初恋はクラーケン

道草家守

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舞踏会の夜2

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 手頃な岩に腰掛けて、そっと足を浸せば、程良く冷えた水が火照った指先に心地がいい。
 そのまま、足を動かせば水滴は踊り、静かだった泉はにぎやかになった。
 しぶきを跳ね上げ滴を落とす、遊びみたいなものだったが、アーシェの疲れた心は慰められた。
 水面に広がる波紋を眺めながらアーシェの心は海へ飛ぶ。

 今ごろクラーケンはどうしているだろうか。
 きっと、海底でまどろんでいるか、巡回に出ているかだろう。
 クラーケンの中に遊びや休憩という言葉はないから、アーシェが訪ねていかなければどちらかだ。

「……あ、でも、歌を聴いていたりするかもなあ」

 クラーケンはアーシェが来るとき以外は、滅多に都市に立ち入らないのだけれど、たまに音楽を聴くときだけは触手を海底都市の内側にさしのべるらしい。
 とはいっても、クラーケンが演奏をするわけじゃない。
 そう、数少なく、アーシェがクラーケンの役に立ったと思える出来事だ。

 デートと称して、クラーケンに街中を案内してもらった最中に、クラーケンに建物の一つから持ち出してほしいものがあると言われた。
 初めて頼みごとをされたアーシェは、意気揚々とその大きな箱といくつかの丸いプレートを持ち出したのだ。
音楽が流れてくる大きな箱はひどく不思議だったけど、その触腕の先で器用に操作すると、素敵な歌が流れてくるのだ。

 何度か聞かせてもらっている女性の声で奏でられるそれは、アーシェが知っているどんな曲とも雰囲気が違っていて、それでも確かに良い曲だった。
 けれどそれよりも、触腕にふれてなくてもわかるような、クラーケンの懐かしげな様子が心に焼き付いて、アーシェはすぐにその歌を覚えてしまったほどだ。
 嬉しさと、寂しさが入り混じるような。きゅっと胸が切なくなる雰囲気だった。

「……ー♪・ー……♪」

 主題の部分を口ずさめば、クラーケンが無意識に触腕を揺らして拍子を取っていたのを思い出して笑みがこぼれる。
 それを指摘したら、憮然とその触腕を止めたけど、少し経てばやっぱりどこかの触腕が動き出すのだ。
 決まり悪そうな銀の瞳に、アーシェは吹き出さないのが精一杯だった。
 少しのつもりが興が乗り、最後の一節まで歌い上げたアーシェが心地よく余韻に浸っていると。
 ぱち、ぱち、ぱち。とささやかな拍手が静寂を破った。


「なんて美しい歌声だ。君は、泉の妖精かい?」


 アーシェがぱっと振り向くと、そこには青年が立っていた。
 ほのかな明かりがあるとはいえ、流石に顔立ちまではわからなかったが、上等な夜会服からしてなかなか高位の貴族らしい。
 貴族の地位もないアーシェは遠慮しなければならない立場だが、この暗がりではアーシェがどこの誰かなんてわかるまい。
 なにより一人の邪魔をされて少々気分が悪くもあったアーシェは、ゆったりと水に浸した足を揺らめかせつつ、悠然と応えてみせた。

「褒めてくれてありがとう。でももし私が本当の妖精だったら、あなたは今頃、耳を削り取られていたかもしれないわよ?」

 永遠の楽園ティル・ナ・ノグから気まぐれに姿を現すという妖精は、意図せず人に見つかることをひどく嫌う。姿を見たことがばれたら最後、理不尽な仕打ちを受けるのだ。
 すると青年は大げさなまでに震え上がった。

「それは怖いな。だが、最後に聴いたのが君の歌声なら悪くないかもしれないな」
「だれかを口説きたいのであれば、他をあたってくださいな」

 遠回しの拒絶をやめてアーシェが言葉に険を含めて返せば、青年は慌てたようだった。

「ああ、すまん。そうではないのだ。いや、そうでもあるのだがな」
「どっちよ」
「どっちもだ。その、君が付けている石が君の声に反応して淡く光を発していたのでな、不思議だったのだ」

 アーシェは胸元の海生石のネックレスを見下ろした。
 今はすでに収まりかけているが、確かに淡く光をはらんでいる。
 どうやら、水辺に居て反応しやすいところに、うっかり魔力を乗せて歌っていたから大きく共鳴したらしい。

 これには簡単な水難よけの呪いしかかかっていないから害はないものの、それだけ没頭していたということでもあるから少々気恥しかった。

「これは海生石だから、水辺だと反応しやすいのよ。海でやればもっとすごいけど」
「なぜ、水辺だと反応しやすいのだろうか」
「海生石が海でとれるからだけど、知らない?」
「うむ、知らん。よければ教えてくれないか」

 暗い中でも、青年がどうやら本気で知りたがっているらしいことを感じとったアーシェは面食らった。
 貴族は自分たちを飾っているその美しい石がどうやって採れるか興味すら持たないものだ。
 妙な貴族だ、と思ったが、これは、スフェラ商会の娘としても、潜り手としても答えないわけにはいかない。

「いいわ。まず、海生石は――……」

 さっと算段を付けたアーシェは、泉から足を抜いて青年に向き直ると、とうとうと話し始めたのだった。
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