そして犬は光を見た

栢野すばる

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最終話:そして犬は光を見た

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「お兄さま」

 リーザが頬にミミズ腫れを作って、ジュリアスに駆け寄ってきた。
 いつものように満面の笑顔で、古びたドレスに、新品のリボンを頭につけている。あれは、正妃の産んだ王女……ジュリアスの異母姉たちの誰かが、王妃の目を盗んで結ってくれたものなのだろう。母の目に余る嫉妬と継子いじめは、彼女らすらも辟易とさせているらしい。

「リーザ、どうした、その顔」
「樹の枝でひっかきました」

 甘えた笑顔のまま、リーザが言う。
 
 ——バカを言うな。四本指の揃った樹の枝があるものか。

 長く爪を伸ばしている正妃の手を思い出し、ジュリアスは笑みを消す。

「お兄さま?」
「…………」

 涙がにじむ。リーザのふわふわとしたやわらかな髪に顔をうずめ、ジュリアスは歯を食いしばった。

「リーザ、そんな嘘を僕にまでつくな。あの女にやられたんだろう」
「お兄さま……」

 リーザがじっと、ジュリアスの胸に小さな頭をあずける。それから、シクシクと泣きだした。

「ごめんなさい。私が王妃様のお化粧品をいじったの。見てみたくて。だから叩かれたのよ。ごめんなさい、お兄さま」
「お前は悪くない。普通の女性は、そんなことで子供を叩いたりしないんだよ……おいで、薬を塗ろう」

 泣いている妹の絹のような頬に薬を塗りながら、ジュリアスはぼんやりと思う。

 ——女の子のお前に傷が残ったらどうしよう。リーザ、僕は、お前を守れるんだろうか。手当たりしだいの何もかもが憎いのに、どんなものにも対抗できない弱い僕が……。

 その言葉を必死で飲み込む。これから背負わねばならぬ全てが、ジュリアスには重すぎ、苦しすぎるのだ。

「もう大丈夫だ」
「ありがとう、お兄様」
 
 リーザがえくぼを作り、花紫の目を細めて言った。

「もう痛くないわ」
「そう、良かった」

 リーザの愛らしい笑顔に、作り笑いを返しながらジュリアスは思った。

 ——どんな汚穢も飲み込むつもりではなかったのか。うそつきジュリアス、今のお前は、何に対しても怯え、負けてばかり居る子供だ。泣いて喚いて爪を噛み、人前でだけ大丈夫な自分を取り繕っている情けない餓鬼……!

 爪の色が変わるほど拳を握りしめ、ジュリアスは妹の髪をなでた。

「ヴィルとおやつでも食べておいで。僕は父上に呼ばれているから」

 ジュリアスの脳裏に、おのれの姿を光のない目で見つめている男色家の姿が蘇った。胃の腑にこみ上げるものを必死にこらえ、ジュリアスは深く息を吸い込んだ。

 ——まず、超えるべきものが有るではないか。僕は、絶対に貪られるだけの甘い餌では終わらない。僕はリーザを守る。僕たちに降り掛かる火の粉は、いずれ全部振り払ってみせる。
 
 
*****
 
 
「おい」

 休憩時間、必死で昇進の試験要項を読んでいたイザークは顔を上げた。周囲の人間も、驚いたようにイザークに声をかけた少年を振り返る。

「で、殿下」
「君は、文字が読めないのか」

 今朝のジュリアスは、先日の夜の狂乱が嘘のような、落ち着いた表情だった。

「あ、あの、多少は読めます……」
「ふうん」

 薄く積もった雪をさりさりと踏みしめて近づき、白い華奢な顎に指を当て、ジュリアスが薄く笑った。見れば見るほど、心が甘く病んでいくような美しさだ。ジュリアスはイザークの視線など気にも留めない様子で、試験要項にざっと目を落として言った。

「試験には実技と筆記がある。来年の三月の実施だ、文字が読み書きできなければ筆記はきびしいだろうな」
「は、はい……」
「僕の近衛隊の選抜も近いうちに始まる。来年か、再来年だろうけれど」
「…………」

 自分には関係のない話だ。俯いたイザークの前で軽く顎をしゃくり、ジュリアス王子が庭の人気のない方へ歩いてゆく。イザークは、ふらふらとその華奢な背中を追った。

「男性王族の近衛隊には、人並み外れて有能で容貌が優れ、選抜試験の成績がいいものが選ばれる。当然、お前など選ばれるはずがないね」

 周囲の目がなくなった瞬間、ジュリアスの声が、踏みしめる雪のような冷たさを帯びる。
 イザークは怯えて身を縮め、言い訳のように口にした。

「そ、そんなの、俺にも」

 ——解ってる。俺にも解ってる。あなたが天の星で、俺が地をはうウジ虫だということは分かっているんだ。どうか、心に抱く宝だけは見逃してくれ。一生ここから出さないから。俺には何もない。これしかいいもん、持ってないんだよ。

「ああ、そうだ、お前も分かっている通りだ」
「…………」
「本当に、鬱陶しい男だな」

 ジュリアスの紫紺の瞳が、凍てついた光を讃えてイザークを見つめた。

「お前の視線は本当に鬱陶しい。僕を愛しているというなら、僕のために死んでくれ、と思うくらい鬱陶しいよ。お前さえいなければ、僕はお前の汚らわしい視線にさらされず、伸びやかに生きていくことができるといつも思っている」

 イザークは、歪んだ顔を隠すように俯いた。ここまで拒絶され、蔑まれる。ただ生きているだけで、俺はこのひとの汚れだ。イザークはそう実感した。

「だが、もうひとつ考えていることがあるんだ」

 澄んだジュリアスの声が、不意に残酷な笑いを秘めて、その重みを増す。

「僕は、犬を飼ってみたい」
「い、ぬ……」
「僕が命じれば、どこまでも投げた骨を拾いに行く、忠実で丈夫な犬だ、はは、ははは、きっと、そんな犬を飼えば便利だろう。何も持っていない僕の、唯一の下僕、唯一の生ける肉の盾だ。僕のために生きることしか知らない犬が、僕は欲しい、はは、あははは!」
 
 ジュリアスの言葉に、意味不明な笑いがまじり始める。あっけにとられたイザークの前で、ジュリアスが細い指で顔を覆った。その指の間から、透明なしずくが、ひとつ、ふたつ、次々にこぼれ落ちて、雪の上に小さな穴を開けた。

「……リーザは僕が守る」
「殿下……?」
「リーザは僕が守る。あの子を守るためなら、なんでもする。どんな……おぞましい生き物だって飼いならしてみせる、なあ、男色家、お前は僕に近づきたいのだろう」
「で、殿下、あの」
「もしそうだというなら、死ぬほど勉強して、死ぬほど鍛えて、僕の近衛に合格してみせろ。そうしたらお前が手柄を立てたと認めてやる。試験の選考は公平だ。もし正規な手段を持ってお前が僕の前に立つなら、僕は、お前の、名前を覚えてやる」

 ジュリアスが雪の上にしゃがみ込み、すすり泣くように言った。

「もう行け。お前の顔を見ていたくない。次にお前に合うのは、選抜後だ。じゃあな、駄犬野郎」

 全身から拒絶の気配を漂わせ、細い体を震わせながら、ジュリアスは叫んだ。

「行けよ!」

 呆然としていたイザークは、突き飛ばされたように背後によろめく。それから、後退りして踵を返し、雪の上を走りだした。

 ——お前の、名前を覚えてやる。

 王子のその言葉が、くすんだイザークの心に鮮やかな光を広げる。冷えきった庭を走りながら、イザークはもう一度、王子の言葉を繰り返した。お前の、名前を覚えてやる。冷えて痒みの広がった脚に羽が生え、視界が明るく開けたように思えた。イザークは庭を走けぬけ、休憩所に転がり込んで、貪るように試験要項を読み始めた。
 すらすらと読めないことが癪だった。だが、確か貧民向けの文字教室があったはず。それに、衛兵に開放された勉強室も。
 これまで倦怠やあきらめとともに見逃してきた様々なものが、一斉にイザークにささやきかけた。希望は、小さくても有る、と。
 
 
******
 
 
 五年後、四十の声を聞いたイザークは、王子ジュリアスの前に立っていた。以前の彼からは考えられぬ細身の服をまとい、きらびやかな金の飾りを肩につけて。

「君たちが僕の近衛隊か」

 美しい青年となった王子が、愛想のいい笑顔を浮かべて立ち上がる。
 一人ひとりに声をかけ、最後にイザークの顔を見上げた。

「どうも、はじめまして。イザーク君だね」

 淡い笑みをたたえた顔からは、何も読み取ることが出来ない。イザークはおのれの視線のしつこさを必死で打ち消し、この数年で身につけた愛想笑いを浮かべ直した。

「はい。お見知り置きを、殿下」
「珍しいね、この歳で合格するなんて。でも構わない。僕はやる気を重視するよ」

 差し伸べられた白い手袋をはめた手を、イザークは力を込めて握り返した。

「ありがとうございます」
「うん」

 満足そうにうなずき、ジュリアスが合格者を振り返って言った。

「取り敢えず今日は、祝賀会を開く。皆、思い思いに楽しんでくれたまえ」

 華やかな容貌の若い青年たちが、楽しげに笑いさざめく。イザークは姿勢を正してその光景を見守った。今では男を抱きたいとも、女でことを済ませたいとも思わない。そのような欲求は、ここに立つ夢をかなえるためにすべて削り尽くした。実際、今のイザークは、王子への形のない激情だけを抱いているだけの『生きた何か』だった。

「そうだ、イザーク君はこっちへ」
「はい」

 ジュリアスに呼ばれ、イザークは流れるような礼を返して、その後に従う。彼が入ってゆく小部屋は、どうやら宴の折に、貴婦人たちが化粧を直すための場所のようだった。鏡が有り、いくつかの道具が置かれている。ただ、近衛隊候補の宴が開かれるこの場に女性はいない。

「久し振りだ」

 ジュリアスが、小さく喉を鳴らす。

「!」
「いい犬になった。思ったより、悪くない」

 犬……その言葉が、イザークの心に何かを呼び覚ました。数年の間に形を失ったジュリアス王子への執着が、主によって名前を与えられ、再びはっきりとした輪郭を取り戻す。

 ——そうだ、俺は、この人の犬になりに来たんだ。
 
「あ、あの、殿下」

 何かを言おうとしたイザークの胸を、ジュリアスが強く突き飛ばした。不意のことによろけたイザークの分厚い体を細い腕で壁に押し付けたまま、ジュリアスが紫紺の瞳に氷のような光を浮かべて、言った。

「始めに言っておく。男色家。僕はお前の餌にはならない、お前の汚ない手を、僕に触れさせはしない」
「な、っ……」

 そんなつもりでこの場所まで登って来たのではない。首をふろうとしたイザークの動きが、不意に止まった。
 おのれの唇に、ジュリアスのそれが重なっていたからだ。ジュリアスの柔らかな唇はしばし留まり、わななき、飛び退くように離れる。甘い余韻が、イザークの鼻先を掠めた。

「今のは、一生分の前払いだ。それで満足してくれ。これ以上お前にくれてやれる『僕』はない」
「あ、あ、殿下……」

 頭が真っ白になり、何も言えない。口をパクパクさせているイザークの前で、ジュリアスがぐい、と唇を拭った。

「……僕はお前の性癖に関する秘密を守る。お前も僕のしでかした事を黙っていてくれ。罪のないお前に靴の先を食わせ、こんな風にくちづけをしたという秘密をね。僕たちは生涯、罪を共有する。悪くはないだろう?」

 幼さの抜けた紫紺の瞳が、不意に刃のようにきらめく。イザークは、壁に張り付いたまま『主』の言葉を待った。

「どれだけ有能な犬に育ったのか、これからたっぷり見せてもらおう。……行こう、イザーク君」







 それが、犬と主の出会いだった。その日が『すべて』の始まりとなった。
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