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米田雫

米田雫の告解 7

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     ※

「彼は突然に亡くなりました。私を遺して」

 そう言って、彼女は一旦口を閉ざした。彼女の告白に――僕は何も言えずにいた。
 結婚していただけでなく、その夫の亡くしている。つまり、未亡人というわけだ。その衝撃は長い語りが終わった後でも残っている。
 米田雫さんは既婚者だった。
 その事実にどう向き合えばいいのか分からない。
 しかし、語りを聞いて腑に落ちることはいくつもあった。今日のデートのことに関してもそうだ。だから彼女はデートの間ずっと『左手』を気にしていたのだ。
正確にいうなら左手薬指だ。そこには指輪があるはずの場所で、彼女はそこを事あるごとに触り、心を落ち着けていたに違いない。
 階段で足を滑らせた後僕の手を取る時も、わざわざ右手を差し出し直した。彼女は避けたのだ、左手を――夫との絆のあるはずの手で握るのを。
 ただ、彼女は夫に対する『罪悪感』で自分を責めたのだ。だからこそ自分が悪いと言い張ったのだろう。
 彼女にとっては夫が亡くなった後もこれは――浮気なのだ。

「――まだ、愛していらっしゃるのですね」

 漸くそれだけを口にする。

「……ええ」
「あの……ということはライスシャワーで見たあの男は」
「あれは、兄の巌さんです」

 おそらくそうだろうとあたりはついていたが、なるほど、確かに偉丈夫だ。僕がかかっていってもものの数秒で捻られそうだ。

「……誰も、私を責めませんでした」
「……雫、さん?」
「誰も――、彼を失ったあとに、誰も、です」
「でも、それは貴方のせいじゃ――」
「過労やストレスからの――アナフェラキシー症状。それによる呼吸困難――そう、会社のお医者様に聞かされました」

 彼女の声が震えている。

「私が、殺したのです」
「雫さん!」

 そんなことが――あるわけない!

「どうして貴方が殺したなんて、そんな馬鹿な事……」
「……彼は疲れていました。私のことも、会社のことも、事業のことも。全部――全部私の為に背負って――亡くなったのです。だから――過労死だと聞かされた時に私はそう思いました。私のせいだと」
「それを――信じたのですか?」
「信じる以外――どうしろというのですか?」

 彼女の声は思いのほか――いや、怖いぐらいに落ち着いていた。まるですべてを諦めたように。

「彼との事業も畳みました。私に出来ることなどない。私は自分が卑小で卑屈な汚い人間だと気づきました。身の回りで、自分の手の届く範囲――それ以上を望むような人間ではないと。だから私はここで喫茶店を開き、細々と経営を続けているのです」

 ――でも、そう彼女は言葉を区切る。

「私が他人の悩みを聞くことも、助言することも、ただの自己満足なのではないか? と思うのです。ただ彼への贖罪の為に、ほかの人を救った気になって、自分の傷を癒し――」
「そんなことありません!」
「……礼人さん」
「違う! 絶対に違います!」
「貴方は僕を救ってくれた恩人です! 目を覚まさせてくれた大事な人です! 決して、殺人者なんかじゃない!」

 ――何も、何も考えてなどいなかった。気が付けば一気に僕はまくし立てていた。

「――救われます。貴方は、私を信じて下さるのですね」
「――はい。当然です」

 たとえ貴方の正体が悪魔であっても、僕はついていくだろう。

「私は――罪を重ねています」
「え?」
「この場において、此処までして、私は今、神に背いたのです。そんな女を信用してはいけません。ですから、この話を聞き終えたあとは、私の元を去る方がいいのです」

 神に背いたと言い、はっきりと彼女は僕に拒絶の意を伝える。僕にはそれが何を指しているのかわからない。

「彼は……巌さんは私に株を譲渡するようにとお願いに来ています」
「え? 会社の……ですか?」
「はい。M&A……と言うのでしょうか。それを仕掛けられていて私の父の会社が乗っ取られるから助けて欲しい、というお話でした」

 彼女の僕を助けた五百万の原資がどこにあったのかが分かった。会社の株式――夫の遺産、それだけの財があれば、確かに用意に困りはしなかっただろう。

「譲ろうかと、考えております。そしてここも閉めようかと」
「雫……さん」

 それで――貴方はそれで本当に満足なのですか?

「さあ、私に関わるのはもうお辞め下さい。そして、忘れてしまうことをお勧めします」

 何故だろう。冷たくされているのに、どこかそうではないという想いが拭えない。僕の思い違いなのか、単なる願望なのか――。

「――今日は、帰ります」

 今日は――その言葉が僕の精一杯の気持ちだった。
 彼女を残し僕は小部屋を出る。彼女は未だ、罪びとの席から出てこない。僕は鉛を飲み込んだように重い足を引きずるように一人、懺悔室を出ていった。



「――はぁ……」

 思わず深いため息が零れ、駅前の喧騒に打ち消されるように消えていく。
 それは雫さんに対して失望したとか、そういうことではない。
 元々彼女がすんなりと僕のものになるなどと都合の良い考えはしたことがなかった。夫と呼べる男性がいたことに対する嫉妬心も落胆も特にない。ただ想像したのだ、彼女の人生を。その境遇を。そして――そんな同情を彼女が求めていないこと、それを持ってしまった自分自身への羞恥。
 様々なものがないまぜになり、それが口から零れ落ちていった。
 仕事柄様々な女性と僕は接してきた。そのどのタイプも根幹は一緒だ。
 寂しいのだ。
 何処かしら満たされない思いを僕らを使って穴埋めする。その手伝いを僕らはするに過ぎない。何も言わず、必要無くなれば連絡も無く彼女たちは消えていく。でも、それで良いのだ。僕らは仮初の相手であり、本物じゃない。本物を彼女たちが見つけ、真実と向き合ってくれればそれでいい。
 そして僕は今、米田雫さんに『必要ない』と言われたのだ。それで彼女が真実と向かい合ってくれているならそれでいい。僕はそれを祝福する。でも――そう、本当にそうなのか僕にはわからない。いや、分かろうとしても彼女は教えてはくれないだろう。僕にはもう関係のない物語であり、だからこそ彼女は退場を促したとも言える。だからこその、ため息なのだ。僕はまだ退場したくなかった。それは彼女に対する想いが断ち切れてないことも含め、彼女の言葉がどうしても引っかかっていたからだ。

――私は罪を重ねている。

 あれが何を指しているのかがずっと気に掛かっていた。

 ――この場において――神に背く。

 そう、罪を犯したのはあそこで――懺悔室でということになる。
 僕はそれに気づいていない。ならば黙っていれば良かったはずだ。それでも彼女は敢えて僕にそれを告白した。罪悪感か、誠実さが勝ったということか? いや――。

「――あ」

 遅まきながら僕はその可能性に気が付いた。

 嘘をついたのだ。

 神を前に。誓いを立てたのに。それを破ったのだ。

 ――どうしてだ?

 可能性に気付いた時にはもう先ほどの落胆はなかった。すべての思考を彼女に塗りつぶしていく。
 敢えて言ったのは――もしかして本当は。
 僕は駆け出していた。もう一度、ライスシャワーへ。




 暗い森を抜け、目の前に白い建物が現れる――はずだった。それは別の色を見せ僕を迎えたのだ。真っ赤な――業火を伴って。

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