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九突き目 女たるや

鉄ちゃん、現る

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厨房清掃、上はレンジフード、壁に換気扇、窓ガラス、時には壁自体も、床は、大体がコンクリートの床で、水洗いが容易で滑りにくくなっている。その床に側溝があちこちから伸びてグリストラップへと伸びている。グリストラップとは、その名の通り、グリスの罠。恐らく和製英語なのだろう。
水と油を深めの溝で堰き止め水の流れを緩やかにさせる。まずは粗めの残渣物を籠が受け止め、そこをした水が二枚の仕切りが水の流れを抑えて固形物を沈澱させることで濁って水を浄化させる。分離された表面の油と沈殿する残渣物を残し上澄の綺麗な水だけが流れ出る構造になっている。
床を流れる汚水を浄化させるのがグリストラップなら、空気中の汚れを浄化させるのがレンジフード。その内外の鏡面部、空気の流れに壁を作りその壁に汚れを付着させるのがレンジフードフィルター。
換気扇もバラすと羽根と本体に分かれ、羽根はつけ置き洗いが可能だが、電気部分である本体は拭いて汚れを取る。
窓ガラスは内外の鏡面とサッシ部分、特に外の面は、現場が一階ならさほど問題がないが、二階以上となると、窓から体を乗り出して行うか、上から吊り下がって行う必要がある。
床のコンクリートも、調理器具の裏側や下などは、口にすることが出来なくなった食物素材、人参、じゃがいも、玉ねぎなどの切り端や謝って落とした調理済みの食物の宝庫である。
側溝は溝と、溝蓋がある。
基本、上から下へ行うのが鉄則で、まずは、レンジフードを洗う者、換気扇とガラスを綺麗にする者、レンジフードフィルターと溝蓋と換気扇の羽根を洗う者などに分かれる。壁やガラスの外面以外は、ほとんどが油汚れと言って良かった。
ここで、活躍するのが高圧洗浄機である。これも、お湯が使える蛇口があればまだ良い方で、水だけの作業となると効率がかなり悪い。
ギットリと油がこびりつくフィルターや溝蓋を大きめなコンテナなどで、必要に応じてつけ置きをする。それも、苛性ソーダなどの強アルカリ性の洗剤が不可欠となる。
これらの作業をを行うためにまず最初にするのが、濡らしてはいけない物の荷物出し、ソースの缶、油の缶、大釜用手酌、お玉、網、砂糖などの調味料など、あげたらキリがない。それら全てにマキシングテープなどの糊が残りにくいもので印をつけ番号や記号を付け位置を覚えておく。終わった後で元に戻すためのものだ。必要に応じて写真も残す。現状復帰というやつだ。
荷物出しが終わると養生である。
ビニールシートなどで、レンジフードの下にある調理器具など動かせないもの全てをシートや養生テープでカバーする必要がある。
高圧洗浄機で洗うため、かなりの水かお湯が使われ、大量の汚水となって流れ落ちる。そのため作業する者は雨合羽を着て行う。しかも、動きにくい長靴を履いて。
荷物出し、養生、つけ置き、汚れの酷いところに洗剤を吹きかけるなど、これらを終えたところでひとまず休憩となる。
一城が、小銭と千円札が入った小銭入れを恵に渡す。従業員らが入れ替わりに飲み物を購入して、休憩室、喫煙室にそれぞれ向かった。
この間にも、つけ置きされたものの汚れの落ち具合を確認する一城。
落ち具合が悪いと、さらに洗剤を投入する。
今日は、いつになく神経を使う一城。
それも、そのはず、これだけの人手で何事もなく作業が完了することが理想なのだ。何かを壊したとかならまだいいが、怪我が一番気になるところだった。ましてや、琴音のように、こういった現場が初めての者もいる。緊張が張り詰める現場に朗報があった。あと一人応援に、あの電話でしか聞いたことのない。鉄ちゃんが来てくれることになっている。
どんな人だろうと、恵は不思議とワクワクしていた。
恵は、つけ置きをするコンテナの前で、ブラシを手にしゃがみ込み、汚れが浮き上がってきた中のものをある程度汚れを落とそうとブラシをかけている。
そこに誰かがぶつかった。
危うく、油汚れが浮いたコンテナにバランスを崩し顔をつけるところだった恵。
振り向くと、一年先輩の戸壁とかべさんだった。
「あっぶねえな、恵。周りをもっと見とけよな」
「あ、すみません」
今のは、そっちがあやまるのが普通だ。と思った恵だが、そこはやはり先輩と後輩の間柄。

滑りにくいコンクリートの床をパットをブラシに付け替えポリッシャーを回す恵。コンクリートの荒い目にブラシでも引っかかるため操作が難しくなる。
恵がポリッシャーを回していると不意にスイッチが切れ、ピタリと動くのを止めた。
あれ?と、スイッチボタンをカチカチする恵。ハンドルから手を離しスイッチをonにした時、ポリッシャーが動き始め、床面のブラシを軸にグルリと上のハンドル部分だけが回転した。
振り回されるハンドルが、無防備な恵の脇にドスンとめり込む。
「ううっ!」
顔をしかめる恵。
琴音は、そのコードの先のコンセントをイジッている戸壁を見た。
その場に膝を着く恵。
少し遠くにいて異変に気づいた一城が近寄る。
「おい、大丈夫か?恵」
「なんでもないです。だ、大丈夫っす」
その様子を一部始終見ていた者がいた。窓の向こうの建物の外。
苦痛に歪む恵の表情を見た一城。
「いいから、見せてみろ」
「ほんとに、大丈夫ですから」
頑なに拒む恵に無理強い出来ない一城。
スマホを取り出す一城の腕を掴む恵。
「一城さん、これくらいで大騒ぎしないで下さい。頼んます」
「恵・・・わかった、だがな、絶対無理すんじゃねえぞ」
「わ、わかってますって」
痛みで顔を歪める恵は、何らかの嫌がらせを受けていることに気づいていた。
琴音との同行が多くなってから、恵の身の回りでそれは起き始めた。
ある時、事務所の自席の机に置いた飲みかけの缶コーヒーが床に落ちていたり。
一人、シャワーを浴びていると急に照明を落とされる。
折角仕上げた手書きの書類に飲み物がこぼされている事もあった。
小さなものを挙げていたらキリがない。
大きいものでは、つい最近、階段を降りているところに、何かに足が引っかかり踊り場に転げ落ちたことがあった。振り返ると、傘を持った誰かが立ち去るのを見た。

窓の近くで、ポリッシャーを回す恵。
ふと、気配を感じ窓の外を見る。
上から、スルリと降りてくる窓拭きをしている人。
見ると、明らかに年上の女性だとわかる。
ニコリとすると、コンコンと窓を叩き、鍵を開けて。と言う。
恵は、言われるまま鍵を開けると、ガラガラと窓を開けると、軽やかに中に入ってくる。
「ありがとう。それから、おはよう」
「おはようございます」
挨拶には挨拶で返す恵は、その声に聞き覚えがあったが、初めて会う人だった。
現場にいた誰もが、この人、誰?の顔をする。
女性は、戸壁に近づくと。
「おはよう」
と声をかける。
まるで、聞こえなかったかのように、女性の横をすり抜けて行く戸壁。
やっぱりか、の顔をする女性。
そこに一城がやってきた。
「もう、窓拭き終わったのか?鉄ちゃん」
え?皆の視線が女性に注がれる。
てっきり、男だと誰もが思っていたから、ショックは隠せない。皆の彼女を見る目が一変する。
矢島哲美やじまてつみ、鉄は鉄でも哲違い。
「今、終わったとこ」
「そっか、ほんと助かるよ」
哲美が何やら手招きをして一城を恵の元にくるように促している。
「どうしたの?」
不思議そうにする一城と恵。
「いい?見てて」
哲美は、チョンと恵の脇を軽くつついた。
ああ!思わず声を上げて大きく体を退け反らせる恵。
ほんの少し触れただけだったが、恵はその場に膝を着いた。
「恵、おまえ!」
一城は、今度ばかりは遠慮がなかった。恵の作業着を捲り上げ腹部を露出させる。
見ると、そこは、どす黒く変色して腫れ上がっていた。
「馬鹿野郎!何してんだ。腫れ上がってんじゃねえか」
一城は、スマホを取り出し画面の蓮実の携帯番号をタップすると耳に当てながら横目に哲美を見る。
「悪い、哲ちゃん。ここ、頼めるか」
片目を挟むように指でVを作り敬礼する哲美。
「頼まれた。さあ、早く行って、イッちゃん」
二人が出て行くと静まり返る現場。
腕を腰に当てる哲美の気さくで活気あふれた笑顔が一変、眉間に皺を寄せ険しくなる。
「さあて、これからが本番だよ。気合入れてくからね。覚悟して掛かるんだよ」
哲美の周りの従業員たちが一瞬ためらうも、リーダーが変わったことがわかると皆が声を上げた。
「はい」
姉御の凄みに押され、皆の声に気合が入る。
横目で、戸壁を見る哲美。
哲美が鉄ちゃんとわかった戸壁は、オドオドしつつ、コソコソと舌打ちをする。

         ・

医務室。
受付の外で、一人ソファに座る一城が揺する膝の上で腕を組んで落ち着かない。
「馬鹿野郎が、無理するなって、言ったろ」
ガチャッと、診察室の扉が開き、恵の状態を確認していた蓮実が出てくるのを一城が見上げる。
「おお、悪いな蓮実。世話かける」
一城の横に座る蓮実。
「一城、怪我人出すなんて、らしくないわね。何があったの?」
面目なさそうに頭を掻く一城。
「恵が操作してたポリッシャーの配線が接触不良起こしたみたいでな。急に回り出したハンドルが脇に当たったみたいだ」
「それだけのことで、あんなになるものなの?」
「うん、以前、同じようなことがあってな。壁に穴を空けちまったことがあるんだ」
「そんなに?」
「ああ、回転に勢いが付くとかなりのもんだよ」
「そお、それにしても」
「道具の動作確認は日頃から入れ替わりでやってるから不備なんてないはずなんだがな」
理由もわからずうつむく一城と蓮実。
コンコンとノック音がして入り口の扉が開き誰かが入ってきた。
それを見た一城が声をかける。
「おお、琴音か、どうしたんだ?」
やや言いにくそうに、下を向いている琴音。
「なんだ、何かあったのか?」
「じ、実は。あれは、接触不良なんかじゃありません」
顔を上げ琴音の言葉に目を丸くする一城と蓮実。
真剣な顔でこちらを見る琴音を見る一城。
「琴音、それはどういうことだ。詳しく聞かせてくれ」

        ・

休憩に入り誰もいない現場に、戸壁が新人の一人を壁に押しつけている。
「お前が、鉄ちゃんがどんな奴か、ちゃんと調べておかないから俺が恥をかいたじゃないか」
「し、知らないっすよ。哲ちゃんが女だったなんて、第一に誰も知りませんよ。そんなこと」
勤続年数の長い戸壁でさえ知らなかったことを新人が知るはずもなかった。
「い、言い訳してんじゃねえよ。二度とこんなことしねえように、教育してやるからな」
戸壁は、新人のズボンの前を引っ張り開くと手に持った灼に入った汚れた油と汚泥物を流し込もうとしている。
そんな戸壁の背後に誰かがいた。
「なんか、楽しそうなことしてるじゃないか。あたいも仲間に入れとくれよ」
驚いて振り返ると、バケツを高々と持ち上げた哲美がいた。
哲美は新人が声を上げて逃げるのを確かめると、バケツに入った汚泥物を戸壁の頭の上で、ひっくり返した。
バシャアアアア
全身、汚泥まみれになる戸壁。
腐った油と食べ物の匂いが、辺りに充満する。
「おええ、くっせえ。なんてことすんだよ」
頭から滴り落ちる汚泥物と襟元から流れ込むドロドロとした感触。どうしていいかわからず、オドオドするだけの戸壁は半ベソをかき、異臭とヌルヌルとした液体が服の中で流れ落ちるのを感じ、今にも嘔吐しそうになる。
そんな戸壁の襟元を掴む哲美。
「あたいは、あんたみたいなのが、一番、大っ嫌いなんだよ」
「なに?」
「挨拶されたら、挨拶で答えるのが道理っもんだろ?それを無視しやがって。おまけに、社長のダチだとわかった途端、ビビリやがる」
「く・・」
「こそこそと、みみっちい野郎だよ。てめえわ。男なら正面から堂々と向き合って戦ってみたらどうなんだい。コソコソジメジメ。あたいは、お前みたいな奴が一番大っ嫌いなんだよ」
「こ、この野郎、言わせておけばいい気になりやがって」
襟元の哲美の腕を掴む戸壁が拳を握る。
そこに、一城たちが駆け寄ってきた。
「ま、待て、戸壁。落ち着けっ・・て」
一城が止めるが遅かった、戸壁の拳が哲美の顔面を捉えていた。
いや、哲美もまた、拳を繰り出していた。
哲美の方がリーチが長かった。
哲美の拳は、戸壁の顔面に深くめり込んでいる。それに対して、戸壁の拳は、哲美の顔、スレスレで止まっていた。腕と腕をクロスさせるカウンター。
戸壁は、下顎が大きくズレて白目を剥くと、その場に倒れ込んだ。
やっちまったの顔をする一城と蓮実。
開いた口が開きっぱなしの琴音は、怒り心頭でその場を立ち去る哲美から目が離せなかった。
たったの一撃で戸壁を床に沈めてしまった哲美という女性は一体何者?
「矢島哲美を舐めんじゃないよ」
熱冷めやらぬ哲美はぺっと吐き出すようにしてその場を離れていった。
それを蓮実が追いかけていく。
何事かといつのまにか集まっていた従業員の一人が、その名前を耳にしてハッとする。
「俺、あの人、知ってる・・・」
「え?」
「南北の二島ふたじま
「ふたじま?」
さらに別のところから声が上がる。
「あ、それなら、俺も知ってるよ」
「知ってるって、二島をか?」
「ああ、南北の二島といえば・・・」
一瞬、言っていいものかと戸惑い周囲を見回している。
「二島といえば、なんだよ?」
知らないものが誰もが、その先を聞きたくて視線を向けている。
「いいのかな?言っちゃっても」
「大丈夫だろ?一城さんなら怒りゃしないだろ」
「まあ、そうだな。二島っていうのはな。一城さんの来島と哲美さんの矢島の二つの島を取って、二島なんだよ。男子校である南高と女子校の北高で、それぞれ頭張ってた二人が手を組んだ抗争があったんだ」
「高校生で、抗争ってなんだよ」
「知らねえよ、そんなの。でも、伝説になってるんだよ。南北の二島って」
伝説という言葉に、皆が尊敬と憧れの表情を浮かべている。誰もが、どんな二人だったのか気になって仕方がなかった。

喫煙者。
一城がソファに腰掛け咥えタバコで呆れた顔で、殴って痛む拳をブラブラさせる哲美を見ている。
「ったく、ちったあ、加減てものしねえからだろ?」
「あたいには、手加減てのは無用なものさ。あんもう、いった~い、イッちゃん、ここ、ふうふうして、お願い」
「誰がするか、気持ち悪い」
「あ、ひっど。これでも、一応女なんだけど」
胸を下から両手で抱え込むと、ボヨンボヨンさせてみせる哲美を見て慌てて目を逸らす一城。
「ばばば、馬鹿。似合わねえことしてんじゃねえよ。いい加減にしねえと、ち○こ、ぶち込むぞ」
「おお、やれるんなら、やってみなさいよ。あたいのま○こで、締め殺してやるからさ」
一城の股間近くで両手で絞る手つきをする哲美。
「おお、やってもらおうじゃねえか、そしたら、中でたっぷり吐き出して妊娠させてやっからな」
腰をクイクイと突き出して見せる一城。
「上等じゃないさ。受けて立とうじゃないの。なんなら今夜、あんたん家、行くからさ、子作りと洒落込もうじゃないか」
哲美は言いながら顔を赤らめている。
「おーし、女の子だったら、泉って名前にすっからな」
「あ、それは、ダメ。それだけは譲れない」
「何でだよ、いいじゃんか、名前くらい」
「ダメったら、ダメなの。イッちゃんの好きだった女の名前なんか、誰が許すと思うんですか?」

何という会話をしているのか、延々続きそうなので、本題に戻りましょう。

なんだかんだ言いながら、本気を出した二人は、凄かった。
あっという間に、遅れた仕事を片付けてしまった。

ワゴン車に荷物を積み終える。
「みんな、お疲れ」
「お疲れ様です」
気を取り戻した戸壁も、渋々声を出す。
「お疲れっす」
「やれば、出来るじゃんか。あんたもさ」
戸壁の肩をバシンと叩く哲美の平手は、強烈だった。
前のめりになる戸壁は、危うく倒れそうになる。
リュックを背負う哲美を見る一城。
「哲ちゃん、送ってくか?」
「いや、大丈夫。めぐちゃんのこと、見てあげて」
ミリタリージャケットの襟を整える哲美は男っぽいながら、女性らしい柔らかいし表情を浮かべている。
「そか、悪い、そうするは」
「うん、そうしてあげて」
哲美に歩み寄る恵。
「哲美さん、今日はありがとうございました。色々と」
大柄な哲美は恵の肩に手を乗せる。
「めぐちゃん、いい、聞いて」
恵の瞳に視線を合わせる哲美。
「意地を張るのと、無理をするのは、全く違うことなのよ。琴ちゃん、泣かしたらダメだからね」
「え?、あ、はい、気をつけます」
「あは、めぐちゃんて、可愛い♡めぐちゃんのち○こ食べたくなっちゃう」
恵の頬にキスをする哲美は、琴音を見る。
「琴ちゃん、しっかり掴んどかないとあたいがめぐちゃん、頂いちゃうからね、いい?」
「わ、わかりました」
クシャクシャの笑顔をする哲美は、恵と琴音を見る。
「二人、お似合いだよ。ラブラブ羨ましい」
顔を見合わせる恵と琴音は頬を赤らめれている。
「うん、てことで、またね。お二人さん、そして従業員の皆さん。あとイッちゃんもね」
手を振りながら立ち去ろうとする哲美。
「おお、今日は、サンキューな。あと・・・色々とな」
背中越しに手を振る哲美。
「いやいや、気にしないで。・・・あ」
何かを思い出し立ち止まる哲美は、一城に駆け寄る。
「ん?」
何事かと、不思議そうに哲美を見る一城。
哲美は下唇を噛みながら上目使いに一城を見る。
「イッちゃん、今夜、ほんとに行ってもいいの?」
哲美に女の顔を見た一城。
「ばばば、馬鹿、いいわけねえだろ?本気にすんな」
「ひっど~い、これだもんね」
「誰がお前なんかと・・・・・・ブツブツ
ふっと、影を落とす哲美。
「やっぱ、蓮実には、勝てないか」
「何?なんか、言ったか?」
「なんでもないよ。じゃあな、イッちゃん」
悟られまいと背を向け立ち去る哲美を視線が追う一城。
「哲美?」
一城の口から無意識に出た呼び方に一瞬立ち止まる哲美。
「哲美・・・か、久しぶりだな。その呼ばれ方」
背を向け、下を向く哲美の声は一城には届かなかった。
「聞こえねえよ、今なんて?」
一城を振り返る哲美は目を細め、むしろ目を閉じて笑顔を作ることで真っ直ぐに一城を見れずにいる。
「なんでもないよ。じゃあな、一城」
言うと哲美は、その場を逃げるように走り出していた。
「・・南北の二島・・か、懐かしいな、あの頃が」
二人肩を並べて、お互いを一城と哲美で呼び合って暴れていた頃を思い出す哲美。
男も女もなかった。むしろ、それ以上の関係だった。
ふざけて抱いたり、抱かれたりしていた、あの頃。愛してるとか好きとか、そんなものじゃなかった。
気がつけば、いつもそばにいた。当たり前だった。
それが、ある日を境に終わりを遂げた。
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