完璧御曹司の結婚命令

栢野すばる

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1巻

1-2

 無意識にこぶしを握りながら、それでも里沙はニコニコと空虚な笑みを浮かべる。
 自分には関係ない。光太郎がどんなお嬢様と結ばれても、祝福するのみだ。
 ――落ち込むから、考えちゃだめ。
 懸命に笑みを作る里沙に、光太郎が真剣な顔で言う。

「土曜出勤になってしまって申し訳ないな。パーティが終わったあとも、里沙にはいろいろ、頼む……と思うけど、いいか?」

 今、不自然に言葉が切れたのは気のせいだろうか……
 パーティが終わったあとに一体何を頼まれるのだろう。不思議に思いつつも、里沙は頷いた。

「残業ですか? はい、かしこまりました。なんでもお任せください」

 後片付けやお礼状送付なら得意分野だ。胸を張る里沙に、光太郎がようやくいつもの明るい笑みを見せてくれる。

「里沙が驚くようなことを頼むかもしれないけど」

 初夏の光に光太郎の色の薄い目が透けて、色硝子ガラスのようにキラキラと輝く。綺麗な目だなと見とれながらも、里沙は頷いた。

「はい、どんなお仕事でもお任せください。光太郎様はどうかご心配なく」

 里沙は、周囲の人から何度もやんわりと『光太郎様と必要以上に仲良くしてはいけない』と釘を刺されてきた。
 使用人の娘は分をわきまえ、いつか迎えられる奥様を不快にしないよう、光太郎様から距離を置きなさい……と。
 もちろんその言いつけは厳守している。だから今の里沙は、光太郎にどんなに優しくされても社交辞令として受け取り、従順な『他人』として振る舞っているのだ。あんなに可愛がってもらったけれど、その記憶はもう捨てた。
 残されたのは、使用人としての矜持きょうじだけだ。
 ――私、光太郎様のお役に立ちたい。だから『仕事』だけは頑張ります。
 急ぎ足で去って行く光太郎の背中を見送りながら、里沙は心の中で呟いた。
 そのとき、ふらりと近づいてきた人の気配に里沙は顔を上げる。
 ――九藤くどう様……
『山凪ホールディングス』の総務部で働く九藤周吾しゅうごの顔を見上げ、里沙は鉄壁の愛想笑いを浮かべ直した。

「お疲れ、須郷さん。今、光太郎君と何話してたの」

 ――また困った方に声を掛けられたわ。
 ひょろっとせた男だが、一六〇センチの里沙よりも十五センチ以上は背が高い。近づいて来た彼の威圧感に、里沙は自然に距離を取る。

「土曜日の創立記念パーティについて、手伝いをよろしく頼むと声を掛けていただきました」

 里沙の答えに、九藤が皮肉な笑みを浮かべる。

「へぇ……山凪家の御曹司ともなると、下々の者にも気が利くんだね」

 彼は山凪家と古い付き合いのある『九藤グループ』の御曹司だ。優秀な兄が四人いて、現在二十七歳の彼は一人歳の離れた末っ子である。九藤周吾はグループの要職に就く兄たちと違って、『親の知り合いの会社で働かされている』現状が気にくわないらしい。

「……いろいろな方面に気を遣われる方なので」

 里沙は愛想笑いを浮かべ、更に無難な答えを口にする。

「だから俺なんかもクビにせず雇ってくれてるんだろうな」

 ――そのとおりです、九藤様。『九藤グループとの取引を有利にする』という理由だけで、雇用され続けているご自覚はおありなんですね。
 彼の皮肉な言葉に、里沙は心の中だけで答えた。
 九藤は素行そこうが悪い。彼を「お預かり」する決定打になったのは、どこぞの芸能人がホームパーティの際に違法薬物で摘発されたとき、そこに彼も同席していたという事件だ。
 九藤本人が薬を使用していたわけではなかったものの、結構な醜聞しゅうぶんだ。九藤家の両親はスキャンダルを恐れ『ほとぼりが冷めるまで山凪の会社で預かってくれ』と息子を光太郎の親戚に押し付けたらしいのだ。
 その親戚からねじ込まれた光太郎が、いやいやながらも九藤を預かり、山凪ホールディングスの総務部で働かせているという経緯がある。
 だが、九藤本人はそれを面白く思っていないようだ。
 山凪グループの未来の総帥として着々とキャリアを積む光太郎が目障めざわりらしく、折に触れて『須郷』の娘である里沙に嫌味を言ってくる。
 ――そういえば、九藤様の従姉いとこ麗子れいこ様が、光太郎様とのご縁談に熱心だとか……
 彼女は何度光太郎が断っても、親族のコネや仕事関係での脅しのようなことを匂わせつつ、『再検討』を依頼してくると聞いている。
 光太郎の縁談は、里沙には関係のない話だ。だから批判する権利も、不快に思う権利もない。だが、もっと光太郎のことを考え、彼を幸せにしてくれるような人はいないのだろうか、とどうしても思ってしまう。

「すみません、私、飲み物を買うので先に失礼しますね」

 これ以上気まずい状況はたくさんだと、里沙は立ち上がる。

「総務の男性陣が、須郷さんと合コンしたいって言ってたよ。美人だって皆目を付けてる」

 里沙は目を伏せ、曖昧あいまいな笑みを浮かべた。
 せ型で大人しい容貌ようぼうの里沙は『御しやすい』と思われるのか、男性に言い寄られることが多い。それが嫌で極力化粧もせず、服装も『もっと可愛いの着れば?』と同僚に呆れられるくらい地味にしているのに。

「兄から『社内に出会いを求めるな』と釘を刺されていますので」

 雄一は、若手社員の中では『鬼秘書』として知れ渡っている。とにかく仕事ができて、自分にも他人にもめちゃくちゃ厳しい人物だ……と。
 ――まあ事実だけど……
 社内で色恋絡みのトラブルを起こしたら、兄がなあなあで見逃してくれるわけがない。容赦なくコンプライアンス調査室に持ち込むだろう。もし、嫌がる女性社員に合コンを強要しているなんて話を兄が知ったら……
 兄のことを出した途端、九藤が唇をゆがめた。

「須郷室長の名前出されちゃ無理は言えないな。またの機会にするよ。あ、そうだ。週末の創立記念パーティ、うちの親とか親戚も、何人か呼ばれてるんだよね」

 まだ終わらないのか、と思いつつ、里沙は平静を保って頷く。

「光太郎君のおじいさんも変わった人だよね。さっさと光太郎君の結婚相手を指名して、決めてあげればいいのに。おじいさんに言われたら、光太郎君も逆らえないでしょ。引退したとはいえ、山凪一族のドンだもんね。……は何か聞いてる?」

 里沙は、九藤の言葉に眉をひそめた。急に名前にちゃん付けなど、一体どうしたのか。馴れなれしくて困惑するし、気持ち悪い。けれど、相手が相手なだけにやめてくれとも言えない。
 おそらく九藤は、従姉いとこの縁談がなかなかまとまらないため、里沙に探りを入れているのだ。妙に距離をつめてきたのも里沙から話を聞き出そうとしてのことかもしれない。だが、そもそも里沙は光太郎の縁談がどうなっているか知らない。そしてたとえ知っていても、部外者に話すわけがない。

「いいえ。きっと孫である光太郎様の自由意志に任されているのではないかと」

 そう言って、里沙は深々と頭を下げた。

「失礼します」


 翌々日の土曜日。
 里沙は朝早くから、都心にある老舗しにせ高級ホテルにおもむいていた。
 今日は『山凪グループ』の創立記念パーティ、当日。
 ――入社前からお手伝いしてきたから、慣れているけど……
 須郷家の人間として、山凪家の行事には社会人になる前から一通り関わってきた。
 里沙は作業項目のチェックリストを見直し、やり忘れたことがないかを確認する。
 ――あとはお客様がいらっしゃるのを待つだけね。
 見回せば、花が飾られ、テーブルセッティングも済んで、会場は華やかな雰囲気に包まれている。
 グループ関連企業や取引先を集めたパーティが始まるまで、あと一時間ほどだ。
 パーティ準備は順調だが、里沙は重いため息を抑えきれなかった。
 ――今日、光太郎様の婚約者が発表されるかも……
 直接里沙に何かが告げられたわけではない。だが、今回のパーティは今までのそれとは雰囲気が違う気がする。
 ここのところ、光太郎のことを考えるたびに心がチクチクしていた。
 光太郎は年頃の御曹司で、キャリアも人格も問題ない。しかも相当の美男子だ。当然、縁談は引きも切らず、名だたる名家のお嬢様が光太郎の妻にと名乗りを上げているのは知っている。
 それに彼は、周囲から強く結婚を望まれている。十年前に山凪家の当主夫妻が、大学一年生の光太郎を残して飛行機事故で亡くなったからだ。
 亡きご両親のためにも、光太郎には早く身を固めてほしい、そして山凪家の地盤をより盤石ばんじゃくにしてほしいと、親戚や取引先は願っているのだ。
 ――これまで何十回もお見合いしてきたみたいだけど、どれもまとまらなかったんだよね。でも……光太郎様も、ついにお相手を決められたのかも。
 重苦しい気持ちを隠し、里沙はことさらにキビキビと歩き回った。
 視界のはしに、九藤グループの総帥夫妻の姿が見えた。会社でお預かりしている問題児、九藤周吾の両親だ。
 二人とも、かなりの高齢である。周吾は、歳がいって生まれた末息子だから、余計に甘やかされて育ったのかもしれない。
 ――今日はご両親だけで、九藤様ご本人は来てないのね。一応うちの会社では平社員だから呼ばれなかったんだろうな。
 平社員扱いが周吾のプライドを傷つけていることに、里沙とて気付いている。けれど、実家かられ物扱いされ、かといって山凪グループでもまるで成果を出せず……では、誰も優遇のしようがないのだ。
 ――九藤様のこと考えるのはやめよう。仕事仕事……っと。
 仕事の忙しさのお陰で、余計なことを考えずにいられる。
 このまま光太郎の婚約発表があったとしても、忙しくしていれば心の痛みを誤魔化せるだろう……

「里沙」

 兄の雄一が、里沙を呼び止めた。『鬼上司』である雄一の声に、反射的に背筋が伸びる。

「来客リストをくれ。光太郎様が会場内で直々にご挨拶あいさつする方には、蛍光ペンでチェックをしてあるな?」
「はい、大丈夫です。どうぞ」

 里沙は手にしたリストをざっと見直してから、雄一に手渡した。

「頂戴したお花の確認は大丈夫か」
「お花をくださった方のリストと現物を突き合わせました。お礼状で、お花の件に触れるようにします」

 雄一が無言で頷いて、リストを手に立ち去る。よく見れば、小脇にノートパソコンを抱えていた。相変わらず仕事に追われているようだ。
 ――乾杯のドリンクは大丈夫かな……。お任せしてるけど、一応確認しておこう。
 里沙は、厨房ちゅうぼうへと足を向けた。
 そろそろお客様が会場入りする時間だ。
 取引先の偉い人や、山凪家の親戚の方々がみえるので、失礼があってはならない。里沙の両親も、朝から会場入りして走り回っている。
 山凪グループの企業重役を務める父は、早くに到着した遠方のお客様の対応中だ。山凪家の裏方を取り仕切る母は、お客様を迎えるにあたり粗相そそうがないか、パーティ会場の従業員と最終打ち合わせをしている。
 ドリンクのチェックを終え、里沙は一度足を止めた。
 ――受付開始前に、ちょっとメイクを直さなきゃ……
 化粧室へ行き、身だしなみの最終確認をする。
 ――さて、私は隅っこでお客様のご様子を注視しつつ、何かあったら参じる、と。
 そうして里沙は、エントランスロビーの片隅に立った。
 三々五々、華やかな格好の来客が集まってくる。グループの役員たちが来客を出迎え、談笑を始めた。
 里沙は、荷物を手に立っているお客様にはクロークを案内し、ラウンジに着席されたお客様にはすぐに飲み物が運ばれるよう目を配り――と、黒衣くろごに徹して会場内を歩き回った。
 時間となり、メイン会場が開く。来賓が続々と会場へ吸い込まれていく。
 あとはトラブルがない限り、進行を見守るだけだ。
 ――これから社長と来賓と、それから山凪家代表として光太郎様のスピーチがあって……。多分、光太郎様のスピーチで、アレがあるんだろうな。
 里沙はかすかに表情をかげらせる。
 今日のパーティには、日本でも指折りの名家が揃っている。古くから山凪家が取引していたり、家同士の交流があったりという、いわゆる『上流階級』の人々がたくさん来ているのだ。
 彼らにとっては、『山凪グループ』オーナー一族の御曹司の動向は、とても気になるものだろう。
 光太郎の打ち出した方針で、自分たちの今後が変わる可能性があるからだ。
 それゆえ光太郎の縁談も、当然注目の的である。
 なんとなく、会場全体がそわそわしている気がする。誰もが、光太郎の婚約発表が今日おこなわれることを期待しているかのようだ。
 でも里沙は、光太郎の口から『婚約のご報告』なんて聞きたくなかった。
 さりげない仕草で、腕時計に目を落とす。この時間、里沙のスケジュールは『空き』となっている。パーティ当日でも交代で休めるようにと、雄一が組んだものだ。
 ――今から一時間休憩ね。おにぎりでも食べておこうかな。今日はこのあともずっと忙しいし……
 そう思いながらそっと会場をあとにし、運営側の控え室へ向かった。
 ――何を話すんだろう……スピーチ……
 誰もいない場所で黙々と持参したおにぎりを食べていたら、目に涙がにじんだ。
 今ごろ、婚約発表がおこなわれているのだろうか。胸が痛くてたまらない。
 現実逃避するように、里沙は一度ぎゅっと目をつぶった。
 ――五時起きだったから、ちょっとだけ仮眠しようかな。十五分だけ……
 おにぎりを食べ終えて一息ついた里沙は、パイプ椅子の背もたれに寄りかかった。
 昨日はあまり眠れなかった。今日も朝からずっと気を張っていたため、とても疲れている。スマートフォンのタイマーをバイブレーションでセットし、目をつむった。
 あっという間に意識が途切れる。
 そして、寝苦しい格好のせいか、変な夢を見てしまった。
 ――ああ、これって……あの日の夢だ……
 里沙は中学校の制服姿だ。
 十四歳の里沙は、光太郎を探して、山凪家の屋敷を必死に走り回っていた。
 悲しみに沈む広いやかたは、空気がよどんでいる。
 先日、飛行機事故で亡くなった光太郎の両親の、葬儀が終わった。もうこの家に、二人の明るい笑い声が響くことはない。
 ――あ、もしかして! あっちにいるかも。
 里沙は光太郎がいそうな場所を思い付いて、慌てて二階に走った。廊下の突き当たりの広いバルコニーに向かう。
 そこは、光太郎の母が鉢植えの薔薇ばらを育てていた場所だ。日差しの管理が難しい種類だからと、庭に植えずに、ここで日々大事に手入れしていた。
 そっと様子をうかがうと、光太郎の背中が見えた。
 鉢の前にかがみ込んでいる。
 しばし躊躇ためらったあと、里沙は後ろ手に袋を隠し、足を進めた。

「光太郎様……」

 薔薇ばらのつぼみをんでいた光太郎が振り返る。
 整った顔はやつれ、青ざめていたが、それでも彼は里沙を見て優しく笑ってくれた。

「どうした、里沙」

 笑顔を見せてくれたことにほっとして、里沙はおずおずと彼に近づき、かたわらにしゃがみ込む。

「何をなさってるんですか?」
「新芽のつぼみを取ってる。まだ株が若くて、全部咲かせると弱るんだ。母さんが旅行に出る前に家政婦さんに頼んでいったんだけど……。こんなことになって、皆、花の世話どころじゃないみたいだから」

 里沙の胸がずきんと痛む。
 涙をにじませた里沙は、慌てて目元をぬぐって立ち上がり、光太郎の目の前に袋を差し出した。

「あの……おやつを買ってきました」

 里沙の言葉に、光太郎が形のいい目を見開き、ゆっくりと立ち上がる。
 二十センチ以上背の高い彼を、里沙は思わず見上げる。アッシュブラウンのほんのり明るい髪色に、同じ色の水晶のような瞳。悲しみに沈んでいてすらも、光太郎はキラキラと輝いて見える。
 つい見入ってしまったが、里沙は光太郎の美しい顔に疲れがにじんでいることに気付く。
 いつも活力にあふれ明るい光太郎が、こんなに青い顔をしているのは見たことがない。

「何か召し上がってください。えっと……コーヒーと、オレンジジュースと、お茶と、水と……」

 里沙は慌てて袋から飲み物を出した。
 次から次へと、バルコニーのテーブルセットの上に買ってきたものを並べる。
 たくさん買い物をして、今月のお小遣いの半分くらい使ってしまった。光太郎が何なら口にしてくれるか分からず、ついいろいろと買ったのだ。

「どうしてこんなに買ってきたんだ」

 そう言って、光太郎が笑う。里沙は袋から続けていろいろな食べ物を取り出しながら、できるだけ明るい笑顔で答えた。

「お腹空いていらっしゃるかなって」

 里沙の答えに、光太郎が笑ったままかすかに目を伏せる。しなやかな腕が伸び、里沙の頭をポンポンと叩いた。

「ありがとう」

 澄んだ茶色の目には、隠しようのない苦しみがはっきりと浮かんでいる。
 当たり前だ。ついこの間まで元気だった両親が、今はもうこの世にいないのだから。
 親孝行な光太郎は、いま、どれだけ傷ついているのだろう。
 さっき頑張って引っ込めた涙が再びあふれそうになる。
 ――私は泣いちゃだめ……。泣きたいのは光太郎様なんだから。
 突然、光太郎が里沙の頭を引き寄せた。
 里沙の頭が、光太郎の胸に抱え込まれる。
 耳に、光太郎の声が届いた。

「俺の代わりに泣いてくれるのか?」

 ――ごめんなさい、私が泣いたりして。光太郎様、私はずっと光太郎様のお側にいます。光太郎様がまた笑顔になれるようにお仕えします……
 声にならない忠誠の気持ちは、光太郎には伝わったようだ。

「ありがとう。いつも心配してくれて……。俺のことをこんなに気に掛けてくれるの、里沙だけだ。俺の方が年上で、里沙を心配してやらなきゃだめな立場なのにな」

 光太郎の腕の中で里沙は小さく首を振る。
 ――どんなときも、いつも光太郎様のお側にいる。あの頃はその願いがかなうと思ってた……馬鹿だな、私。
 不意に自嘲的な気持ちがわき上がる。
 そのとき、兄の声が頭の上から降ってきた。

「里沙」

 仕事の指示かな? と思った瞬間、パチッと目が覚めた。膝の上でスマートフォンが震えている。

「大丈夫か? 疲れたのか」

 まばたきすると、隙のないスーツ姿の雄一が目に飛び込んできた。
 短い時間だが、ぐっすり寝ていたようだ。

「あっ……ごめんなさい。大丈夫。うとうとしてただけ」

 里沙はアラームを止め、目をこすって雄一に笑いかけた。里沙の様子を一瞥いちべつし、雄一は頷いた。

「大丈夫なら、会場に来てくれ。もうすぐ光太郎様のスピーチが始まる」

 その言葉に、里沙の身体がわずかに強ばる。

「それって、私も聞かなきゃだめ?」

 もしかして、光太郎の婚約発表が始まるのだろうか。
 ひるむ里沙に、雄一がはっきりと頷いた。

「ああ、だめだ。顔を出してもらわないと」
「どうして? 私に関係ないでしょう……今日は忙しいから、今のうちにもう少しここで休んでようかなって……」

 思わず反論する里沙の肩に、兄の大きな手がのせられた。

「里沙」

 真剣な声に、里沙は雄一を見上げる。

「これから、何も逆らわず、光太郎様の言うとおりにしろ」

 その真面目な声に、里沙の心臓がどくんと音を立てる。

「兄さん……何を……」

 顔を強ばらせた里沙に、雄一が微笑みかけた。滅多に見られない兄の笑顔に、里沙は目を丸くする。

「本当ならもっと綺麗な格好をさせたかったんだが……すまん。さ、行くぞ」

 なぜ雄一は謝るのだろう。
 事態についていけないまま、引きずられるようにして歩き出す。
 雄一は里沙の腕を引き、足早に大広間に向かった。
 不安でたまらない。今から何が起きるのだろう。思わず胸を押さえた里沙の前で、雄一が大広間の扉を開ける。

「光太郎様、連れて参りました」

 雄一の声と同時に、会場に集まっていた人々の視線が、一斉に里沙の方を向く。
 ――光太郎様……!
 目に飛び込んできた光太郎の姿に、里沙の心臓が大きく跳ねる。
 つややかな髪をきっちり整え、上質なスーツに鍛え上げた身体を包んだ彼は、いつにも増して男らしかった。
 自分の状況も忘れ、里沙は彼の姿に見入ってしまった。
 どんなにたくさんの人がいても、光太郎だけが輝いて見える。
 それは、彼の美しさゆえなのか、里沙が彼に惹かれているからなのか――
 吸い寄せられるように光太郎を見つめていた里沙だったが、次の瞬間身体を硬くした。
 光太郎が、自分の方にまっすぐ歩いてきたからだ。
 ――え、なぜこちらに?
 光太郎はもう目の前に迫っている。
 反射的に後ずさった里沙は、目の前に立った光太郎に手を取られた。至近距離で、光太郎が微笑む。
 息が止まるくらい、華やかな笑みだ。
 ドキドキいっていた里沙の心臓が、ますます早鐘を打つ。

「里沙、姿勢を正せ。お前の振る舞いで光太郎様に恥をかかせるな」

 背後から雄一の小声の叱責が飛んできた。里沙の足の震えが止まる。
 ――そ、そうだ、光太郎様のお側にいるときは、きちんとしなければ……
 幼い頃から叩き込まれている『人前で恥ずかしくない振る舞い』が、里沙の中によみがえる。慌てて姿勢を正し、可能な限り顔から動揺を消した。
 光太郎に手を取られたまま、里沙は必死で意識を全身にもっていき、堂々と見えるように歩く。
 何が起きているのだろう。
 戸惑う里沙の肩を、光太郎の手が抱き寄せる。
 ――光太郎様、何を……
 驚いて彼の顔を見上げたとき、光太郎が晴れやかな顔で、そしてはっきりとした口調で宣言した。

「ご紹介します。彼女が私の婚約者の、須郷里沙です。今日から一緒に暮らして、近いうちに籍を入れる予定です」

 光太郎と身を寄せ合ったまま、里沙は凍りつく。
 ――待って、これはどういうことなの……!
 頭が真っ白になっている里沙の耳元で、光太郎がささやく。

「いいよな、里沙。頼むぞ」

 甘く、低く響く声に、里沙は反射的に頷いた。そのまま声をひそめ、尋ねる。

「は、はい、かしこまりました。ですが、私は何をすれば……?」
「今言ったとおり、今日から里沙は俺の婚約者だ」

 光太郎の幸福そうな笑顔は、愛する恋人を見る若い男性の表情そのものだ。困惑が抑えられない。いつから光太郎は、こんなに演技派になったのだろう?
 だがさすがに、『婚約者』は……。あまりに突拍子もない発言に、今度は頷くことはできなかった。
 当惑する里沙に、光太郎が再びささやきかける。

「今から俺の婚約者になってくれ。頼みたいことはそれだけだ」

 つややかな声が里沙の肌を震わせる。こんな場面なのに、里沙の胸が一瞬高鳴った。
 だがこの状況で余計なことは言えない。周囲から不審に思われる仕草はだめだ。光太郎にだけ分かるようにかすかに眉をひそめると、それに気付いた彼が視線で立ち並ぶ人々を示した。

「客の面子メンツを見てみろ」

 里沙は礼儀正しい笑みを浮かべつつ、辺りに目を走らせる。
 ――古くからお付き合いのあるお家に、山凪グループに投資している銀行の方……。あちらは京都から見えた山凪グループの大株主で……
 胸の谷間を、つうっと汗が伝った。
 どの来賓をとっても、超VIPばかりだ。彼らの前で冗談で婚約発表するなんて、許されるものではない。


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