津軽藩以前

かんから

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堀越騒動 元亀二年(1571)春

死に賜う 12-1

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 元亀二年、五月五日。去年のこの日に石川高信は亡くなった。当時としては七十を超す大往生である。 
彼がいなくなってから、南部家は様変わりした。当主の晴政公は信直を殺そうとし、逆に殺されかける。その後で九戸兄弟が三戸を制し、病床の晴政を傀儡とする。

 
 当日は、快晴だった。雲一つなく、風もない。植えたばかりの稲が、背筋を伸ばして水辺に立っている。草むらは、甘い蜜の香りがする。

 一方で……堀越の別荘からは、線香の匂いが漂う。……そこは高信公が隠居場にと建てた。将来的には津軽の中心として、石川家が本拠を置くことになるかもしれない。

 ここで今、一周忌の法要が執り行われる。喪主石川政信を筆頭に、大光寺光愛、千徳政氏、大浦為信……以下津軽の名士らが集う。

 朝より経が絶え間なく流れた。頭の中では在りし日のことを考えているのか、いや脳裏の先には為信か。はたして、為信の言葉は本当なのか。兄信直の一筆と養女を差し出すことにより落着を見たが、いまだ疑わしく思う者もいる。

 ……昼にさしかかり、日は高く昇る。ここで所用があるとして、千徳ら数名が帰り支度を始めた。大光寺は彼らに問う。顔はいたって普通だ。

 「食事をともにできぬのは、残念至極。いかような訳でございますかな。」

 千徳は答える。

 「いやはや、田植え後の祝い事でございます。毎年この日でして、領主としては絶対に欠かせませぬ。」

 領地経営の基本は米。米を疎かにするものは苦しみを得る。特に千徳の治める領地は、津軽有数の穀倉地帯。重要視して当然だ。
 千徳らは東へと去っていく。

 ……残った者は、堀越の別荘にて昼餉に入る。法要であるから、魚や肉は出ない。ただし酒は出る。宴会になることは予想ができ、津軽衆の結束を高める良い折であった。

 広間の上座には政信一人が、先頭左側は大光寺、右側に為信が座す。
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