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1巻
1-3
「彼らは、お前を俺の婚約者と認識した。これは決定事項だ。分かったな?」
光太郎の色の薄い瞳が、里沙を見据える。訳が分からないまま、里沙は慌てて頷いた。
ここで里沙が騒げば、光太郎の顔に泥を塗ることになる。いくら焦っていても、それだけははっきりと理解できた。
周囲は、未だに驚いたように里沙と光太郎を見つめている。
来賓だけではない、会社の上司も里沙の両親も……兄以外の人は、ぽかんと口を開けて里沙を見ていた。
何が起きたのだろうという顔だ。
彼らと同様に状況が理解できず、とにかく懸命に平静を装う努力をし続ける里沙の耳に、ほどなくしてまばらな拍手が届いた。やがてその拍手は大きくなり、会場中に響き渡っていく。山凪家の御曹司自らの婚約発表に、表立って異を唱える人間はいないようだ。
里沙は必死で張り付けたような笑みを浮かべ、精一杯上品な動作を心がける。
光太郎に恥をかかせてはいけない。突然のこととはいえ、彼の選んだ『婚約者』としてしっかりと振る舞わなければ……
――このままでは、私、本物の婚約者になってしまう……のでは……?
不安を覚えつつ、里沙は心の動揺を必死に押し隠し、社交的な笑顔を保ち続けた。
パーティが終わり、自宅に戻った里沙の前で、父が苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「公的な場であのような宣言をされては仕方がない……。今更『違います、間違いです』と騒いだところで、光太郎様の立場が悪くなるだけだ。お前は当面は光太郎様と同居して婚約者として振る舞い、話のつじつまを合わせてくれ」
常に『山凪家の体面保持が絶対、山凪家に降りかかるトラブルは全力で阻止』がモットーの父が、朝会ったときよりやつれて見える。
無理もない。娘が、なぜか『御曹司様』の婚約者として勝手に紹介されたのだから。
光太郎は、里沙の両親に婚約の許可すら取っていなかったらしい。
否、許可を取ったところで、忠義の塊のような父が、身分違いの結婚に『YES』と言うわけがないのだが。
光太郎のこの結婚話は、どこまで本気なのか……
とにかく、訳が分からない。
「あの、お父さん」
光太郎様と同居しろって言われても困るんだけど。そう言いかけた里沙に、父が沈痛な面持ちで告げる。
「状況が落ち着くまでは、お前がすべきことは婚約者として振る舞うということのみ。あとは……父さんがなんとかする……できる……と思う……多分……」
「後半微妙に頼りないんだけど!?」
「と、とにかく、表向きは光太郎様に合わせてくれ。ああ、なんでこんなことになったんだ。雄一に連絡を取らなければ……」
普段淡々としている父が、動揺を隠せない様子で家の奥へ入っていく。
あんな正式な席で発表した婚約を『嘘でした。冗談です』なんて即日撤回したら、山凪光太郎は頭がおかしいのでは、と周囲に思われてしまう。
そんな事態は絶対に避けなくてはならない。
父は『勝手な婚約発表事件』をフォローしつつ、現実を修正するために頑張ってくれるらしい。
――そ、そうよね、須郷家は山凪家の第一の忠臣として代々お仕えしていたわけだし。だから厚待遇を受けて、山凪家の皆様からの信頼も得ていて……
だからといって、主人が使用人の娘を勝手に嫁にしていいのだろうか。
分からない。頭がぐるぐるしてきた。
とりあえず光太郎が言い放った『今日から同居する』発言のつじつま合わせのために、光太郎が最近購入したというマンションに向かわねばならない。
そこで婚約者と同居する……という設定らしいからだ。
山凪本家のお屋敷は、都内の高級住宅街にある。塀の外からはお屋敷が見えないほどに敷地が広い、大邸宅だ。幼い頃から何度も通ったけれど、里沙はあれ以上に広い個人の家を見たことがない。
だが光太郎はその広いお屋敷ではなく、新しく購入したマンションで暮らす気らしいのだ。
――お手伝いさんもいないのに、大丈夫なのかな……
里沙は出張用のカートの中に、最低限の着替えと身の回りの品を詰め込んだ。普段の出張に行くのと変わらない荷物だ。
――傍から見て、同居しているようであればいいんだものね。それなら、光太郎様には今までどおり本家屋敷に住んでいただいて、私だけ新居で暮らして、二人で住んでいる風を装えばいいかな。というか、今、光太郎様はどこにいるんだろう? お電話も通じないし。
何度もスマートフォンを確認しつつ、里沙は準備のできたカートを引きずって家を出た。
須郷家の娘として今回の尻拭いには参加するが、もっと詳しく今回の件を説明してもらわねば困る。
とぼとぼ歩く里沙のバッグの中で、スマートフォンが鳴った。ディスプレイには『兄』と表示されている。
慌てて電話を取ると、雄一の落ち着き払った声が聞こえた。
『ああ、里沙か。光太郎様の購入されたマンションの住所は分かるか』
「兄さん……あの……なんなの、これ……私どうすればいいの?」
恨めしげな声の里沙に、兄が淡々と答える。
『婚約者として振る舞えばいい。そう指示されたはずだ』
「そ、そんなの困る……」
『……お前にしかできない仕事だぞ』
雄一の発した『仕事』という言葉に、里沙の頭がスッと冷える。
「えっ……これ、仕事……なの?」
『うちは昔から、山凪家のためにいろいろな仕事を引き受けている。それが会社の仕事だけでないことは知っているだろう。他家とのトラブル解決や、スキャンダルの防止、山凪家の方々のご相談に乗ること……。全部俺たち須郷家の人間の仕事のはずだが』
兄のクールな物言いに、里沙もどんどん冷静になっていく。
「そう……だね。でも、急でびっくりしたの。事前に説明もなかったし」
『光太郎様はしつこい求婚に悩んでおられる。縁談をこれ以上打診されると、精神的に参ってしまいそうとのことだ。だから、お前がお助けしろ』
雄一の声から、『余計なことは一切言わず、素直にハイと言え』というオーラがびしびしと伝わってくる。困惑しつつ、それでも里沙は尋ねた。
「あ、じゃあ光太郎様、お見合いが多すぎてお嫌になったってこと?」
『ああ。だからお前が光太郎様の相手として、婚約者の席に座っていろ。そうすれば、光太郎様は落ち着かれる』
なんとなく分かった。
里沙が婚約者のフリをすることで、光太郎はわずらわしい縁談にこれ以上振り回されずに済むのだ。そうして落ち着かせた状況下で、光太郎にお見合い疲れを癒やしてもらおうという算段らしい。
「分かったけど……いいのかな、そんな嘘ついて」
『光太郎様に聞け。俺が須郷家の人間としてお前に言えるのは……光太郎様の利益になるのだから、真面目に務めろということだけだ』
兄の厳しい口調に、里沙は思わず姿勢を正した。
「わ、分かりました」
時代錯誤と言われるかもしれないが、須郷家の人間は、山凪家のために危ない橋を渡ることもある。
そういった忠誠を尽くすことで、破格の厚遇と社会的地位を得ているのだ。それが『侍従長』の家柄というものだと、里沙は理解している。
だから里沙も、山凪家のためであればなりふり構わず働かねばならない。
『分かったなら、新居のマンションに向かい、掃除をして光太郎様をお迎えする準備をしておくように』
「はい。……婚約者役を頑張って勤め上げろということよね?」
『先ほども言ったが、詳細は光太郎様に聞け』
兄の答えは、相変わらずにべもない。里沙はため息をついた。
「分かりました。光太郎様がご安心できるように、婚約者役を務めます! 詳細は光太郎様にうかがいますね」
電話を切ってしばらくすると、じわじわと不思議なやる気がわいてきた。
突然の婚約者指名にびっくりして思考停止していたが……これは、須郷家の娘にしかできない仕事だ。
――だったら頑張るしかない。他ならぬ光太郎様のお願いなんだし。
気を引き締めた里沙がカートを引きずりながら歩いていると、再び電話が鳴る。
慌てて電話を取り出すと、親戚のおばさんからメールが来ていた。
『光太郎様のお嫁さんになるんだって? こっちの親戚は皆びっくりしています! すごいね、玉の輿おめでとう』
一瞬意識が遠のきそうになる。
あれだけ派手に発表されれば、電光石火で周囲に伝わることを忘れていた。というより考えたくなかった。
そもそも、光太郎の電撃婚約発表は、見方によってはド派手なシンデレラストーリーだ。
使用人の娘が、美貌の御曹司の妻になる、身分差ときめき恋物語……に見えなくもないからだ。噂とテレビドラマが大好きな親戚のおばさんたちが騒がないわけがない。
――うーん……大きな話になってしまったような……
この仕事が終わったら、自分はどうなるのだろう。『御曹司に捨てられた女』というレッテルを貼られて一生終わるのだろうか。
一瞬不安になったが、里沙はすぐにそれを打ち消した。
光太郎が、里沙をそんな立場で放り出すはずがない。きっと、うまい手立てを考えてくれるはずだ。
そんな心配より、まずは仕事を頑張ろう。光太郎の役に立てるなら里沙も嬉しい。
幼い頃から『山凪家のために努力しなさい』と教えられて育ったせいか、光太郎の力になれると思うと胸が弾む。
――大丈夫よ、ちゃんとできる。私が頑張れば、光太郎様が助かるみたいだし。
里沙は気合を入れて、教えられた住所に向かった。
たどり着いた先は、都心の超高級エリアだった。瀟洒な七階建てのマンションを見つめ、里沙は思わず開けてしまった口を慌てて閉じる。
――すごい家……。さすが山凪家の御曹司様のセカンドハウス。
外側からは建物内の様子がうかがえないよう、巧みに設計されている。
駐車場には高級外車ばかり。エントランスの扉には汚れ一つなく、天井も高くて、まるで海外の高級ホテルのようだ。
里沙は父から預かった鍵で、エントランスのロックを解除する。
あまりに豪華なマンションなので、入るだけで緊張してしまう。フロントのコンシェルジュに頭を下げ、エレベーターで六階に向かった。
公園に面した角部屋が光太郎の家だという。
「失礼いたします」
誰もいないのは分かっていたが、里沙は挨拶をして、そっと家に上がる。
脱いだ里沙の靴は、美しい大理石の上でみすぼらしく見えた。
目立たない場所に靴を揃え直し、廊下を歩いて中へ進む。どうやらその先が居間のようだ。
――広い……。家具も何もかも新しくて、モデルルームみたい。
どの家具も、山凪家のお屋敷で見かけたような重厚感ある上質なものばかりだ。
里沙からすれば別世界だが、極上の品に囲まれて育った光太郎にとっては「なじみのある落ち着く雰囲気」に違いない。
里沙は腕まくりをして辺りを見回す。今のところ掃除の必要はなさそうだが、この先はそうではない。まずは掃除用具を確認しなくては。
――あっ……懐かしい……!
いろいろ考えつつ周囲を見ていた里沙は、リビングボードに飾られたトロフィーに気付いた。高校の空手の大会で、光太郎が優勝したときのものだ。里沙と雄一と光太郎、三人で空手を習っていた。ちなみに里沙は、須郷家の人間はいざというときに山凪家の方々を護れるようにと、幼い頃から続けてきたので、それなりの腕前だ。
光太郎は、高校を卒業するまで空手を続けていた。
トロフィーの下に置かれた写真立てには、空手着でトロフィーを掲げている光太郎の姿が収まっている。
隣に立っているのは里沙だ。応援に行き、一緒に写真を撮ってもらったのを覚えている。
写真の中の光太郎は、確か高校二年生。かすかに幼さが残っているけれど、やはり今と変わらずにずば抜けて格好いい。傍らの里沙は中学生だ。無邪気な笑顔でピースサインをしている。
――なんで私と写ってる写真……?
一瞬動揺したが、トロフィーと写っているのがこれしかなかったのだろうと思い至る。
――光太郎様は、今でも空手がお好きなのかな。
光太郎は、大学生活が勉強にインターンにと忙しく、空手を辞めてしまった。
――すごく強くて格好よかったのに……勿体ない。でも仕方ないか、忙しすぎる方だし。
そのまま部屋の中を確認し、掃除道具がないことをチェックした里沙は、まずは一通り買ってくることにした。
きびすを返そうとしたとき、不意に玄関に人の気配を感じる。
誰だろう……と思った里沙の耳に、大きな言い合いの声が飛び込んできて、思わず飛び上がりそうになった。
「勝手をしおって馬鹿もんが! 須郷に聞いたぞ。今回の婚約の件、須郷の許可を得ていないとはどういうことだっ!」
聞き慣れた山凪家の大旦那……光太郎の祖父、隆太郎の声だ。
――嘘……大旦那様がお見えなの……?
その迫力の怒声に、里沙は凍りつく。
「おじいさまには関係ありません。これしか方法がなかっただけです。俺と里沙はうまくやりますから、どうぞご心配なく」
隆太郎に負けず劣らずな迫力の、光太郎の大声も聞こえてくる。
――大旦那様と光太郎様が、また喧嘩していらっしゃる!
里沙は慌てて玄関に走った。
玄関には、光太郎と雄一、それから光太郎の祖父である隆太郎と、その従者らしきスーツの男性たちがいた。
隆太郎は杖を光太郎に突きつけ、鬼の形相をしている。
一方の光太郎は、祖父の怒りにもまるで怯まず、彫像のように佇んだままだ。
屋敷では何度も見かけた祖父と孫の大喧嘩だが、今日はひときわ激しい。
隆太郎が、反抗的な顔の光太郎を厳しい声で叱責する。
「結婚をなんだと思ってるんだ、この馬鹿もんが! 青二才に偉そうな口を利かれる覚えは……おお里沙か、こんばんは」
だが里沙に気付いた途端、仁王のような顔をしていた隆太郎は、別人のような笑みを浮かべた。
「こ、こんばんは……大旦那様、それから、お帰りなさいませ、光太郎様……」
「ただいま、里沙」
スーツ姿の光太郎が腕組みをしたまま低い声で答えた。
相変わらずどこにいても華やかで目を引くが、全身に不機嫌のオーラをまとった光太郎は、正直怖い。怒っている美形は迫力がありすぎる。
「いやいや、すまなかった、里沙。ちょっとこの阿呆を説教していたもんで、大声を出してしまってな」
困惑する里沙をフォローするように、隆太郎が優しい声で言った。
「いいえ。大旦那様、お身体の方は大丈夫ですか?」
この興奮が障っては、と里沙は慌てて尋ねる。
十年前、光太郎の両親の葬儀が終わってすぐ、隆太郎は心筋梗塞の発作を起こした。
後を任せるはずの息子夫婦を突然失ったショックのせいだろう。
一命は取り留めたものの、回復には長い時間がかかり、それを機に彼は経営の一線から退いた。そして、今日のパーティも欠席していた。
心臓が、現在もあまりよくないのは事実だ。
興奮しすぎて体調を崩されては……と心配する里沙に、隆太郎は笑顔を向ける。
「里沙はいくつになった?」
「に、二十四です」
「そうか……私が結婚したのも二十四のときだ。懐かしい、……里沙は、うちのばあさんの次にべっぴんだな」
機嫌のいい表情だ。どうやら、里沙の顔を見て怒りが少し収まったらしい。
「小さい頃と変わらず目がぱっちりしていていいな。賢そうで、うん。里沙、お前はばあさんの次に可愛らしい」
隆太郎は、ことあるごとに亡き愛妻の話をする。彼が『ばあさんの次に美人』というのは、実は相当な褒め言葉なのだ。
「ありがとうございます、大奥様の次だなんて……恐縮です」
里沙の言葉に、隆太郎が嬉しそうな顔になる。
光太郎の亡き祖母……佳世子は、隆太郎より七つ年上だった。
隆太郎のお見合い相手の姉で、離縁されて家に戻っていたところを隆太郎が見初め、熱烈にアプローチした末に妻に迎えたのだという。
思えば、隆太郎も光太郎も情熱的で何事にも一途で、非常にパワフルな男性だ。二人は気性も顔立ちも、面白いくらいよく似ている。亡き光太郎の父は、温厚な大奥様に生き写しだったのに……代を超えて、隆太郎の熱く男らしい血は、光太郎に受け継がれたのだろう。
隆太郎は里沙の頭を大きな手で撫で、不意に表情を険しくして、光太郎に視線を向けた。
「……で、お前は今回の茶番で、里沙になんの無理強いをするつもりだ」
かつて山凪グループの鬼と呼ばれていた隆太郎は、老いて弱ったとはいえ、今でも相当な迫力だ。玄関に立つ人たちの間に緊張が走る。
「光太郎にもいろいろな考えがあるだろうことは、一応分かった。だが、そのために里沙を利用するとはどういうことだ」
隆太郎の声に、光太郎は眉根を寄せる。
「俺は里沙を利用するわけではありません」
「利用しとるじゃないか。里沙は、お前の無理難題を断れん立場だぞ。こんな若い娘が、いいように使われて可哀相に」
どうやら隆太郎は、今日のパーティの婚約報告を受け、ひと言もの申しに顔を出したらしい。
もしかしたら、里沙の父が『娘が光太郎様の妙な企みに巻き込まれて……』と泣きついたのかもしれない。
困り果て、里沙は無言で光太郎の顔を見つめる。
「いいえ。利用するつもりはありません」
頑固な口調で光太郎が繰り返す。
「お前は結婚をなめている。こんな勝手なやり方で話を進めるなど言語道断だ」
――光太郎様、婚約の件は『フリ』です、って早めに申し上げた方が……
申し訳なくなって俯いた里沙の耳に、光太郎のきっぱりした声が届く。
「いいえ、甘く見ていません。適当に選んだわけでもありません。少なくとも俺の方には、愛はあります」
光太郎は一歩も譲らぬ構えだ。だが『愛はある』なんて大見得を切ってしまって大丈夫なのだろうか。
「……ほう。ならば、里沙と二人、私が認めるような夫婦になってみせると申すか?」
「はい」
――だめです光太郎様、その論理展開だと、本当に結婚することになってしまいます……
売り言葉に買い言葉ではないか、とハラハラする里沙の前で、隆太郎が杖を持ち上げ、その先を光太郎に向けた。
「大きく出たな。あとから破綻しましたと泣きついてきても知らんからな。おなごの人生を背負うことを甘く見るな」
「ですから、甘く見てなんかいません。俺は本気です。里沙に『一緒になってよかった』と言わせてみせます」
光太郎の言葉を、隆太郎が鼻で笑う。
「お前のような青二才の本気など、片腹痛いわ」
「なんとでも仰ってください。里沙と俺は、ちゃんと、仲良くやっていきますので」
光太郎は何を言っているのだろう。里沙は不安で胸が苦しくなる。
――嘘はよくないです、光太郎様。初めから『婚約はフリです』と言っておくべき……です……
しかし里沙に、にらみ合う二人の間に割って入る勇気はない。
「ふん。そこまで言うなら、いったんは耳を貸してやる。半年後、お前たちが本当の夫婦となっていたら、今回の話を認めてやろう。もちろん、籍を入れたら本当の夫婦だなどと、くだらぬことを申すなよ。二人で本当の夫婦となっておれば、私に報告にこい。ただし何をもって本当の夫婦というのか、きちんと考えてこい。生半可な答えではだめだ。……あまり私を甘く見るなよ」
容赦のない、厳しい声だった。
里沙の背中に汗がにじむ。
――どうしよう……大旦那様にご納得いただく……って……大変なことに……
だが、里沙の戸惑いをよそに、光太郎は力強く頷いている。
「はい。半年後には鴛鴦の契りを交わした夫婦になっておりますので、ご心配なく」
光太郎は一歩も譲る気がないようだ。
里沙の不安が恐怖に変わっていく。
――どうしよう……大旦那様に今ここで謝罪した方がいいんじゃないかな。大ごとになる前に……
そのとき、不意に光太郎が腕を伸ばし、里沙の肩を力強く抱き寄せた。
人前で寄り添う格好になり、里沙の顔と耳がぱっと熱くなる。
男の人と、こんなにくっついたことなどない。しかも相手が光太郎だなんて、恥ずかしくてどうしていいか分からない。
「あ、あ、あの……光太郎様……あの……」
押しのけようとするが、彼は離れない。隆太郎は真っ赤になっているであろう里沙を一瞥し、はぁ、とため息をついた。
「……私の孫が、純粋な女心を踏みにじる阿呆でないことを祈る」
「里沙、おじいさまがお帰りだ」
隆太郎の嫌味など完全無視で、光太郎が言った。
頭の中が真っ白になったまま、里沙はこくりと頷く。
「かしこまりました。お見送りいたします」
「……あのな、今日からはそんな敬語いらないぞ?」
光太郎に不思議そうに言われ、里沙はきょとんとする。だが、隆太郎が、従者の開けたドアから出て行こうとしているのに気付き、慌てて光太郎の腕から抜け出した。
「あの、大旦那様、お気を付けて」
里沙の言葉に、隆太郎が笑顔で振り返った。
「ありがとうな、里沙」
光太郎と言い合いしていたときとは別人のような、好々爺の笑みだ。
だが、里沙の背後に立つ光太郎には視線もくれない。孫のことを本気で怒っているのだろう。
里沙は光太郎と並んで、隆太郎を追って歩く。共にエレベーターに乗り込むと、隆太郎が里沙に優しい声で言った。
「何か困ったことがあったら、すぐに私のところに相談に来なさい」
余計な心配を掛けてしまったことを申し訳なく思いつつ、里沙は笑顔で首を振った。
「何もなくても、大旦那様には会いにうかがいます」
その答えに、隆太郎が嬉しそうに里沙の頭を撫でた。
やはり彼の中では、里沙はまだ幼い子供なのだ。そう思うと、隆太郎の心配がより深く納得できる。
子供同士が勝手な真似をして、と彼は怒っているのだ。
――大旦那様に、あまりご心配を掛けたくないな……
マンションの車寄せで隆太郎の乗った車を見送りながら、里沙はため息をついた。
「里沙、すまない。おじいさまが突然怒鳴り込んできて」
車が見えなくなったところで、ようやく落ち着いて、里沙は光太郎の顔を見上げた。
端整な顔に、申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。いつも自信に満ちあふれているのに、今は少し元気がないようだ。
たしかに、パーティに婚約発表に、更には隆太郎に『本当の夫婦になった証明』をせねばならないなんて、今日は一日いろいろありすぎた。
――でもこういうときこそ、私がしっかりしなきゃ。
里沙は気を取り直して微笑む。
「大丈夫です、半年後に向けて打ち合わせしましょうか。えっと……大旦那様に夫婦として評価いただくには、実績が必要ですよね。同居した期間とか、二人で奉仕活動に参加するとか……他に何かあるでしょうか?」
つとめて明るく言った里沙に対して、光太郎が複雑そうな表情を向けた。
「いや、里沙、俺は……本当にお前と結婚したいんだが」
「本当に、結婚?」
理解不可能な発言に、里沙は眉をひそめた。更に難しいオーダーをされたような気がする。
首をかしげた里沙の両手を握り、言い聞かせるように光太郎が言う。
「あのな、やり方はまずかった。それは認める。だが俺は、お前と……」
光太郎はどうしてしまったのだろう。なぜ普段クールな彼が、かすかに耳を赤くしているのだろう。
つられて里沙の顔まで熱くなってきた。
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