津軽藩以前

かんから

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大千同盟 元亀二年(1571)晩夏

二子殺し 16-4

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 翌日……八木橋の右頬は赤くはれている。彼は朝餉の前に参上し、為信に腹案を伝えにきた。既に膳は前にある。“後じゃだめか” と訊くが、八木橋は今がいいという。

 「なるべく、森岡殿のいない時がいいのです。」

 なるほど。また叩かれるのが嫌なのだ。八木橋は話し出す。

 「鼎丸様には、大浦家を継いでいただきます。」

  森岡に屈したのか。

 「いえ、違います。殿は石川城に入っていただき、新たに “津軽郡代” を名乗るのです。」


 “津軽郡代”

 かつて南部の代官が津軽を治めるにあたり名乗った役職だ。最初は津村氏、後に石川高信、次子の政信が名乗る。

 
「殿は津軽郡代として別の家を興す。大浦家は津軽郡代に忠義を尽くす。これならいかがです。」

 
 ……八木橋は、すごいことを考えている。郡代の名乗りは信直公に許しを得るべきところだが、話としては悪くない。

 別の家を興すのならば……津軽郡代大浦為信。いや、違う。津軽を治めるのだ。


 
    “津軽為信” であるべきだ。


 
 この案は詳しく詰められ、広間での評議へ移る。為信という大人物が先頭に立つことは変わらず、鼎丸の大浦家当主としての地位も保たれる。多くの者が賛同した。

 ただ一人、森岡のみ反対する。

 “実際は殿が力を持ったまま。鼎丸様は置き人形。だまされませんぞ”

 森岡は唾を吐き、広間から立ち去った。

 

 “為信も、俗物だな”

 彼の心は、為信より離れた。
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