そして犬は光を見た

栢野すばる

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主と犬、調教の時間:1

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 王子襲撃事件から、数ヶ月が経った。

「いかがですか、お兄さま」

 乳母オルガから贈られた新年用のドレスを着て、リーザが得意気に微笑む。

「オルガが作ってくれたの。ヴィルとリボンの色がおそろいなのよ」
「ああ、オルガに感謝だな。とても美しいよ」

 ジュリアスは笑顔で妹の絹のような髪をなで、傍らで仏頂面をしているヴィルヘルムを振り返った。
 確かに、胸に同じ色のリボンを付けられている。
 異国風の美貌を引き立てる淡い紫で、ヴィルヘルムの金の瞳によく似合っていたが、母に飾り立てられている少年はふてくされ、口も利かない。

「ヴィル、何を怒ってるの。かわいいわよ、姫様と同じじゃないの」

 リーザの乳母だったオルガが、眉間にしわを寄せているヴィルヘルムを軽く叱りつけた。

「こんな女みたいな服、嫌だ」
「カルターの子どもは、これが正装なんです。殿下の前でなんですか、そんな悪い態度をとって」

 ヴィルヘルムがそっぽを向く。とにかく親にされる何もかもが面白くない年代なのだろう。
 それは、親に愛され、幸せに育った証でもあるとジュリアスは思った。
 まだハイハイをしているヴィルヘルムの弟ウルリヒが、着付けをしているオルガの裾にすがりつく。
 こども好きのリーザが目を輝かせ、『母よ構ってくれ』と泣き叫ぶ赤ん坊を抱き上げた。

「ウルリヒちゃん、あなたのお母様が素敵なドレスを作ってくれたわ」
「あぎゃぅぅ……にゃぅぅ……」
「いい子ねぇ、あら、お兄ちゃまそっくり。可愛いわぁ」

 楽しげに赤ん坊をあやすリーザを見つめ、ジュリアスは胸のうちにこみ上げる想いに蓋をした。

 ——どうして、僕達は二人きりなのだろう。昔、リーザはいつも泣いていた。オルガがヴィルヘルムを連れて帰ってしまうのが嫌だって。どうして僕たちは、この守ってもくれない頑迷な殻に閉じ込められ、息苦しい未来だけを押し付けられて生きていかねばならないんだろう……。
 
 
******
 
 
「おい」

 ジュリアスの不機嫌な声音に、国王づきの近衛隊長は慌てて身をかがめ「いかがなさいましたか」と問うた。
 息子が珍しく怒りを露わにしたことに、国王までもがおや、というように振り返る。

「どうした、ジュリアス」
「いえ」

 黄金の髪をかすかに揺らし、ジュリアスが物言いたげな父王の視線から目をそらした。

「妙な衛兵が城の中に居るなと思って」
「妙な衛兵?!」

 声を尖らせた近衛隊長の前で、慌てたようにジュリアスは首を振った。

「あ、いや、前から見かけている男なんだ。だけど、いつの間にか庭から中に移っていて。紛らわしいことを言ってすまない、隊長」
「いえ……王子の仰るあの者でございますが、ここ最近まじめに仕事に励んでいるということと、腕はどうやら確からしいということで、人事室から移動の辞令があったようで」
「そう、済まなかった」

 まだ不機嫌そうなジュリアスの様子を見つめ、王と近衛隊長は不思議そうに顔を見合わせた。
 これほどに毛を逆立てた王子の姿を、彼らは見たことがなかったのだ。

「余計なことを申しました。父上、参りましょう」
「あ、ああ。うん」

 気を取り直したように王は頷き、歩き出した。
 ジュリアスは、目に暗い光を浮かべたまま廊下の後ろを振り返る。
 華やかな紫紺の瞳は、凍てついたまま、一人の大柄な衛兵の姿を映していた。

********
 
 
「おい」

 不意に降ってきた澄んだ少年の声に、イザークは顔を上げた。貴族の誰かが捨てたゴミが床にこびりついて取れなかったのだ。身分の低い衛兵である彼には、宮中の美化清掃も命じられている。真面目にやっている様子を見せようとするうち、いつしか夢中でベタベタした汚れに夢中になっていた。それで、気づくのが遅れた。

「どうした太っちょ。妙に真面目になって」
「…………」

 イザークは、自分を見下ろす冷たい目を見つめ返した。
 何かを言い返そうとして、宝石のような圧倒的な二対の輝きに押され、口ごもる。

「あの、別に、俺、いや、私は、このように真面目に勤めておりますので」
「同じことしか言わないんだな」

 美貌の王子が鼻で笑い、不意にイザークの前に屈みこむ。

「他の言葉を知らないのか」

 ジュリアスが、随分昔の自分との会話を覚えていたこと、それから、目の前に突き出された圧倒的な美、そのふたつを前に、イザークは怯えて大きな体を縮めた。甘い若木のような香りがイザークの鼻先に漂い、彼の体に焼けるような戦慄が走った。

「い、いえ、殿下」
「じゃあ、別の話をしてみろ」
「は、はなし……」

 あまりのことに、目の前が真っ白になってきた。
 夢想の中で汚すことすら出来ぬほどに思い続けた、宝珠を磨きぬいたような王子の姿がすぐ間近に迫っているという事実に、イザークの心臓が早鐘を打つ。

「じゃあ、僕からの質問だ。なぜ最近、僕の目の前をウロウロしている、変態」
「変態?!」

 ——性癖がバレた。いや、俺は何もしていない。見ていただけだ、きれいな子だなって。手なんか出す気は無いぞ、一国の王子だ、そんな事をしたら俺の首が……!

「ああ、変態だ。お前は僕に劣情を抱く変質者で、僕につきまとう汚れた犬」

 ジュリアスの艶のある唇が、ふと歪んだ。笑み……だが、その形は笑いを意味するものではない。理想の具現とも思える容貌に得体のしれぬ陰りを宿し、ジュリアスが声をひそめて言った。

「誤魔化しても駄目だ、そうだな?」
「……ち、ちがいま……す……」

 イザークの体が、こころと裏腹に情けない反応を示す。興奮する。美しい少年の息がかかる場所にいるという事実に、どうしようもなく、興奮する。真っ赤になっているであろう耳をちらりと見、ジュリアスがクス、と喉を鳴らした。

「ふ……」

 何も言わぬまま、俯いたイザークの前にジュリアスは屈み込み続けた。
 長い沈黙に耐えかね、イザークは恐る恐る顔を上げる。

「!」
 
 彼の目に飛び込んできたジュリアスは、無表情だった。石ころを見るような目で、イザークを見ていた。

「変質者、僕に名前を覚えてほしかったら、半年以内に何か手柄を立ててみろ、そうしたら、また『お話』位はしてやる。じゃあな、若干痩せた豚野郎」
「!」

 豚呼ばわりに、イザークはかっとなり、思わず身を起こした。この三ヶ月、どれだけの思いで体を絞ったことか。いくら恋しき王子にであっても、豚呼ばわりされる筋合いはない。

 もちろん、褒められる道理もないのだが……。
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