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だらしのない男と、金の王子:3
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「終った。疲れたな」
ジュリアスは歴史学の論文を書く手を止め、庭の方を見た。
窓の外には、手入れされているとはいいがたい植木に、無造作に植えられた色とりどりの花が見える。
ジュリアスの祖父の失政と放蕩のせいで王家は貧しく、現王はその穴を埋めるために身を削って政務に励んでいる。だがいくら王が優れた能力の持ち主とは言え、孤立無援の戦いを強いられる身では、王政の回復は遠いだろう。そのことも、賢明なジュリアスには分かっていた。
「お兄様、もうお暇?!」
傍らで数合わせ遊びをしていた妹のリーザが、筆をおいた兄に抱き付く。
ジュリアスは苦笑し、心にかかっていた経済的な懸案を振り払った。そして、優しいしぐさで、甘ったれで幼い妹を引きはがした。
「リーザ、やたらと兄様に抱き付くんじゃない。お前はもう13、立派な淑女になるべきだろう」
「わたし、もう淑女です! お兄様。虹鳥の雛を見に行きましょうよ。お勉強は終わられたのでしょう」
「まったく」
妹の頭を撫で、ジュリアスは再び顔を上げた。
『鳥の子は赤い木の実が好きなの』などとしきりに言う妹に相槌を打ちながら、粘つく視線の主を見つめ返す。
庭の番人だ。名前は聞いていないが、雇いの衛兵だろう。
――あの男は最近、暇さえあればずっと自分の事を見ている。
ジュリアスは妹に知られぬようにため息をついた。
光のない目をした男の、生ぬるい体温を感じさせるような視線。そのような視線に、ジュリアスは馴れていた。
美しかった母に生き写しの彼の顔は、同性愛者、特に少年性愛者の気を惹きすぎるきらいがある。もう少し歳を重ねればそのような事も無くなるのかもしれないが、その事で何度もジュリアスは不快な思いをしてきた。
さすがに一国の王子にわいせつな真似をする馬鹿はいなかったが、直接的に触れられなければ耐えられる、という類のものではない。ジュリアスは気取られぬように息を吐き出し、妹に微笑みかけた。
「じゃあ、鳥を見て、餌をやって、それからヴィルの剣の練習を一緒に見に行こうか」
「ええ!」
ほほを火照らせて腕にぶら下がる妹に「ちゃんと立ちなさい」と言い聞かせ、ジュリアスは廊下に出た。
「お兄様、お顔が怖いわ」
「なんでもないよ」
妹の言葉にそう答え、ジュリアスは静かな声で付け加える。
「薄汚い犬が居たからね」
「まあ! 犬がいるの?」
はしゃいだ声を上げた妹を、ジュリアスは慌てて制した。うっかり、妹が非常な動物好きだということが頭から抜けてしまったのだ。
「もうどこかへ行ってしまったよ、さ、鳥を見に行こうか」
「そう? 残念だわ」
本物の犬を探そうとキョロキョロしている妹の腕を引き、ジュリアスは猫なで声で言った。
「鳥はどこの木にいるんだっけ」
***
「さ、兄様はこれからお仕事だ。リーザは部屋に戻りなさい」
幾度となく心の中で思い浮かべた声が耳に届く。イザークが顔を上げると、そこにはこの国のただ一人の王子の姿があった。
蜜のごとき黄金の髪が、午後の日を受けてキラキラと輝いている。
認めたくはないが美しい少年だ。どんな娼婦を買っても、抱くときはあの王子の事を考えていた。
イザークは舌打ちする。
――俺の病気は直っていない。悪化する一方だ。
いつもの様に無言で王子の姿を見送っていたはずの彼は、ややして目を見開いた。王宮に戻ってゆくはずの美しい王子が、単身、彼の方に向けてやって来たからだ。
「…………」
思わずイザークは、半歩後ずさって息を殺した。
王子の紫紺の瞳は、間違いなく彼を睨み付けていたからだ。心当たりなどない。なぜだ。病んだ妄想の中で美しい体を何度も嬲ったことなど忘れ、彼は小心さをむき出しにしたまま後ずさった。
「おい」
澄んだ低い声が、イザークを呼んだ。華奢で女性的な見かけによらず、王子の声は男らしくつややかだった。
「君だ……顔をあげなさい」
「……は、はい」
「ふうん」
すぐそばまでやって来た王子が、イザークの薄汚れた姿をつらつらと眺めた。そして、鼻先で笑い、からかうような口調で言った。
「ずいぶん、体が弛んでいるな。我が国も落ちたものだ……。こんな衛兵を雇わねばならぬとは、王家の窮状が恨めしいよ」
「えっ?」
イザークは耳を疑った。確かにここ数年、荒れた生活を繰り返し、体をまともに鍛えてこなかったのは事実だが。
「年はいくつだ」
「34、です……」
「弛みすぎだ。40過ぎに見えるぞ。僕は産まれた時から王宮に暮らしているけれど、君ほど緩んだ体の衛兵なんてさすがに見た事がない。解雇されたくなかったら、体を鍛えることだ」
王子が小ばかにしたような笑いをたたえたまま、ぷいとイザークに背をそむける。
「あ、あの」
イザークは、間抜けで卑屈な声しか出せぬ己に歯噛みした。
「何?」
「なにか問題がありますでしょうか。真面目に休まずに勤めているのですが」
王子という、雲上人のような存在に圧倒され、まともな言葉も出ない。イザークは、己の気の弱さに忸怩たる思いを抱いた。
「……少しは鍛えたらどう、って言っただけだよ。じゃあね、おでぶさん」
「!」
イザークは呆然と、高貴でこましゃくれた王子の細い背中を見送る。
――何なんだ、何なんだ、何なんだよ、あの餓鬼!
一瞬のち、イザークの全身に廻る血が、屈辱で煮えたぎった。
ジュリアスは歴史学の論文を書く手を止め、庭の方を見た。
窓の外には、手入れされているとはいいがたい植木に、無造作に植えられた色とりどりの花が見える。
ジュリアスの祖父の失政と放蕩のせいで王家は貧しく、現王はその穴を埋めるために身を削って政務に励んでいる。だがいくら王が優れた能力の持ち主とは言え、孤立無援の戦いを強いられる身では、王政の回復は遠いだろう。そのことも、賢明なジュリアスには分かっていた。
「お兄様、もうお暇?!」
傍らで数合わせ遊びをしていた妹のリーザが、筆をおいた兄に抱き付く。
ジュリアスは苦笑し、心にかかっていた経済的な懸案を振り払った。そして、優しいしぐさで、甘ったれで幼い妹を引きはがした。
「リーザ、やたらと兄様に抱き付くんじゃない。お前はもう13、立派な淑女になるべきだろう」
「わたし、もう淑女です! お兄様。虹鳥の雛を見に行きましょうよ。お勉強は終わられたのでしょう」
「まったく」
妹の頭を撫で、ジュリアスは再び顔を上げた。
『鳥の子は赤い木の実が好きなの』などとしきりに言う妹に相槌を打ちながら、粘つく視線の主を見つめ返す。
庭の番人だ。名前は聞いていないが、雇いの衛兵だろう。
――あの男は最近、暇さえあればずっと自分の事を見ている。
ジュリアスは妹に知られぬようにため息をついた。
光のない目をした男の、生ぬるい体温を感じさせるような視線。そのような視線に、ジュリアスは馴れていた。
美しかった母に生き写しの彼の顔は、同性愛者、特に少年性愛者の気を惹きすぎるきらいがある。もう少し歳を重ねればそのような事も無くなるのかもしれないが、その事で何度もジュリアスは不快な思いをしてきた。
さすがに一国の王子にわいせつな真似をする馬鹿はいなかったが、直接的に触れられなければ耐えられる、という類のものではない。ジュリアスは気取られぬように息を吐き出し、妹に微笑みかけた。
「じゃあ、鳥を見て、餌をやって、それからヴィルの剣の練習を一緒に見に行こうか」
「ええ!」
ほほを火照らせて腕にぶら下がる妹に「ちゃんと立ちなさい」と言い聞かせ、ジュリアスは廊下に出た。
「お兄様、お顔が怖いわ」
「なんでもないよ」
妹の言葉にそう答え、ジュリアスは静かな声で付け加える。
「薄汚い犬が居たからね」
「まあ! 犬がいるの?」
はしゃいだ声を上げた妹を、ジュリアスは慌てて制した。うっかり、妹が非常な動物好きだということが頭から抜けてしまったのだ。
「もうどこかへ行ってしまったよ、さ、鳥を見に行こうか」
「そう? 残念だわ」
本物の犬を探そうとキョロキョロしている妹の腕を引き、ジュリアスは猫なで声で言った。
「鳥はどこの木にいるんだっけ」
***
「さ、兄様はこれからお仕事だ。リーザは部屋に戻りなさい」
幾度となく心の中で思い浮かべた声が耳に届く。イザークが顔を上げると、そこにはこの国のただ一人の王子の姿があった。
蜜のごとき黄金の髪が、午後の日を受けてキラキラと輝いている。
認めたくはないが美しい少年だ。どんな娼婦を買っても、抱くときはあの王子の事を考えていた。
イザークは舌打ちする。
――俺の病気は直っていない。悪化する一方だ。
いつもの様に無言で王子の姿を見送っていたはずの彼は、ややして目を見開いた。王宮に戻ってゆくはずの美しい王子が、単身、彼の方に向けてやって来たからだ。
「…………」
思わずイザークは、半歩後ずさって息を殺した。
王子の紫紺の瞳は、間違いなく彼を睨み付けていたからだ。心当たりなどない。なぜだ。病んだ妄想の中で美しい体を何度も嬲ったことなど忘れ、彼は小心さをむき出しにしたまま後ずさった。
「おい」
澄んだ低い声が、イザークを呼んだ。華奢で女性的な見かけによらず、王子の声は男らしくつややかだった。
「君だ……顔をあげなさい」
「……は、はい」
「ふうん」
すぐそばまでやって来た王子が、イザークの薄汚れた姿をつらつらと眺めた。そして、鼻先で笑い、からかうような口調で言った。
「ずいぶん、体が弛んでいるな。我が国も落ちたものだ……。こんな衛兵を雇わねばならぬとは、王家の窮状が恨めしいよ」
「えっ?」
イザークは耳を疑った。確かにここ数年、荒れた生活を繰り返し、体をまともに鍛えてこなかったのは事実だが。
「年はいくつだ」
「34、です……」
「弛みすぎだ。40過ぎに見えるぞ。僕は産まれた時から王宮に暮らしているけれど、君ほど緩んだ体の衛兵なんてさすがに見た事がない。解雇されたくなかったら、体を鍛えることだ」
王子が小ばかにしたような笑いをたたえたまま、ぷいとイザークに背をそむける。
「あ、あの」
イザークは、間抜けで卑屈な声しか出せぬ己に歯噛みした。
「何?」
「なにか問題がありますでしょうか。真面目に休まずに勤めているのですが」
王子という、雲上人のような存在に圧倒され、まともな言葉も出ない。イザークは、己の気の弱さに忸怩たる思いを抱いた。
「……少しは鍛えたらどう、って言っただけだよ。じゃあね、おでぶさん」
「!」
イザークは呆然と、高貴でこましゃくれた王子の細い背中を見送る。
――何なんだ、何なんだ、何なんだよ、あの餓鬼!
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