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1.春を呼ぶ女

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学園のどこからか聞こえてくる美しいバイオリンの音色に耳をすませて、わたしはよく磨かれた床を泳ぐようにすいすい歩いた。大きな窓から陽の光がやわらかく入ると、なんだか今日は格段といい一日になる気がしてくる。

「おはようございます」
「ユフィ様、本日もご機嫌麗しゅう」

並ぶ下級生たちにうっとりと言わんばかりの羨望の眼差しで見つめられて、ユフィはさすがに居心地が悪かった。早足で陽だまりがさす廊下を進むと、メインホールがいつも通りざわざわと賑わっている。わたしがそこへ辿り着くとほんのり注目を浴びた。

「ユフィ、あなたの仕事よ」

背筋がきれいな女性がわたしへそう声をかけた。彼女はロイゼ王女殿下。同い歳で、わたしの友達である。

わたしが返事をせず微笑んで誤魔化そうとしたのを見て、ロイゼは切れ長の目を吊り上げた。手つきだけは優しく手首を取られて、わたしが泳ぐような足取りで進んで来た廊下を、かつかつと凄い勢いで戻ってゆく。

「ロイゼ殿下、」
「あなたね、まだ護衛騎士を決めていないの?」
「ふふ、うん。そうなの」
「ふふじゃないのよ」

ロイゼの小言を聞き流しながら、いつか国王陛下に言われた言葉をぼんやりと思い出した。

つい100年ほど前から、この国だけじゃなく、隣国も、その向こう側の国も、皆一様に春が来なくなった。何らかの理由で神の怒りに触れ、四季が上手く回らなくなり、小さな国から次々に萎えていったのだ。

あまりに恐ろしい出来事に人々は震えた。
そんな折に、各地で体に花のかたちをしたあざが出た女達がいた。最初にその法則性に気付いた人が賢明だったおかげで、その女が特殊なちからを使えば春を呼べることが分かったのだ。

各地で花の女たちは聖女だと祭り上げられたけれど、春を呼ぶという行為は身体に物凄い負担をかけるようで、充分な休息もとらず次々と祈りを捧げた女たちはどの国でも見る間に死んでいった。

そういう状況なので、聖花と呼ばれる女は、ある意味非常に厄介な存在なのだ。

「そんな女の護衛をしてくれなんて、簡単に言えないわ」
「じゃあわたしが決めるわ」
「え~…」
「ユフィ…………あなたね……」
「ごめんなさいロイゼ。嘘よ。そこまで言うからには会わせたい方でもいるのね」

王女殿下は物凄くうんざりした様子でお説教を始めようとしていたけれど、珍しくわたしが素直に頷いたのを見ると、すうと目を細めた。







そう言ったその日のうちに騎士団の訓練場に連れてこられるなんて思ってもいなかった。学校終わりに直々にわたしを迎えに来た王女殿下は、今慌てふためく騎士団の騎士たちへ「構わなくていいのよ」と告げている。いいわけない。

「今日手合わせがあるというから来たの。わたしの側近も参加させるから、試合を見せてちょうだい」

ロイゼのひと言ですぐに始まった手合わせを何試合か観て、彼女はわたしを突然振り返った。

「ユフィ、どうかしら」
「どうって?皆さん素晴らしい腕ね」
「当たり前でしょう。うちの国の騎士団なんだから。…そうじゃなくて」

ロイゼ王女殿下、と誰かが話に割って入った。お話中に申し訳ございません、と前置いて、少しよろしいでしょうかと側近が声を潜める。

ロイゼが頷いて椅子を立とうとしたので、手で制して私が立ち上がった。

「ふらふらしてくる」
「敷地内から出たら駄目よ」
「ふふ わかってる」

小さい頃からの友人なので、わたしがいまいちしっかりしていない分、彼女が心配性になってしまった。







大きな木があったので、日影に入ってふうと息をついた。見に来たのはいいものの、やっぱりいつ死ぬかわからない厄介な女を護ってくれなんて言えない。

これは公式発表されていないけれど、ちからを使い切った聖花は枯れて死ぬ。そんな亡骸を前にしたら、誰だって。

「そこのお前」

はっとして振り返ると、目を血走らせた男が肩で息をしていた。怒っているのか、握りしめた拳がふるえている。

「花だろ、お前」

咄嗟に否定できなかった。わたしの花のあざは見えないところに出ているけれど、花の香りで大体はバレてしまう。

「祈りが間に合わなかったせいで俺の故郷は土地が涸れてほとんど全員死んだ。最後は伝染病で、きれいな水も手に入らず、酷い死に方だった。」
「 ……… 」
「お前が綺麗な服を着て優雅に王女殿下とお茶でもしている間にだ!この魔女が!そもそも、お前が土地を呪ったんだろう!」

男が拳を振り上げる。避けられなかった。それで償いになんてならないと分かっていたけれど、彼の心の傷だけは痛いほど分かってしまったからだった。

ぱし、と軽い音がして、肩が後ろに引き寄せられた。

「 ………ギル、ベルト、…さん」
「所属を言え。どこの隊だ」
「 ちが、おれはっ ……そこの魔女を!」

掴んだままだった男の腕をひねりあげて、よろけた彼の頬が殴られた。骨と骨がぶつかる音がして、彼の体が後ろへ吹っ飛んでいく。

「アレク、回収して団長に突き出しておいてくれ」
「っ、待って」
「 …大丈夫だ。あんたが思ってるほど手酷いことにはならない」

お仕置きは今ので6割くらい済んだ、と言われながらぽんぽんと頭を撫でられて、ばくばくと鳴り止まなかった、心臓がゆっくり落ち着いていく。

ほっとしたら膝の力が抜けて、かくんと前のめりになった。

「、おい」
「ご、ごめんなさい。力が入らなくて」

がしっと肩を支えられて、柔らかい草の上に支えられながらゆっくり腰を下ろした。落ち着いたら医務室に連れて行くと言われたので曖昧に頷くと、ギルベルトと呼ばれた男性はわたしの目の前に膝を付いた。
さっきのは、

「俺達と同じように国を護っている女性に対して、取り返しがつかないくらい酷い言葉だった。あいつと同じ騎士として謝罪させて欲しい。」

真っ直ぐこちらを見つめる瞳に嘘が無さすぎて、かえって戸惑った。わたしはふるふると首を横に振る。

「彼が言うことは分かるから、いらないわ」
「 …… 」
「助けられなかったことは紛れもない事実だし、…きっと、わたしがあの人の立場だってそう思う。誰だって、」
「俺はそうは思わない」

静かな口調だったけれど、強い声だった。思わず口を噤んだわたしへ、彼が続ける。

「あいつの言葉をその通りだと思うなら、それは否定しないけどな。…だからって傷付けられていい訳がない」
「守ってもらえたわ」
「体はな。…心を傷付けて、本当に申し訳なかった」

「ユフィ!!」

王女殿下とその側近達が顔色を変えて駆け寄って来ていた。わたしは目の前をすっと離れた騎士から言われた言葉を、ゆっくりと胸に置いた。







「ユフィ、出発の日は決まっているのよ」

今日も今日とてロイゼ王女殿下に膝詰めで説教をされているわたしは、何度目か分からない「わかってる」を繰り出した。

女学院の生徒たちはわたしたちを遠目に頬を染めているけれど、穏やかな時間が流れる中庭で説教をされているなんて誰も思わないだろう。

「ギルベルトがいいんでしょう」
「 ……そんなんじゃないわ。その言い方、やめて」
「あれから何人紹介しても首を縦に振らないじゃない」
「それは、」

「殿下、ユフィ様。おふたりに客人です」

ロイゼの側近が音もなく突然現れて、わたしたちは顔を見合せた。ロイゼにならともかく、わたしもセットで呼んでいる客人って、誰だろう。

学園の応接間に通されると、この前とは違ってきっちり正装をさせられたギルベルトが立って待っていた。驚きで言葉を失うわたしを逃がすまいと、ロイゼに手首を掴まれる。彼はロイゼのもうひとりの側近と談笑していたらしく、室内の雰囲気は和やかだ。

「ご機嫌麗しく、王女殿下。ユフィ様」
「ギルベルト!よく来たわ」

この前より大分雰囲気がやわらかく感じるのは、怒った後とそうじゃない時の違いだろうか。余計なことを考えている間に、ロイゼへの挨拶を済ませた彼が目の前に来ていた。

「ユフィ様、護衛の騎士に俺を選んでくれませんか」
「ど、どうして……?」
「話を知ったのは国王陛下からですが、」

言葉を切ったギルベルトが、大きな窓へ目を向けた。この前と変わらずやわらかい陽ざしが入ってきている。窓の向こうでは新緑が風に揺れていた。

「あなたの呼ぶ春を、見たいと思ったからです」


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