た恵は、家に帰っているはずの歩に会うため、こうして部屋まで来てみたが、歩はまだ戻っていない。
仕方なく、その場を離れる恵。
行くところも決まらないまま、駅に向かう恵。
その反対の方から、歩いてくる歩に気づかない恵。夢も希望も失った歩。見るもの全てが、見えなくなっている歩が気づくはずもなかった。
恵は、ズボンのポケットから、スマホを取り出すと、器用に指を使いメッセージを打っている。
[今どこ?]宛先は歩。
一城の欄にメッセージが未読なのに気がつく。
画面をタップして、一城からのメッセージに目を通す。
[一度、帰ってこい。話は会ってからな]
行き場もなく、途方に暮れていた恵には、有り難いものだった。
あの日、物陰に隠れ、身を潜めていた恵は、一城が後を追って来ていた事を知っていた。
あの時は、顔も見たくなかった恵だったが、本当に誤解だったのかもしれないと今は思い始めていた。
「一度、帰ってみるか」
顔を上げる恵は、駅の改札を抜ける。

        ・

一城の住む事務所兼自宅の前に立つ恵。
どんな顔で一城に会えばいいのか、わからないでいた。
そこに、ズボンのポケットに入ったスマホが振動し、メッセージの着信を告げる。
タップして、メッセージを見る恵は、計り知れぬ不安を感じ取っていた。
[ごめんねありがとう]
謝罪と感謝の言葉。歩からのメッセージ。

居ても立っても居られず、玄関に駆け込む恵。
「一城さん」
頼れるのは、この人しかいなかった。
「おっ、やっと帰って来たな。お帰り」
ごく普通に迎え入れてくれる一城だったが恵の顔を見ると、何か察していた。
「どうした?何があった?」
ワゴン車のキーを取ると、一城の手を掴む恵。
「どど、どうしたって・・」
運転席のドアを開けて、必然的に一城にそこに乗るように促す恵。
助手席に乗り込む恵。
「ちゃんと、説明してくれないか?」
言葉が見つからない恵は、スマホの画面を一城に向ける。
「え?これがなに?」
メッセージを読んだ一城も、恵の不安に駆られた表情から何かを感じ取ったのか、エンジンを回す。
「恵、案内しろ」
走り出すワゴン車。

        ・

薄暗い部屋の中で、スマホの電源を入れる咲。
泣き過ぎて、もう涙が枯れてしまっていた。
脱力と寝不足が咲を襲う。
無言のまま、立ち上がる咲は、冷蔵庫からお茶の入ったポットを取り出すと、愛用のマグカップに注ぎ、一息に飲み干した。
濡れた口元を手で拭う咲。
「何してんだろ、私」
落ち込んでいる自分が、大嫌いな咲。
常に前向きに生きてきた咲。
気持ちのまま、思うままに生きようとして来ただけに、今回の失望はかなりの痛手であった。
それでも、前を見ようとする咲。
「今は、ダメでもいつかは必ず」
咲と歩の違いであった。
女として、ずっと生きてきた咲の強みでもあった。
女性社会と言われながらも、今も尚、変わらない男女間の差別、女は強く生きるしか方法がないのだ。
そんな世間に揉まれながら生きて来た咲には、立ち止まってなど、いられない前向きな姿勢があった。

家に、帰っている という、歩からのメッセージを確認すると、
[ごめんね、迎えに行けなくて、準備して今から行くね]
送信すると、服を脱ぎ始める咲。
気づいたら、シャワーすら浴びていなかった。

一糸まとわぬ姿になった咲は、バスルームに入るとシャワーを浴び始める。
テーブルに置かれたスマホが、ブーン、ブーンと震えながら小刻みに動いている。
それを、シャワーの音がかき消してしまう。

        ・

カーテンの隙間から光の差し込む、薄暗い部屋の中で、膝を抱えたままうずくまる歩。
ゆるりと、立ち上がる歩。
手の中のスマホがスルリと滑り落ち、ゴトンと音を立てた。それを気にするでもなく流しの下の棚の前でしゃがみ込む歩は、ゴソゴソと何かを探している。
取り出し、手にしているのはビニール紐の束。
それを手にしたまま、鴨居を見上げる歩。
近くにあった座卓にビニール紐を置くと、踏み台を持ち出してくる歩。
踏み台に乗ると、高さを確認する歩。
次にビニール紐を何度となく鴨居にかけると、引っ張って強度を確認する。
踏み台に上がると、垂れ下がるビニール紐を頭が通るほどの輪を作り結んだ。
一瞬、物思いにふける歩。その表情に、なんの感情もなかった。
「先に行ってるね・・・」
歩の脳裏には、咲と恵がいた。
ここで、やっと、感情をあらわにする歩。
喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怒りはなかった。
紐を首にかける歩。
「ありがとう」
可愛いくらいの、幸せに満ちた笑みを浮かべる歩。
トン と踏み台を蹴ると、ギシッと鴨居が悲鳴を上げた。

        ・

こんな運転をする一城さんを見たことがなかった。
スピードは、やや控えめだが、巧みに車と車の間をすり抜けていく。
遠く信号を見ながら、変わりそうだとわかると進路を右折車線に変える。
信号は赤に変わるが右折の矢印が点灯している。右折しUターン禁止区域を過ぎると素早く切り返して向きを変え青になっている信号を右折する。
先程の進路に戻る一城。
信号をただ待つよりは速かった。
ただし、信号の長さの間隔を知っているから出来ることで走り慣れた道であった。
一城は、急いでいるが、慌ててはいない。落ち着いている。
その横顔に、胸を締め付けられる恵。
やはり、格好良かった。
普段なら、お構いなしに寄り添うところだが、今は、それどころではなかった。
電話をかけ続ける恵。なかなか、繋がらない。恵は、焦っていた。

        ・

咲もようやく、歩の異変に気づいた。
夢中で走っていた。足がもつれて勢いよく滑り込むように転ぶ咲。
顔をしかめながら、ショートパンツから剥き出しになった膝を摩る。
それでも尚、立ち上がって前を見る咲。
「・・歩」
走る咲の痕跡を残すかのように、ポタポタと涙が路面を濡らしていく。

        ・

歩の住むアパートにたどり着いた恵と一城。
閉まるドアを確認するでもなく、階段を駆け上がる恵と一城。
ドアノブを回す恵、鍵はかかっていない。
扉を勢いよく開く恵。
「歩!」
まるで、生死を確かめるかのように叫ぶ恵の前に、ハンガーで吊るされたドレスのようなものが、目に飛び込んできた。
床を離れ、二本の足が宙に浮いている。
一瞬、大きく息を吸い込み、恵の呼吸が止まる。
信じられない光景に、ガクリと膝をつく恵。
「わああああああああ」
声を限りに悲鳴を上げる。
そんな恵の横を、すり抜けて行く一城。
歩の足元で、キュッと何かに足を滑らせる一城だったが、体勢を整えると歩の腰の下辺りに腕を回し抱え上げる。
「恵、手伝え。台持って来て紐を切れ」
返事がない、出来ずにいる恵は、歩が死んだ。と諦めている。
怒涛の如く、一城が吠える。
「恵!」
ビクリとして、我に帰る恵。
「諦めてんじゃねえぞ、恵」
えっ?と、一城を見る。
「勝手に殺してんじゃねえ」
(そ、そうだよ、まだ、間に合うかも)
立ち上がる恵は、近くで転がる台を起こすと、濡れた床の上に踏み台を置いた。
そこに歩を乗せながら、抱え方を変える一城。
グラグラと落ち着かない歩の足の隙間に足を乗せて、踏み台に乗る恵はハサミを持った手を紐に伸ばし切った。支えを失って倒れ込む歩の体。
ガッシリと支える一城が、ゆっくりと歩を横にすると、なんの迷いもなく歩の胸元の服を引き裂く。
念のため、胸や腹の膨らみ確認し、呼吸の有無を確認する。
露わになる歩の胸元を見て、歩でなく女を見た恵。
手を重ね掌底で、一秒間に二回のペースで心臓マッサージをする一城。
一分ほどしたところで、歩のあごを上げ軌道を確保すると、口を歩の口に当て息を吹き込む。
再び、心臓マッサージを始める一城。
ただ、見ているだけの恵だった。
「何してんだ、救急車だ、早く」
「あ、はい」
慌ててスマホを取り出す恵は、119を押す。

        ・・

救急車のサイレンが鳴り響いて、周囲に人集りが出来始める。
救急隊が駆け込んでくる。
一城はまだ心肺蘇生を続けている。
「ご苦労様でした。あとは我々が」
ストレッチャーが運び込まれ、毛布に包まれる歩。
酸素マスクを着ける歩。
微かだが、胸が上下を始めていた。
外に運び出される歩。
それとすれ違いに入ってくる咲。
「恵くん」
言いながら恵に抱きつく咲。
状況を理解した咲は、軽く一城に会釈をする。
肩で大きく呼吸を繰り返す一城は、片手を上げ、よおっと、片目を閉じる。
そんな一城に、ホッとする咲。真ん中で、二人の肩を抱く一城。
長い救急隊のやりとりがようやく終わって、出発の準備を始める救急隊。
「すみません、搬送先はどこですか?」
一城が、近くにいた救急隊に声をかける。
「K市総合病院です。どなたか、ご同行願えますか?」
はいと、咲が手を上げる。
先に行ってるねと、手を振る咲。
再び、サイレンが鳴り響くと次第に遠くなって行く。
「さて、俺たちも行くか」
「はあ・・・」
今日は、一日掛りの特別清掃をする予定だった。
仕事など、手につかない恵だった。
一城が、スマホを手にすると画面をタップし耳に当てる。
「おお、鉄ちゃん。休みんとこ悪いんだけどさ、今日暇?急な話で悪いんだけど、仕事頼めねえかと思って」
恵を見て、片目をつむる一城は、指でOKマークを作る。
「一城さん」
恵を察した一城、そんな行動がすごく嬉しい恵。なんでも、先読みしてドンドン導いてくれる。
恵と一城は、歩の部屋を後にした。
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