初恋はクラーケン

道草家守

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訪れしは1

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 空は晴れて、風は追い風。帆には十分な風がはらみ、海生石かいしょうせきの動力も、船員の意気も申し分ない。
 次第に海面が荒れてくると、マストの上で監視していた船員が声を上げた。

「見えたぞー! 前方に霧だ!」

 アーシェが舳先にへばりつけば、波の間際に薄く霧が立ち込めている部分が見えた。
 周辺にもすでに靄が忍び寄ってきている。 

「なんだかよ、この間よりも、霧が出るのが早くねえか?」
「おう、それに、波が出るのも早いような……」

 アーシェが船員たちが口々に言うのを聞いていると、王子が近づいてきた。

「これ以上近づけば、クラーケンに見つかる可能性がある。後は頼む」
「任せて」

 王子の心配そうな顔にアーシェはそれに笑みの一つで応えると、胸から下げた海生石を握った。
 それに合わせるように偵察に選ばれた潜り手たちも起動詩を唱え出す。

「”我海より陸に上がりし一族 しかし今一度海に抱かれることを望むもの也”」

 淡い燐光に覆われたアーシェたちは、軽やかに船から海へ飛び降りていった。

 表面は波が高いが、海中はまだましだった。
 着水の衝撃のあと、海流に抱かれたアーシェは、ほかの潜り手とともに一気に霧の方向へ加速する。
 このまままっすぐ進めば、必ず何かがあるはずだ。
 アーシェはどきどきと脈打つ胸を平静に、水をかき分ける海生石の燐光を引いて海の中を飛んでいくと、横に見知った潜り手が並んだ。

「アーシェ、本当に船がいなくなる原因が、クラーケンじゃなくて、悪魔鯨とかいう奴だと思っているのかい?」

 偵察に加わっていたトキに不意に問われたが、アーシェは迷わずうなずいた。

「ええ。たくさん調べたもの。これは悪魔鯨の出没する特徴によく似ているわ。それに、私はクラーケンが無実だって信じてる」
「……正直ね。あんたがそう言いだしてくれて、ほっとしたんだよ」

 そんなこと言われて、アーシェは思わず傍らを泳ぐトキを振り返った。
 困ったような、喜んでいいのかわからない、複雑な苦笑を浮かべていた。 

「あたしも一度、クラーケンにあったことがあってね。あんたぐらいの年の時さ。海生石を探すのに夢中になって仲間とはぐれっちまってね。海獣に見つかって襲われた。そのときに助けてくれたんだよ。赤紫の触手は気味悪かったけど、恩人なんだ」
「じつは、あたしも……」
「わたしも……」

 するとほかの潜り手たちからもぽつり、ぽつりと同じような声が挙がった。
 この場にいる娘たち全員がクラーケンに会ったことがあるという事実に、アーシェは信じられない気分でいるとトキが励ますように言った。

「だからさ、ここにいる皆はクラーケンが船を食うなんてこと信じられないから、立候補したんだよ。あんた一人で背負い込む必要はないんだ」

 ずっと不思議だった。こんな危険な任務をどうして引き受けてくれたのか。
 そうか、クラーケンを信じてくれるヒトは、こんなにいたのか。
 こみ上げてきたものは海に紛れて見えないだろう。
 鼻の奥がつんと痛むのを感じながら、アーシェは笑顔を浮かべた。

「ありがとう」
「礼を言われることでもないよ。クラーケンに恋をするあんたほど、思い入れがあったわけでもないからね」
「ふえっ!?」

 トキにそんな風に揶揄されて、アーシェは思わず体勢を崩した。
 ほかの娘も好奇の視線でにやにや笑う。

「だって、海に行くときの顔を見れば一目瞭然だよ。いつもいつも、恋人に会いに行けるのがうれしくてたまらないって顔をしていたからね」
「そん、なに、わかりやすかった?」

 どうせわからないだろうと高をくくっていたので隠す気はいっさいなかったが、アーシェは改めて指摘されて、顔に熱が集まるのがわかる。
 そういえば、父に指摘されたのも船長に聞いたからだと言っていたか。

「わかりやすいなんてもんじゃないね。一年前ぐらいだっけ? あんたの美貌によりいっそう磨きがかかったから、町中に恋をしているって噂が広まって、相手は誰だって町中の野郎どもが騒いでいたくらいさ」

 まったく知らなかったアーシェはひたすら赤くなるばかりだ。
 こう、恋をしていたのが知られていたと言うだけなのに、無性に恥ずかしい。

「まあねえ、正直どこに惚れる要素があるのかがわからないけどねえ。見た目蛸だし、ぬるぬるしてるし、赤紫色で気色悪いだろう?」
「その赤紫色がいいんじゃない! それにね、銀の瞳はそりゃあ優しいの。会いに行く度にあきれさせちゃうばかりだけど、相手をしてくれる素敵なヒトなんだから!」
「あんた、本気で惚れてるんだねえ」

 あきれた風なトキに、取り戻した意気もしぼみ、アーシェは気恥ずかしさに黙り込むしかない。

「まあね、人の趣味はそれぞれだから、あたしたちがとやかく言う気はないさ。……さて、そろそろだ」

 不意に変わったトキの声のトーンに、アーシェたちは表情を一気に引き締め無言になった。
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