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米田雫

米田雫の告解 6

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「本当に、突然のことで――」

 社葬は大々的に行われた。私は喪服を着てその列に並ぶ。気分が悪かった。人の多さも――死の匂いも。
 啓介さんは朝食を食べた後のランニング中に亡くなった。急性の――何かだったと聞いている。不審な点はなく、警察も事件性はないと判断した。
 彼には休んでいていい、と言われたが私はそれを固辞した。私は父と母の葬儀に参列出来なかった。当然見送りたかった、しかし身体がそれを許してくれなかったのだ。また同じ轍を踏みたくはない。私は親しい人間を見送りたい。それが私の務めだからだ。

「大丈夫ですか?」
「――はい」

 忙しい中、廉太郎さんが私の様子を見に来てくれた。知っている顔に出逢い少し気分が軽くなる。

「そちらの方は――」
「ああ、僕の心配はいいです。あの、親族控室で休んでいて下さい」
「――でも、私はまだ」

 正式に籍は入れていない。まだ婚約者の身分だ。

「それに、外の方が良いです。中は――気が詰まります」

 死に触れた空気。死を悼む空気。そして――私に対する何かしらの邪な感情――。

「……気分が悪くなったら何処でもいいですから休んで下さい。それじゃあ、また」

 私は何も気兼ねなく、ただの一個人として叔父を見送りたかった。でも彼の家族や会社の人間に囲まれてそれが出来るとも思えなかった。『そういう目で見られること』に私はまだ耐えられない。欲に濁った瞳に囲まれて。

「次の社長は、誰かな」

 私のその想いを踏みつぶすかのような話題が参列者から漏れた。

「まあ、順当にいけば長男の巌さんじゃねえの?」
「弟もありじゃないか? ほら、何か嫁さんが先代のだっていう」
「ああ、そういうの結構大事だからな。能力で決めるっていう風潮もあるが、同じような能力だった場合、決め手はそういう『血筋』だったりするからな」

 胸が――痛む。

「結局日本人は血筋が好きだからなー。ほら、勇者の家系~とか優秀な一族の~とか漫画やドラマでもよくある話だし」
「違いない。本人に大した力なんてねーのに、それでJrがもてはやされるのは勘弁して欲しいよな」

 息が、苦しい。

「俺の弟を侮辱するのはその辺りにしておけ。ただでさえ、その先代の嫁がここにいるのに」

 咎める様な声に急に辺りが静かになる。この声は――。

「……巌さん」
「ああ、雫さんこれはどうも」
「……この度は」

 声が出ない。緊張からか喉が掠れる。

「顔色が悪い。あちらへ行きましょう」
「あ――」

 私は彼に手を引かれるまま連れて行かれる。しかし、それに抗う力は私の中に残っていなかった。私は奥の駐車場の黒いベンツの助手席に座らせられた。彼は運転席に身体を滑り込ませる。

「この中なら大丈夫ですから。親父が出てくるまでまだ時間があります。時間が来たら呼びますから」
「あ、ありがとうございます」

 まだ心臓が早鐘を打っている。まだ彼に力強く握られていた手が少し痛い。彼は出て行くでもなく、まだ運転席で虚空を睨んでいる。そしてふと口を開くと――。

「無理はしないほうがいい」
「え?」

 一瞬それは私の体調を心配しての発言かと思ったが、次の言葉でそれは打ち消された。

「弟との計画書は読みました。だが――正直認め辛い」
「そ、それは――」
「ああ、こういう時にする話ではないかもしれませんね。それでも、まあ親父がああなってしまったからじゃありませんが、次の社長は俺か、あいつでしょう。ただでさえ新規分野の事業になる。しかも採算があまり見込めない。これを押し通すなら、俺は無理にでも社長になって止めざるを得ない」
「――巌さん」
「まあ、貴方が正当に受け継いだものをどう扱おうが最終的に口出しは出来ません。それでもそうするというなら、やはり廉太郎と貴方は出て行くしかないでしょうね」
「……構いません」

 覚悟はしていたことだ。彼と――廉太郎さんと一緒になろうと決めた時から。

「……まあ、というのは建前です」

 急に優しい口調で彼はそう言った。

「会社としては支援出来ないという役員もいるでしょうが、僕は二人を支持したい」
「……それは、ありがとうございます」
「いや親父亡き今、これからは兄弟で協力していかねばなりませんから。その代わり――」

 私は不意に右手を掴まれた。

「――!」
「貴方は、会社に必要な人になる」
「……は、はい。でもそれは――」
「株式を渡せば済む。経営を任せれば済む、という話でもないんですよ、もう」

 彼の鋭い双眸が私を穿つ。
「あいつには、廉太郎には最低でも副社長のポストには就いて貰わないと困る。その時はあいつを傍で支える、社交界の人間が必要だ。それにね、元々会社には貴方のお父様の派閥が多いんです。彼らを纏めるのに今回の結婚は好機だ。貴方だって気付いているでしょう? 貴方を擁して利用しようとしている人たちが多くいることに」

「……あ」
「貴方が廉太郎と結婚する、ということはそういうことです。多かれ少なかれ、自由には出来ない。貴方がどんな絵面を画策しようとも、どうにもならない」
「……はい」

 分かっていた――つもりだった。つもり、だったのだ。だけど、彼との夢が居心地が良すぎて、私は――。

「まあ、自覚してくれればこちらは構いません。貴方は貴方の役割を、きっちりと果たすべきだ。社会に出るなら、お父様の後をしっかり継いで、弟を盛り立ててやって下さい」

 彼は私に頭を深々と下げた。私は――どう返事をしたらいいのか分からなかった。

 実際に、彼の――巌さんの言う通りに事態は推移した。その点において、私はやはり、不明だったと言わざるを得ない。
 いや、目を瞑っていたのだ、その可能性に。きっと廉太郎さんが何とかしてくれると、最も矢面に立たねばならない彼に負担を押し付けてしまったのだと、遅まきながら認めざるを得なかった。会社は啓介さんの代になって順調に大きくなっていた。いや、大きくなりすぎていたのだ。
 その分私の持つ株式の意味合いも、価値も当時と全く変わってしまっていた。それはもう、会社の人たちにとって私は無視出来ようはずもなかったのだ。そして私の持つ素養――いや、私自身は決して素養があるなどと思ったことはないが、私は『そこにいるだけで』価値がある花のような人間、らしい。
 私は自分の瞳のあたりに手を翳す。
 若く――聡明で――美しく特異な容姿を持つ深窓の令嬢。それが会社内での私の評価だと巌さんから聞かされた。
 啓介さんが生きていたうちは良かった。彼の元で、私と言う庇護すべき人物を遺した先代の会社を盛り立てる。そのうえで団結出来ていた。しかし、私が表に――社会に出ることは意味が違った。そう、それは私を縛り付ける以外の選択肢を持たなかったのだ。
 葬儀の後会社は荒れた。
 表面上は何も起きてはいない。しかし、水面下の駆け引きはずっと続いていた。私を娶る廉太郎さんに近づく者は後を絶たず、啓介さんに恩義のある派閥は兄である巌さんを盛り立て、二人が望む望まないに関わらず確執は強まっていく。
 一応会社自体は直ぐに巌さんが継ぐことになった。それでも、これだ。いつでも社長を狙えると廉太郎さんを焚き付ける者は後を絶たなかった。

「辞めようにも――もう無理だね」

 久し振りに近所のレストランで食事をした彼はため息交じりにそう答えた。

「会社を辞めて子会社に移る――なんて今やったら兄貴が追い出したなんて後ろ指さされるのが落ちだからね。もう少し落ち着いてからじゃないと。ああ、心配しないで? 君の事業の方はちゃんと進めているから、でも……」
「……大丈夫です。それより、ご自分の身体の方を心配して下さい」

 あまり寝ていないのは顔の隈を見ればわかる。あの頑健な身体を誇っていた彼にも疲れの色が隠せない。

「大丈夫だよ。これぐらい大学の卒論でも3日ぐらい寝なかったし」
「何が切っ掛けで疲れが噴き出すのか分からないでしょう? 症状が出てからでは遅いのですから」
「……そうだね。もうすぐ結婚式も近いし」
「……はい」

 そう、私の結婚式はもう来月に控えていた。ただし――問題は山積みだった。

「披露宴は――帝王ホテルになりそうだ」

 苦しそうに彼はそう言った。

「……仕方ありません」

 この時期になって、会場の変更を促す動きが活発になっていた。元々の予定は動かせないと思っていたのだが人が動けばどうにかなることもあるらしい。裏で沢山の人が動き、私の披露宴は盛大に行われることになった。
「……すまない、本当はもっと――」
「良いんです、長野の方は残念でしたけど」

 本当はあの山奥の素敵な場所で愛を誓い合いたいと思った。でももうそれはもう叶うまい。そう――諦めかけていたのだが。

「ああ、それはキャンセルしていないから」
「え?」

 悪戯っぽい笑みを彼は浮かべる。

「ほら、日程はこうなってて……」

 彼はスマホのカレンダーを示す。

「元々の予約はそのまま、披露宴前に式だけ、二人で挙げてしまおう」
「……廉太郎さん」
「だから、そんな顔しないで、ね?」

 彼はやはり、私のことだけを考えてくれていた。少し前まで凍てつきかけていた私の心はその言葉だけで溶けていく。

「私はまだ――貴方に何もしてあげられてないのに」

 言ってからハッとした。彼が私をまじまじと見つめているのがわかる。

「それは、まあ、気にしてないと言えば気にしてるんですけど」

 私が固まっているのを見て彼はお道化たようにそう言う。

「楽しみは後に取っておくほうが良いでしょう? 僕は昔から好きなものは最後に食べる派なので」
「……ふふ、そうですね」

 心の中で彼の気遣いに感謝する。
 そう、まだ彼は私と肉体的な繋がりはない。私の信仰の関係――いや、私がまだ、それを恐れているから――。だからこそ、申し訳ないと思う気持ちはやはりある。私は彼に、本当は何も与えていないのではないか。ただ、彼から奪っているだけなのではないか、と。彼がそれを不満に思っているのではないかと。その想いがあるかもしれないということも、そんなことを考えてしまう己を、今最も恐れているのだ。
 恐れは悪魔を呼ぶ。きっと彼らはそれに付け込んでくる。そういう、ものなのだ。
 だから――せめて。

「私は必ず貴方のものになりますから。ですから、これを」

 私は彼に提案する。彼は少し戸惑った後、それを受け取ってくれた。
 緑色の紙。契約の証。私と彼の未来を紡ぐために必要な物を。

「……何があっても」
「え?」
「何があっても、君だけは守るから」
「……はい」

 彼は私の手を取る。
 こうして私は一足先に、誰にも知らせず、米田雫となったのだ。






 もうすぐバスが出る。
 夜の新宿のバスタの待合室のベンチに座り、私は彼を待っていた。
 しかし、出発の予定時刻が近づいても彼はまだ来ない。

『仕事で遅れます。でも、出発には間に合わせます』

 その連絡は受け取っている。しかし、彼はまだ来ない。
 もうすぐ――明日には式をあの山奥のチャペルで挙げる。そうすれば私は彼に全てを捧げ、報いることが出来るだろう。
 もうすぐと、もうすぐ。二つ近づいたそれは私の心を浮き足だたせる。
 見えない未来。届かない過去。私の前と後ろにはいつも黒い靄が掛かっている。それでも、きっと照らす光はあるのだと、あの人は信じさせてくれた。だから私は――。

「あ――」

 彼からのメールが来た。急いで文章を確認すると……。

『車で追いかけますから、先に行ってて下さい』

 少しの失望を抱え、私はバスに乗る。きっと、彼は来てくれるという希望を胸に。
 席について暫くして私は微睡む。
 もう大丈夫。辛いことも、悲しいことも、きっと大丈夫。
 目覚めたら彼は来てくれる。そこに居てくれる。だから――。



 
 私は教会で彼を待つ。純白のドレスに身を包み、ただ一人、彼を待つ。
 不安はなかった。きっと来ると信じていたから。
 絶望は忘れた。だって希望が今から来るから。
 私はもう籠の鳥じゃない。『米田』雫なのだ。彼と一緒に、半分の力を貰って旅立つのだ。だから――。

 バタン。

 後ろで開かれる木の大きな扉。射し込まれる太陽の煌き。きっと、彼が来たのだ。
 さあ、彼を迎えよう。笑顔で、私の――。

「雫さん」
「え?」

 そこには彼はいなかった。よく似た体躯、よく似た声、でも彼じゃない。

「――巌、さん?」

 息を切らせて、玉の汗を掻いてそこに彼は立っている。

「……何でしょうか? あの、廉太郎さんは……」
「途中まで、一緒だったんだ」
「……」

 木々のざわめきが、そのまま私の心の不安と共に大きく膨れ上がっていく。

「あいつと食事を取って、車で送ろうと……それで、その途中であいつの具合が悪くなって、高速じゃ何もできないから救急車を呼んで――」

 何も――聞こえない。

「――呼吸が止まっていて――」

 何も――聞きたくない。

「――死んだ――」

 やめて。

「廉太郎は死んだ」
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