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だらしのない男と、金の王子:7
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「最近、君はよく訓練に参加してるな」
「はぁ」
イザークは言って、汗を薄汚れた布で拭った。
訓練にまじめに参加している理由は……。
——認めよう……美貌の王子に懸想し、そして、おのれの容姿がかの王子の傍らに立つにはあまりに醜いことに、耐えられなくなったからだ。あの美しくて賢いガキにいいところを全部持って行かれて、腰抜かして震えているなんて。俺は何をしているんだ。
過度の飲酒を長く続けたせいだろうか、イザークは水太り気味で汗をやたらかく。
今も、服を絞れるほどに汗をかいていた。
「そんなに暑いか。大丈夫か、その汗」
「体が重いんでね」
「だろうな」
教官のあっさりした答えに、イザークの無用に高い挟持が深く傷ついた。
だが愛想笑いを浮かべ、彼は脚につける重しを外して一礼した。
「ありがとうございました。また明後日、よろしくお願い致します」
訓練を受けてよかったことが一つ有る。
それは、酒を飲む間も、娼婦を抱く元気もないままぐっすり眠れることだ。
まともに金が貯まれば、日の当たらない、カビにまみれたあの安い長屋も出られるかもしれない。
イザークはそう思いながら、ずっしりと重いかばんを担ぎあげて、家路をよろよろとたどり始めた。
*******
「きゃっきゃっ」
妹のリーザが、ヴィルヘルムの持つ剣にいたずらしてリボンをまこうとし、笑い声を立てている。
ジュリアスは苦笑して、手元の本に視線を戻した。
「やめろよ、リーザ」
「良いじゃないの、お兄様を助けたご褒美よ!」
リーザとヴィルヘルムは、仲が良い。本当の姉と弟のようだ。
おのれにはそれほど仲の良い人間は居ない、と思い、ふと羨ましくなって、妹達の方をもう一度振り返る。
「ヴィル、もっともっと強くなって、お兄様を毎日守ってあげてね」
「うん」
「約束よ」
「いいよ」
他愛無い会話を聞きながら、ジュリアスは心の何処かで、それは違う、と思った。
この二人は、自分が兄として保護すべき存在なのに……と。
それなのに、そんな大事なふたりを、今日は危険な目にあわせてしまった。
リーザは今でこそ笑顔を浮かべているが、事件後しばらくは息もできないほど泣いていた。ヴィルヘルムのほうは傷ひとつ負っていないが、一歩間違えば命を落としていたかもしれない。
首筋に貼られた血止めの布を撫で、ジュリアスはぼんやりと物思いに耽る。
——父上、僕には生涯の股肱を得るどころか、自分で自分を守る力すらありません。今日は妹達まで危険な目にあわせてしまった。
「ヴィル、お兄様にお菓子を作りましょうよ」
「いいけど」
「じゃあ、善は急げ、よ。行きましょう」
妹がヴィルヘルムの腕を引っ張り、ちょこちょこと走ってゆく。
リーザは歳相応の落ち着きこそ無いものの、気立ての良い、優しい娘だ。怪我をしたジュリアスを慰めようと、努めて明るく振舞っているのに違いなかった。
「…………」
椅子にもたれかかったまま、天井を見上げ、そのまま目をつぶる。
暴漢がやすやすと侵入できる、警備の甘い王城。暴漢に手も足も出なかった自分。そんな自分を助けてくれたのは、大人ではなくたった13歳の少年。なんという、「薄い」国だろう。誰かが本気を出せばあっさり潰せる卵のような、もろく儚い国だ。
ジュリアスの手のひらに汗がにじむ。
——こんな国が、いつまで保つというのだろう……侵略の価値がないから、見逃されているだけだ。
ふと、ぶよぶよとふとり、自分に好色な視線を向けてきた、元色男……だったのであろう豚の視線が、ジュリアスの眼裏に蘇った。
——あれがこの国の騎士団の怠惰さの象徴だ。あんな人間の顔をした豚が王の膝元である城の庭を守っていて、しかも何の役にも立たなかった。そして僕は、ヴィルより4つも歳上なのに、あの暴漢に手も足も出なかった……!
誰もいない部屋で、ジュリアスは両手で顔を覆った。
悔し涙が一筋流れる。地にたたきつけられた魚のように無力なおのれと、己に秋波を送る気持ち悪い衛兵と、根源的な腐臭にまみれているこの国。何もかもが汚らわしく、気持ちが悪く、ジュリアスの肌にベタベタとまとわり付くように感じた。
たまたま王の子に生まれ、たまたま体が細く女のような顔をしているが故に、この重く生臭い澱は、ジュリアスの魂を疲弊させ続けるのだろう。泣こうが喚こうが離れない。きっと、生涯にわたって。
「……っ」
ジュリアスは体を起こし、赤くなった目を抑えた。それから白い顔に笑顔を浮かべ直し、椅子から立ち上がった。
「リーザ!」
小さな作り付けの厨房から、リーザの甲高い返事が返ってきた。
「はあーい」
「僕も今日はそれをやってみる。やり方を教えてくれないか」
「お兄様も一緒に作る?」
パタパタと軽い足音が聞こえ、リーザの小さい顔がひょいと覗いた。
「焼き菓子よ」
「たまには気分転換だ」
「わかりました! 前掛けを用意しておくわ、お兄様」
走り去るリーザの足音を聞きながら、ジュリアスは目を閉じた。
——僕を汚す澱は、消えない。洗い流しても洗い流しても、決して消えない。ならば、全て飲み込んでやろう。どれほどまずく苦痛を伴う味であろうとも、飲み込んで全部僕の周りから消し去ってやる。僕は汚いものは、大嫌いだ。
手袋をはめた手を強く握りしめ、ジュリアスは鏡に映る痩せた自分の姿を見つめた。そこに、好色な醜い衛兵の姿がかぶる。弱い彼をあざ笑う象徴として、幻のその男がジュリアスに粘ついた視線を送ってくる。
「僕を、甘く見たことを、後悔させてやる……いつかじゃない。今だ。今からすぐにでも後悔させてやる。絶対に僕は飲み込まれて消えたりしない。お前たちに消費されもしない、この国にすり潰されたりもしない……!」
「はぁ」
イザークは言って、汗を薄汚れた布で拭った。
訓練にまじめに参加している理由は……。
——認めよう……美貌の王子に懸想し、そして、おのれの容姿がかの王子の傍らに立つにはあまりに醜いことに、耐えられなくなったからだ。あの美しくて賢いガキにいいところを全部持って行かれて、腰抜かして震えているなんて。俺は何をしているんだ。
過度の飲酒を長く続けたせいだろうか、イザークは水太り気味で汗をやたらかく。
今も、服を絞れるほどに汗をかいていた。
「そんなに暑いか。大丈夫か、その汗」
「体が重いんでね」
「だろうな」
教官のあっさりした答えに、イザークの無用に高い挟持が深く傷ついた。
だが愛想笑いを浮かべ、彼は脚につける重しを外して一礼した。
「ありがとうございました。また明後日、よろしくお願い致します」
訓練を受けてよかったことが一つ有る。
それは、酒を飲む間も、娼婦を抱く元気もないままぐっすり眠れることだ。
まともに金が貯まれば、日の当たらない、カビにまみれたあの安い長屋も出られるかもしれない。
イザークはそう思いながら、ずっしりと重いかばんを担ぎあげて、家路をよろよろとたどり始めた。
*******
「きゃっきゃっ」
妹のリーザが、ヴィルヘルムの持つ剣にいたずらしてリボンをまこうとし、笑い声を立てている。
ジュリアスは苦笑して、手元の本に視線を戻した。
「やめろよ、リーザ」
「良いじゃないの、お兄様を助けたご褒美よ!」
リーザとヴィルヘルムは、仲が良い。本当の姉と弟のようだ。
おのれにはそれほど仲の良い人間は居ない、と思い、ふと羨ましくなって、妹達の方をもう一度振り返る。
「ヴィル、もっともっと強くなって、お兄様を毎日守ってあげてね」
「うん」
「約束よ」
「いいよ」
他愛無い会話を聞きながら、ジュリアスは心の何処かで、それは違う、と思った。
この二人は、自分が兄として保護すべき存在なのに……と。
それなのに、そんな大事なふたりを、今日は危険な目にあわせてしまった。
リーザは今でこそ笑顔を浮かべているが、事件後しばらくは息もできないほど泣いていた。ヴィルヘルムのほうは傷ひとつ負っていないが、一歩間違えば命を落としていたかもしれない。
首筋に貼られた血止めの布を撫で、ジュリアスはぼんやりと物思いに耽る。
——父上、僕には生涯の股肱を得るどころか、自分で自分を守る力すらありません。今日は妹達まで危険な目にあわせてしまった。
「ヴィル、お兄様にお菓子を作りましょうよ」
「いいけど」
「じゃあ、善は急げ、よ。行きましょう」
妹がヴィルヘルムの腕を引っ張り、ちょこちょこと走ってゆく。
リーザは歳相応の落ち着きこそ無いものの、気立ての良い、優しい娘だ。怪我をしたジュリアスを慰めようと、努めて明るく振舞っているのに違いなかった。
「…………」
椅子にもたれかかったまま、天井を見上げ、そのまま目をつぶる。
暴漢がやすやすと侵入できる、警備の甘い王城。暴漢に手も足も出なかった自分。そんな自分を助けてくれたのは、大人ではなくたった13歳の少年。なんという、「薄い」国だろう。誰かが本気を出せばあっさり潰せる卵のような、もろく儚い国だ。
ジュリアスの手のひらに汗がにじむ。
——こんな国が、いつまで保つというのだろう……侵略の価値がないから、見逃されているだけだ。
ふと、ぶよぶよとふとり、自分に好色な視線を向けてきた、元色男……だったのであろう豚の視線が、ジュリアスの眼裏に蘇った。
——あれがこの国の騎士団の怠惰さの象徴だ。あんな人間の顔をした豚が王の膝元である城の庭を守っていて、しかも何の役にも立たなかった。そして僕は、ヴィルより4つも歳上なのに、あの暴漢に手も足も出なかった……!
誰もいない部屋で、ジュリアスは両手で顔を覆った。
悔し涙が一筋流れる。地にたたきつけられた魚のように無力なおのれと、己に秋波を送る気持ち悪い衛兵と、根源的な腐臭にまみれているこの国。何もかもが汚らわしく、気持ちが悪く、ジュリアスの肌にベタベタとまとわり付くように感じた。
たまたま王の子に生まれ、たまたま体が細く女のような顔をしているが故に、この重く生臭い澱は、ジュリアスの魂を疲弊させ続けるのだろう。泣こうが喚こうが離れない。きっと、生涯にわたって。
「……っ」
ジュリアスは体を起こし、赤くなった目を抑えた。それから白い顔に笑顔を浮かべ直し、椅子から立ち上がった。
「リーザ!」
小さな作り付けの厨房から、リーザの甲高い返事が返ってきた。
「はあーい」
「僕も今日はそれをやってみる。やり方を教えてくれないか」
「お兄様も一緒に作る?」
パタパタと軽い足音が聞こえ、リーザの小さい顔がひょいと覗いた。
「焼き菓子よ」
「たまには気分転換だ」
「わかりました! 前掛けを用意しておくわ、お兄様」
走り去るリーザの足音を聞きながら、ジュリアスは目を閉じた。
——僕を汚す澱は、消えない。洗い流しても洗い流しても、決して消えない。ならば、全て飲み込んでやろう。どれほどまずく苦痛を伴う味であろうとも、飲み込んで全部僕の周りから消し去ってやる。僕は汚いものは、大嫌いだ。
手袋をはめた手を強く握りしめ、ジュリアスは鏡に映る痩せた自分の姿を見つめた。そこに、好色な醜い衛兵の姿がかぶる。弱い彼をあざ笑う象徴として、幻のその男がジュリアスに粘ついた視線を送ってくる。
「僕を、甘く見たことを、後悔させてやる……いつかじゃない。今だ。今からすぐにでも後悔させてやる。絶対に僕は飲み込まれて消えたりしない。お前たちに消費されもしない、この国にすり潰されたりもしない……!」
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