石の中にいる~妖魔である妖狐と一緒に封じ込まれていますが長い年月の果てに絆されました

次郎

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21話 銀狐の死

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 秋になった。

 秋に出会って殺し合いから始まった二人の関係は、二十四年の年月が経過していた。それだけ経ってもその力関係は、ほとんど男が一方的に打ち倒されるだけのものであった。師弟の間柄になってもそれに変化はない。
 男が真に銀狐に喰らい付けるようになるのは、まだまだずっとずっと先の話であった。

 だが今日この日、自分と同じ目線まで下りてきた銀狐に対して、男は本当の恐怖を味わうのだった……。



 そして穴の中。
 男はまだ生きていた。

「ほーれ、キョウよ。皿に酒を注いでやったからのう、しっかりと全部飲み干すんじゃぞ」
「ああ、有り難く」
「なに、気にするな。これでもうお主の顔を見るのは、見納めじゃからのう。いつものように舌を使って飲んで構わぬぞい」
「……ああ、だがそれは最後の一口を溢さぬように、舌で受け止めていただけだ」
「じゃろうな。だがわらわは、それを見るたびに胸がむかっとしてのう。弟子に頭がどうにかされるところじゃったわ」
「……そうか、すまぬ。次回からは気を付けよう」
「今からそうしろ」
「……わかった。申し訳ないが最後ゆえ、師のその手で皿を持ち上げて欲しい」
「ふんふん、仕方ないのう」

 下から覗き込んでくる銀狐の視線を意識しながら、男は顔を上げた。一滴ずつ零れ落ちてくる酒を、舌を使って受け止めて飲み下していく。

 男の負傷はすでに癒えて、体調面でも精神面でも万全の状態であった。何度折られようが、立ち直ればしぶとく息を吹き返す。死に損ないの捨て子は、なんだかんだ不死身であった。
 そのため数日前に師からとうとう別れを告げられようと、男にそこまでの動揺はなかった。

「ほうほう、少し震えておるのう。お主はそんなに、わらわの尻穴が気になるのか?」
「……いや、なんだか姿勢が辛くなってきた」
「そうかそうか、頑張れ。わらわの秘部はついでに楽しむといい。石女である我のそこに、お主の首ほどの価値はないからのう」
「……うむ」

 冷めた口調の銀狐に生返事を返したが、それさえも取り合ってくる様子はない。やはりこれで終わりなのだと、男もそれを理解した。

 もう銀狐は、この石の中になど戻ってくる気はなかろう。銀狐が外に出て、男は石の中に残る。意地を張って師を無視続けた弟子には、当然の罰である。
 銀狐とはこれで、今生の別れなのだ。

(……最近は雨が続いていたが、今は晴れている。今日はきっと、いい日になる)

 湿っぽい日が続き、目覚めれば男の口元が濡れていることが多々あった。もしかしたら眠っているうちに泣いていたのかも知れない。だがそれも、今日で終わりだろう。

 そして決然と最後の一口を胸に刻みつけておこうとした男は、それを横から銀狐にさらわれた。残った皿も磨くかのように丁寧に尾で拭かれて、あっという間に石の外に出される。もう男の元には戻ってこない。

 余情を感じて覚悟を決める前に、あっさりと男の最後の一瞬は終わってしまった。……もっと常日頃から銀狐との日常を大切にしていれば、こんな寂しさなど抱かずとも済んだのに。

「なんじゃ、もっと酒が欲しいのか。わらわの口からでよければ、持っていって良いぞ」
「……いや、別にいい」

 気のない返事を返して、男は口を閉じた。
 まさか銀狐も、本気で言ったわけではないだろう。もうここ半年、銀狐がこちらに触れてくることはなかったのだ。男の方も今さら師に縋り付いて、別れ際に落魄な姿を見せたくはない。

 それとも無理矢理に口をこじ開けて、奪い取って見せろとでもいうのだろうか? それならば面白い冗談であった。

「くくく、まあいい。最後まで未熟者じゃったが……ここがわらわの器量の限界というものじゃろ」
「……師の期待に沿えずに至らず」
「ふふふ、そう湿っぽくなるな。なに、わらわもお主を傷付けるのは本位ではない。それにここまでのお主の行いに免じて、わらわは褒美を授けようぞ」
「……?」

 見つめ合った状態から、銀狐は己の口元に手の平をかざした。そして……二度と聞きたくない異音とともに、手の平を返した。
 そこには白く……赤い何かが一つ、乗っていた。

「ほれっ、我の歯であるぞ。持って行け」

 絶句した男は、銀狐の口から鮮血が流れ出ているのを目にした。一瞬で乾いた己の口内を、男は舌で動かして確認する……自分の歯はすべて揃っていた。
 ならばこれは本当に、銀狐の歯か。

「前にわらわが当り散らして、お主の歯を引き抜いたことがあったじゃろ? 何度も同じことをしてきたもんじゃが……それのせめてもの詫びじゃ。お主には必要になるぞ、持って行け」
「…………ぃゃ」
「なんじゃ、我のこれもいらんか? お主には絶対に必要じゃぞ」

 銀狐の言葉が紡がれるたびに、その口から滴り落ちる血は増えていく。話の内容よりもまず、会話そのものを打ち切りたくて男は首を振った。
 自分のことよりも何よりも、己の身体を大事にして欲しい。

「くくくっ、後悔するでないぞ。お主のその選択を」

 戸惑い、声も出せない男の姿を見て銀狐は口を開けた。ようやく歯を嵌めて出血を止めてくれるのかと思えば、口の中で遊ばせる。
 そしてそのままごくんっと、銀狐は喉を動かして歯を飲み込んだ。

「これで我の腹の中じゃ、後で吠え面をかいても遅いぞ。お主の下にはもう戻らんからな、キョウよ」

 まるで幼子がするように銀狐は目をつぶって舌を出して……それと共に、頭を引っ込めた。ばきばきばき、と暴力的な音を立てながら。

 ……そしてそれっきり銀狐から声が掛かることはなく、どうやら師弟の別れはこれで済んでしまったようであった。

(……なんだったんだ?)

 茫然自失となっていた男の胸に、ようやくそんな疑問が浮かぶ。別に男とて、劇的で感動をもたらす一幕を期待していたわけではない。だからといって、こんな突拍子もない決別もないだろう。まるで狐につままれたようだった。

 だが幻でない証に、血溜まりは確かに石の床にあった。飛び散ったそれは銀狐の陰部を汚し、股下に巻き込んだ髪をも濡らしていた。

(……銀狐、外に出るのなら下穿きくらい着けてくれ)

『今日は着けなくて良いか?』
『そのほうが良いと思う(洗濯が必要だろう……流石に)』

 といったやり取りが先日にあった。
 それに得心した銀狐は股布を脱ぎ、石の外に手を出して何か作業を始めていた。その後に物干し竿に吊るしている様子が見えたので、ちゃんと手洗いしたのであろう(するわけねぇだろ……) やはり家庭的である。

 が、外をよくよく窺ってみれば股布はまだ干しっぱなしのようであった。意外にも銀狐は物臭であった。

(まあ置き忘れていくことはないだろうが……しかし、両脚の枷が外れていないのに銀狐はどうやって外に出るつもりなのだ……?)

 男が息も止めて無駄な時間を過ごしている間にも、銀狐は精力的に活動を続けていた。その甲斐あって穴掘り技術が向上し、両脚の解放もあと三年程度に早まったとのことだった。
 その算出に男のことは考慮されていないが、別にそれはいい。しかし銀狐の枷がまだ、すべて外れているわけでないことは憂慮すべきことだった。

(……一旦、足を切り離して外に出る? そして後方から回り込んで外部から穴を開けて足を回収する……?)

 どういった手段を取るかはわからないが、『お別れ』と銀狐が言った以上はそうなるだろう。『弟子の身体には傷一つ付けない』と念押しされたのも、信じたい。
 もう師弟の繋がりすらない、と言われてしまえばそれまでであるが。

(それに歯も……俺に必要とはいったい? 絶対に、そんなものはいらないと思うが……)

 落ち着けば、疑問ばかりが沸いて来る。
 いまだ何の動きもない銀狐の隣で、男はしばし頭を悩ませて待ち続けていた。


 そしてしばらく時間が経過した。

 封呪の石の中では時間の感覚が曖昧になるが、時は止まることはなく常に動き続けている。日が傾けば影は伸びる。
 そして変化はもう一つ、銀狐の流した血が石の床を這っていた。

「…………」

 静寂の中、男は震えた。
 何かの間違いだろう、と思いたかった。だが何度確認しようと、それは銀狐の秘部を越えて男の方にも向かって来ている。

 血の量が増えている。銀狐の出血が、止まっていないのだ。

「……アサギ」

 男は口を開いた。
 だが銀狐からの返答はない。

「アサギ……!」

 禁を破って、男は続けて銀狐の名を呼んだ。だがその声も石の中に虚しく響いて消え、返って来たのは沈黙だけだった。

 銀狐は、何も動かない。

「……くっ!」

 男は焦りに荒く猛って、銀狐の尾に噛み付いた。根元には少し届かず、銀狐を覚醒させるには至らないかもしれないが、代わりにあらん限りの力を振り絞った。同時に、引き千切れても構わない勢いで引っ張る。
 だが固く強張った尾は石のように動かず、しかし毛先は柔らかく男を傷付けることはない。位置を角度を変えて何度行おうと、同じ調子が繰り返される。

 ……ややあって男は、陰部の下に挟まった銀狐の髪に気付く。血溜まりに顔を突っ込んで精一杯に舌を伸ばすが……わずかに届かない。
 手と首の枷が外れたことで銀狐は男と、ほんの少し距離を取れるようになっていた。その差が足りない。

(……なんでこういうときに限って、股布を着けていないんだ!)

 ようやく捕えたかと思えば、歯で咥え込む前に逃れられる。銀狐の身体のどこに組み付こうが、自分とのほんのわずかな隔たりさえも縮めることができない。
 何か、手はないものか。

(あれか……)

 思い浮かんだそれに胸の中、苦い気持ちが去来する。だが今はそんなことに、気を病んでいる場合ではない。

 男は石の中で、自らの身体を壁に叩きつけた。左右交互に揺すって、やがて肩の関節が外れる。それでも銀狐の髪には届かないが、構わずに男はじりじりと……それを手前に引きずり出していく。
 激痛の中どれだけ動かしたのか、喉の下にまでせり上がってきたその感触に男は首を上げた。最後は上下に振って、引っ張り出す。そしてそれはようやく、男の前に姿を見せた。

 縄であった。

(これを、使って……)

 高所から降りるときを想定した、退魔師の支給品である。木に引っ掛けられるように、円結びにしていた先端を男は投じた。そしてどんどんと広がっていく血の池に落ちたそれを、引く。
 これでうまく引っ掛かってくれれば……。

「……よしっ!」

 粗い縄目に挟まって、銀狐の髪が男の前まで届く。それに痛みも忘れて男は喜びの声を上げた。そして間髪も入れずに引っ張り、ぼきぼきぼきと銀狐の背骨を鳴らしていく。
 そうしてなんとか引きずり出した銀狐の首に、男はまず縄を掛けた。ここでいきなり動かれて、逃げられては堪らない。

 ……実際には銀狐が動くということは、生きている証拠そのものである。だが男はそこまで冷静に動けていなかった。師が死ぬことなど絶対にあるはずがないと、それだけは漠然と信じていたのだ。

(呼吸がなく眼球も動いていない……頬を張っても反応がない。身体が固く脈が取れないが、血は流れ続けている……くそっ!)

 作り物めいて美しい銀狐の唇に、男はむしゃぶりついた。舌で割ってこじ開けて、必死で血痰を掻き出す。ある程度吸い出したら横向きにして吐き出させて、鼻から息を吹き込み口内を動かす。

 ……これで気道が確保できれば良いが、そもそも人間と同じ構造で考えていいのかもわからない。銀狐の血は生暖かく、苦く、そしてなぜか少しの甘味が感じられる。そもそもが何が原因で銀狐の意識がないのかさえわからない。

(……座学を、もっと修めていれば! 俺は師の弟子だろうっ! ならばあとで叱ってもらって今は全力で……!)

 銀狐の抜けた歯の跡を自らの舌で抑え込んで、男はただひたすらに銀狐に息を吹き込み続けた。


『おうおう、やっとるやっとる。肉体の、初めての口付けが奪われているのう』

 そんな悪戦苦闘する男の様子を、石の中から見下ろしている者がいた。白い靄のようなその姿は、霊体と呼ばれるものであった。見るものが見れば、その実態を看破できただろう。
 金の瞳に金の長髪、だが銀狐とは異なり、その尾は金色であった。

 それは銀狐当人でありながら、銀狐とは少し異なる存在だった。ここではそれを『金狐』と呼ぶとしよう。

『にししっ愛する男との初めての口付けを、見届けたのは我じゃ。おっと、肉体のはこやつが寝ている隙に、こっそりとぺろぺろしておったか。気付かれれば言い訳できぬのに気付いて欲しかったとは……肉体のの誠実さは、いったいどこを向いておるのかのう?』

 口元に手を当てて身体をくるりと回して、肉体の上で煽り倒す。金狐は肉体には従属的な志向であったが……まあ元々は銀狐である。その気性は本体と同様に、悪戯好きであった。
 加えて金狐は銀狐から、殺生石の不要な記憶を押し付けられている。いくら肉欲のない金狐とはいえ、それには思うところがあった。何が悲しくて、愛する男ではない者との記憶を覚えていなければならないのか。せめてその見返りに、この男と愛し合った記憶も作るのが筋であろう。

 そうした鬱憤もありしばらく金狐は、自分の身体とこちらに気付くこともない男を小馬鹿にする。だが一心不乱に肉体にしがみついている男の姿を見ていると、それも馬鹿らしくなってくる。
 やがて金狐は、両手を首の後ろに組んで思案を始めた。

『しかし……この男の秘密とやらは、こんなものだったか。小人は隠すものもみみっちいのぉ』

 肉体の首に掛かっている縄を見て、金狐はため息を付いた。

 銀狐も男が、何か隠し事をしていることには気付いていた。それが他の女に関することではなさそうだったので、捨て置いたのだ。それにどうせ大したものではないだろうと、侮っていた部分もある。
 案の定、どうでもいいことであった。たかが縄を一つ隠し持っていたところで、なんだというのか。

 それはそれとして、銀狐は男を責めるだろう。
『はんっ、やはり退魔師か。その縄で師を御縄に掛ける機会を窺っていたんじゃろ。……それともあれか、お主は誰か迷い込んできた女がいたらその縄を渡す気じゃろ……この浮気者めがっ』

 ……まあ金狐も後者には完全に同意するが、前者については邪推だろうとは思う。単にこの男は、師に嫌われることを恐れていただけだろう。ただ銀狐に、失望されたくなかったのだ。

『……よっぽど怖かったんじゃのう。自らの母への愛が見せ掛けだったことを糾弾されて、その母が己を真実愛していたことを思い知らされて。もう捨てられたくなくて、そのときは言い出せなかった……ただそれだけのことじゃろ? よしよし……』

 今も昔も悲しき男の姿に、金狐は肩を持った。それはそれとして、こちらを見ようとはしない男に足蹴の仕草をする。この浮気者めっ。

 そんな隠し事など、穏やかに師弟の関係を育んでいればそのうちに男も軽く打ち明けて、笑い話の一つとして済んでいただろう。だが急速に距離を詰めてくる師に対応しきれず、この男は恐慌した。過去の些細な棘が大きなもののように見えて、疑心暗鬼となった。自らを石と化すほどに。

 しかし恋を恐れとするならば、この男は銀狐に恋をし続けていた。その恐れを自らさらけ出して、銀狐のために動くこの男の本性は、まさしく愛と言えるのではないだろうか?

『まあ……だが、肉体のの求めている愛とは少し違うかのう』

 その点においては金狐も銀狐を否定しきれず、腕を組んだ。残念だが恋とは理屈ではなく感情であった。いくら理を並べ上げても、銀狐が望んでいないことはすべて間違いなのである。

 今回の銀狐のお遊び改め、試練もそうであった。銀狐の歯を受け取らなかった時点で、男には著しく分が悪い。しかも銀狐が想定していた道とは、男は別の道を選んでいる。
 意識がない銀狐への正答は『受け取った歯で胎まで裂いて、金丹に触れようとする』か『受け取った歯で己の首を貫いて、自害を試みる』であった。それ以外は外れである。

 銀狐が仙人であることを理解していながら、負傷が原因と考えて出血を止めにいく……それはあまりに俗人的な思考であった。この男は不死という仙人の実りの端だけをありがたって、全体が見えていないのだ。

『まあ新たなる種を支える果実こそが木の集大成であり、生命の本質そのもの……と、それくらいのことは言い返してくるじゃろうな。この男なら』

 ちょっぴりムスっとした男の顔を想像し、金狐も自らの顎に手を当てた。確かに部分が全体を内包するというのも、また真理である。
 しかし問答としては正しいが、石の肉体を持つ銀狐にとってはそれは筋違いであった。残念ながら金狐も、この弟子の行動を認めるには値しない。

 そして試練に落ちればどうなるかといえば……決別であった。

『愛する男をこの手に掛ける……それすらも嫌がって我に任せるとは、恋だの愛だのを言い募る資格が肉体のにはあるのかのう?』

 石の中であぐらを組んで、金狐は首を傾げる。肉体がない金狐にはその是非は判断できない。だが肉体の指示とあれば、それに逆らうつもりはない。

 もともと金狐には、存在理由がないのだ。銀狐は石の身体を動かすために、仙術で己の魂魄を分離した。だが刹那思考の銀狐には、死んでまで生きようという気はない。
 肉体がなくなれば霊体の主体となるはずの、金狐も同様であった。新しい肉体を作り出して銀狐を呼び覚ますべく行動すべきだが、本来の石の身体を失ってまで生きる気はない。そのため、死んだらそのまま眠りに付くのが金狐の人生であった。

 その隣にはこの男がいるとばかり思っていたのだが……どうも人生は、そう思い通りには行かないものらしい。

『何か……ないかのう? 心眼で我を捉えるとか、気弾を我にぶつけて撃退するとか、我に翻意を促すべき動作は』

 流石に視界の範囲までには出られないが、金狐も男の上でぱたぱたと手と尾を振ってみる。風が起きるわけではないが、それにしたって愛する女が下ではなく、上にいるのだから気付いてくれたっていいだろう。

 だがそれでも男は、こちらに振り向いてくれない。肉体に夢中であった。その肉体の魂も、今は自分の内にあるというのに。
 金狐も銀狐の気持ちを、ほんの少し理解した。

『ふんっ……まあ、異類婚姻譚は片方が破滅するのが当然じゃからのう。夫婦になる前に終わるのも珍しくないわ』

 一方では美談と語られている逸話も、もう一方の種族から見れば割を食って重荷を持たされた苦労話である。異種族婚では、都合良く相手を隷属させて使役する無法が正当化される。そしてまともな倫理観でもって難色を示す者が、無粋な敵役にされてしまうのだ。馬鹿な話である。

 それを防ぐために、銀狐は近づくものすべてを排除した。だが結局は、男の愛を受け入れられていない。そして自分自身である、金狐にも苦言を呈されているという始末。なんというかまあ……ご愁傷様であった。

『……哀れ。哀れじゃのうキョウヤ、はぁ……』

 呆れて舌を出す気もなれず、金狐は肩を落とした。
 別に霊体には、手足を動かす必要があるわけではない。だが肉体と寸分変わらずに動かせるからには、肉体と同じように振舞うのが筋、と金狐は思っていた。その精度の高さは己自身の誇りであった。

 そしてその右手を、金狐は男に向ける。

『狙うのは右目じゃな。同時に魂魄を刈り取る……それで良いのか?』

 己の内に問いかけるが、反応はない。
 肉体と霊体で動く人格を完全に分けた以上、今の状態の金狐には銀狐は干渉できない。肉体が動いているときの金狐と同様に、夢から覚めるまでは意識もない。
 加えて肉体的な情動を最初から切り離している金狐には、迷いはない。……本当はないわけではないが、少なくとも自分と男を天秤に掛けたりはしない。選ぶのは常に己である。

『……くくっ、こやつの死さえも己の手から零れ落ちた肉体のが、その後にどうするか楽しみじゃのう。ここが我の終の棲家になるのか?』

 舌なめずりしつつ、金狐は男を見下ろした。金狐もまたこの男を愛している。しかし銀狐が男を捨てて、殺すことも出来ないというのなら自分が殺す。他の誰にも、それは譲れない。

 しかし男を抹殺すべく構える前に、金狐はその姿勢を解いた。男の動きに奇妙な変化が見られたからだ。

『……ん、なんじゃ? 何をしておる?』

 男は銀狐の陰部に頭を押し付けて、その唇からも離れた。そしてその状態で息を止めて、固まった。さきほどまでしていた、救命処置も何もかもをしていない。

 それを冷徹に見定めて、金狐は目を細くした。

『……とうとう諦めたか。せめてそれならば己の肉欲を発散すれば良いものを……中途半端な覚悟は己を殺すぞ?』

 鼻を鳴らして金狐は構えを取った。あるいはこの男が、銀狐の命を救うべく懸命に行動をし続けていれば、未来も少しは変わっていただろうに。
 そして金狐は、右手を男の頭めがけて振り下ろして

 そのまま右手と右目を貫かれた。

(クソが)

 石の中に縫い止められて、金狐は心の中に罵った。

 別に損傷はない。霊体の、そのほかの手足と尾は健在であった。この男を殺すならそれで十分過ぎる。
 だが金狐にはもう、男を殺すことはできなかった。

 ……それを為したのがこの男だったのなら、金狐は破顔一笑で褒め称えて己の負けを認めただろう。だがそうではなかった。
 それは尾だった。
 銀狐自身の尾が金狐の霊体を貫き、もう一方の尾は守るように男の頭を包んでいた。

 魂なき、肉体が動いた。

(この愚か者め)

 己の肉体が、己自身の霊体を傷付けることはできない。逆も然りであり、金狐には何も不都合はない。
 だが急速に覚醒していく肉体に取り込まれながら、せめてもの反抗心で金狐は己の記憶の一部を封じた。己自身と、この愛する男の覚悟をも貶める浅ましい結果には、とうてい我慢がならない。
 己自身を見下げ果てて、金狐は最後にうめいた。

(遊びたいのなら一人で遊び続けているがいい。この男に己の師を殺す重荷を背負わせて、奈落に突き落としながら……)


 殺気を感じ取って、男は動きを止めた。
 真上に何かがいる。

(……石の中に? 肉体をなくした空け者……幽霊か?)

 男の拙い心眼では、その実態を把握できない。己の焦りが生み出した幻影だと思うのは容易い。だが男は自分の直感を信じて、行動を取った。
 なるべく師に大きく覆い被さるようにして、息を止めて待つ。

(霊ならば俺を狙え……石を身体に封じて生きて来た俺の内に、お前も封じ込めてやる)

 石のように生きてみたところで、自分では師には及ばない。
 だがそれでも師のために生きることはできる。
 師を守る壁として、命を張るならば今しかない。

(師を、アサギを……傷付けさせたりなどさせるものか!)

 男の胸の内の、小さな火が燃え上がった。それは怒りの火であった。

 これまで受身で物事に接してきた男に、誰かを打ち倒してまで大切なものを守るという決意が備わった。今はほんのささやかなそれは、適切に薪をくべていけばより大きく成長していくだろう。

 しかしそうなる前に、男は己の無力を悟った。初手ならば確実に防ぎきってみせると覚悟した。だが頭を引き倒されて体勢も崩れて、男の耳には轟音が響く。もう男には二手目も回って来ない。

(もっと、力を……力があれば……!)

 己の弱さに男は舌を噛んだ。これを噛み切ったところで男は死にはしないだろう。その後の生を考えるなら、そんなことをしている場合でもない。
 だが銀狐にはもう、次などないのだ。

(すまぬ……最後まで役にも立たぬ弟子で、アサギ……)

 せめてもの師への謝罪で、男は己の舌を噛み切ろうとした。だがいくらしようが痛みもなく、血も出てこない。そんなこともできないほど、己は弱かったというのだろうか。

(…………?)

 不意に首元に、ぴょこぴょこと動く感触を受けて男は目を開いた。横目で見れば、銀狐の狐耳が男の首筋を擦っていた。
 頭を押し付けているものも、よくよく確認すれば異形のものでもなんでもなく、銀狐の尾であった。
 そして男が自分の舌だと思っていたそれも、正体は銀狐の舌であった。男の舌を絡め取って蠢いている。

「……っ!?」

 男は慌ててそれから離れて首を引っ込めるが、その途中で銀狐の手に捕まった。互いの額と額がぶつかって、こんっと音を立てる。
 その温かさに、男は思わず涙を流した。

「良かった……よくぞこうしてまた、アサギ……」

 男は涙を見せれば笑われる。それに血を大量に失っている銀狐を、煩わせるような真似をしてはいけない。それでも男は己を抑えきれず、大粒の涙を流した。

 そんな小さくとても弱い男の耳元に、銀狐はこう囁いた。

「今日からは主が、わらわの主様だコン♪」

 …………

「……こん?」

 それだけしか呟けず……男は他に言い様がなかった。そしてそのまま男は耳に、銀狐の血生臭い気息を吐き掛けられたのであった。




   <<<状態>>>

 ・銀狐
 両脚封印→あと三年ほどで解放可能
 両脚に枷あり→首に縄あり
 上半身は制限なく動作可能
 稼動部位→尻から上
 封呪→気温や水量も操作可能

 男との関係→愛憎相半
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