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後日談:灰の中の潰え星
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イザークは、目を押さえた。緩やかに視力を失ってゆく彼の世界は、常に春の霞のように散漫だった。
目が、どんどん見えなくなる。麗しい主の姿も、今では遠目に見つける事は難しい。
だが、まだだ。まだ犬としての役目は果たせる。
鍛え絞り上げた胸に左の拳を押し当て、イザークは瞑目した。
春霞の温さとはほど遠い凍てつく風が、雪明かりの庭に佇むイザークの体から熱を攫う。
「大学なんて、俺には縁がない場所だな」
カルター王立大学の赤いレンガの建物が、月の光に照らされて淡く輝いて、イザークの視界で滲んでいる。
壁の一部が四角く切り取られ、淡く輝いている。あの窓の向こうでは、イザークの主がつかの間、愛する女を抱いているはずだった。
「利口な女、か」
主・ジュリアスが恋うたのは、自分とは正反対の女だった。不世出の天才と呼ばれる、男勝りの才女。
イザークはジュリアスの恋人である女……エリカ・シュタイナー博士の事を思い浮かべ、安堵の思いで息を吐き出した。
ジュリアスが愛したのが女でよかった。自分と真逆の、天に輝く星のような女で良かった。
卑近な存在と比べられ、自分だけが選ばれないなどきっと耐えられない。
あの『恋』が『別の世界』で起きた事であれば、思考は容易に停止させることが出来る。
手綱に繋がれた犬のように窓の下にじっと佇み、イザークは白い息を吐き出した。
ここで阿呆のように突っ立って待ち続けていれば、ジュリアスはいずれ、顔色ひとつ変えずに戻って来るだろう。
それから、馬車をはやく回して来いと抑揚の無い声音で告げるに違いない。
いつもの事だ。
イザークは口元を手で覆い、息を吹きかけた。
今夜はひときわ寒い。
イザークの体はローゼンベルクの圧倒的な寒気を忘れ、王都のぬるま湯のごとき冬にすら悲鳴を上げるようになって来た。
彼が四十の声を聞いて、五年近いときが経とうとしている。目の病に、体の衰え。老いはある日無慈悲に始まり、イザークの体を浸食し始めた。それは止めようも無く、公平で、やるせない事実だった。誰の上にも、等しく時は流れるのだろう。公平な世界などとは無縁に生きて来たイザークにも、平凡に生まれ、平凡を享受する全ての人々にも。
骨をきしませる冷気を誤摩化すように、イザークは顔を上げた。
老いさらばえようと、体が動くのであれば構わない。主に向けられた刃を一度は止める盾にもなれるはずだ。
お前は僕のため死ね。憎悪に満ちた美しい少年の涙を心の深い場所から取り出し、イザークはそっと目をつぶった。
口の中に憎しみも愛も、色違いの激情だと彼には思える。無視と憎悪、選ぶならば、迷う事無く憎悪を浴びせられたい、とイザークは思った。
「寒いな」
女の声もジュリアスの声も、分厚い壁の向こうから漏れては来なかった。
樹々を揺らす風の音、その枝から落ちる雪の音だけが、時折イザークの耳を驚かすばかりだった。
だが……。
「イザーク」
いつになく虚ろな声が、イザークの耳に届いた。
「イザーク、エリカが死んだ」
振り返ったイザークの目に、赤黒く染まったジュリアスの姿が飛び込んで来る。
イザークは弾かれたように駆け出し、血に汚れたジュリアスの上着をはぎ取る。
「お怪我は!」
血は全て、返り血のようであった。
ジュリアスは傷を庇うような仕草をしていないし、呼吸も正常だ。だが厚手の外套をびっしょり濡らす程の血液とは尋常ではない。
「エリカが死んだ」
首を振ってそう繰り返すジュリアスの汚れた外套を脱がせ、イザークは己の身につけていた、近衛隊長の外套を着せ掛けた。それから、血なまぐさい王の外套を丸めて雪の上に放り出す。じわじわと、白い雪に赤い染みが広がってゆく。
寒さに歯を食いしばり、外套のボタンをとめ終え、イザークはジュリアスの顔を覗き込む。輝かしい紫紺の瞳は光を失い、虚空を彷徨っていた。
「何があったのですか」
「エリカに、もう助からないから、最後は抱いていてくれと頼まれたんだ。だから僕は言われた通りにした」
雪混じりの風が、ジュリアスの声をかき消す。ぐらぐらと体を揺らしているジュリアスの体を押さえ、イザークは叱咤を込めて声を荒げた。
「何を言って仰るのです! 博士がお怪我をなされているのであれば、早く医者をお呼びせねば。陛下!」
「僕が見つけたときは、もう、手遅れだったんだ」
重さの全くない煙のように、ジュリアスがふらりと足を踏み出す。イザークは言葉も無く、魂の抜けたような主の背を見送った。
「……この国の」
「え?」
「この国の、頭脳を殺した人間に、鉄槌を下さないとね」
他人事のような口調で、ぼんやりとジュリアスが言う。
それから驚いたように己の纏うぶかぶかの上着を確かめた。
「ん? なんだ? っ、はは、あはは、僕は近衛隊に入隊したのか」
魂の去ったようなジュリアスの姿に、イザークはかける言葉を失った。ジュリアスがゆら、と首を傾げ、イザークを振り返って目を細める。砂を詰め込んだような光も力も無い眼差しを受け止めた瞬間、イザークの全身に鳥肌が立った。
イザークは、ジュリアスの前に膝をつく。雪がゆっくりと溶けて膝を濡らし始める。
「陛、下」
イザークの心に、糊のようにべたついた絶望が広がってゆく。
美しい天上の星が砕けようとしている。底知れぬ闇が、イザークの焦がれる美しい星を空から振り落とそうとしているのだ。
「陛下! お気を確かに!」
イザークは立ち上がって、改めてジュリアスの痩せた肩を激しく揺さぶった。
「陛下は、この国の王にございます! 何を世迷い言をもうしておられるのか」
そこで初めて、ジュリアスの顔にべったりと赤い指紋が付いている事に、イザークは気付いた。血にまみれた手で頬を撫でた痕。
これは『エリカ博士』の指紋なのか。死の間際に、彼女がジュリアスに触れた証に違いない。赤茶けた指紋がジュリアスに刻み込まれた烙印のように見える。イザークは慌てて懐から手巾を取り出し、ジュリアスの顔を擦った。
「ご無礼を、陛下。お顔が汚れております」
まるで嗚咽のような息を吐き出しながら、イザークは思った。この痕だけは拭いたい。何としてもこの痕だけは、と。
「……汚れ?」
ジュリアスが驚いたように、血で真っ赤に汚れた手で、己の顔に触れた。
乾き始めた手が、新たにジュリアスの顔をべったりと汚す。
「なりません、陛下、陛下のお手も汚れておいでです」
イザークは、手巾を握りしめたまま首を振った。何度も何度も首を振る。
——陛下を汚す資格などこの世の誰にも有りはしない。どこの誰が、この御方を汚した!
ぼんやりと己の汚れた手を見つめているジュリアスの首に、巻きっぱなしだった襟巻きを外して巻き付け、イザークはその腕をそっと引いた。
「陛下、いったん、城に戻りましょう」
兎にも角にも、この場所から急いでジュリアスを去らせねばならない。王を醜聞に晒す訳にはゆかない。近衛隊長としての判断力が、ようやくイザークに戻って来た。
ジュリアスがイザークに腕を引かれ、よろけながら歩き出す。彼の虚ろな目に、光は戻っていなかった。あのジュリアスから、彼らしい気の強さ、気高さを全て失わせた絶望の深さが、イザークの体を芯から震わせた。
魂が半ば去ったかのようなジュリアスの挙措。彼は、イザークがいかに身を挺し立ちはだかっても、盾になる事も出来ない目に見えぬ敵に消えぬ傷を負わされたのだ。悲劇の前には、イザークの存在など、紙一枚ほどの守りにもならなかったのだ。
「陛下、お気を確かに」
いったん放り捨てた汚れた上着を拾い上げ、イザークは留めておいた馬車に急ぐ。
宝石のような双眸は濁り、端麗な顔は弛緩して、何の表情も浮かべていない。
今のジュリアスは、星の燃え滓のようだった。イザークが焦がれ、愛し続けた星が、灰の中で潰えてゆく。
イザークは雪を踏みしめながら、震えを誤魔化すように唇を強く噛んだ。
にごりゆくイザークの目に映るただひとつの光は、永遠に失われるのか。
「イザーク……」
馬車に押し込めたジュリアスが、我に返ったように上着を脱ぎ、彼に差し出した。襟巻きも外し、青ざめた顔で彼に差し出す。
「取り上げて済まない。馬を御すのだろう。お前が着てくれ」
イザークは一礼して、返された己の上着を羽織り直した。微かな血の匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
☆☆☆☆
「リーザをレオンハルトに嫁がせようと思う」
ジュリアスの唐突な言葉に、イザークはかすかに目を見張った。
姫はいま、『お仕置き』の名目で、塔の一室に軟禁されている。
新型火薬の製法を知る姫の安全を確保するための措置であったが、姫はエリカ博士の死を嘆き、泣き濡れて暮らしていると聞く。
「あの子をレヴォントリの巫女に洗脳させ、新型火薬とエリカの記憶を消させた上で、ローゼンベルク辺境領へ送るんだ。あの土地はレオンハルトが完全に掌握している。ここで僕が守るより、安全なはずだ」
何の感情も無い、目の前の石をどこかにどかそう、とでも言うような口調だった。
博士の死の夜からずっとそうだ。ずっとジュリアスは、不格好な星の燃え滓のようになってしまった。
「リーザ様を?」
「ああ、この城から出す」
あれほど執着し、溺愛して来た妹姫の手を離すというのか。愛するものをまた一つ切り離し、ジュリアスはどこへ行こうとしているのか。
イザークは何かを問いかけ、止めた。
ジュリアスがどこへ行くのだとしても、諌める気などイザークには無い。
犬と星は、会話などかわさない。犬は星の光に惹かれて不毛な砂漠を歩き続けるだけ。そして星は、地上の犬のことなど省みることなく、美しく輝き続けるだけ。そのはずだったのに。
「さようでございますか」
愛らしい妹姫の笑顔を思い浮かべ、イザークは頷いた。
「姫様の未来に、幸あらん事を」
「うん」
ジュリアスが小さな声で言って、疲れたように目を伏せた。
「お前も出て行きたければ、出て行っていい。今程度に仕事ができれば、他の雇い口も見つかるだろう」
イザークは言葉を失い、それから首を振った。
「私は新しい仕事など探しておりませんので」
「それはお前の都合だ。僕はお前の面倒を見るのに疲れた。王でいるのにも疲れたし、生きているのにも疲れたよ」
ジュリアスの声は乾き切っていた。
だが、王の無視にも無関心にも、軽蔑にも馴れ切っている。イザークはジュリアスの前で、あえて笑顔を作った。
「さようでございますか。転職か……。私の新しい主は見つかるでしょうか」
知った事ではない、と言わんばかりにジュリアスが顔を背けた。
不快そうな表情に、イザークの心が小さく踊る。陛下が、怒りを思い出してくださった。イザークは小さな確信を得、薄い笑いを浮かべた。
もっと、もっとお怒り下さい、ジュリアス様。貴方の嫌う犬を睨みつけ、つばを吐きかけ、その怒りの炎で再び天に駆け上がって下さい。そう言いたいのを堪え、イザークは言葉を続けた。
「私が剣を捧げたいのは、気に食わない事があれば靴を口にねじ込んできて、さらにはその口封じに、口づけをして下さるような主です。一から探し直すのは、骨が折れますな」
「きさ、ま」
鞭で打たれたように、ジュリアスの目つきが鋭くなる。
紗が降りたような紫紺の瞳に、刃のような光がひらめき、イザークの歪んだ薄笑いの表情を映し出した。
ジュリアスが久々に見せた強い不快の表情だった。イザークは勇気づけられ、言葉を続けた。
「もしよろしければ、新しい働き口をご紹介いただけますか、ご主人様。同等の刺激を下さる主にお仕え出来る、という話であれば、検討しない事もありません」
「余計なおしゃべりだけは一人前だな、駄犬」
恥部を暴き立てる言葉を耳にしたジュリアスの体に、怒りがみなぎる。嫌悪、拒絶、そしていくら殴りつけても離れてゆかない『飼い犬』への強い依存。ジュリアスの反応に心から満足し、イザークは大仰に手を広げて、肩をすくめてみせた。
「おや、駄犬呼ばわりですか。素敵だ。あなたより高慢で世間知らずで我が儘な飼い主など、到底見つかるとは思えませんね」
「相変わらず、お前は本当に気持ちが悪い。反吐が出る」
氷のような頑なな無表情が、ジュリアスの表情を覆い尽くしていた。
イザークの心をかつて射抜いた輝きが、再びイザークの心の同じ場所を刺し貫く。美しい。この方は、美しい。久々に感じた胸の高鳴りに、知らず、イザークはため息を漏らす。
嫌そうに顔を向けるジュリアスに一歩歩み寄り、イザークは笑顔のまま、言った。
「陛下のお嫌いになる何もかもが、生まれつきですので」
「最悪だ」
ジュリアスが、わずかに肩を揺らした。
傷ついたか弱い小鳥が自分の足で立ち上がる様子を見守り、イザークは満足の溜息を漏らす。
——そうだ、そうやって再び空へと舞い上がり、輝く黄金の星に戻ってくれ。濁って失われてゆくこの目を焼く、眩い光でありつづけてくれ。悲しみに沈んだまま腐ってゆく主の姿など、俺は見たくないのだ。
イザークは、そう思った。
目が、どんどん見えなくなる。麗しい主の姿も、今では遠目に見つける事は難しい。
だが、まだだ。まだ犬としての役目は果たせる。
鍛え絞り上げた胸に左の拳を押し当て、イザークは瞑目した。
春霞の温さとはほど遠い凍てつく風が、雪明かりの庭に佇むイザークの体から熱を攫う。
「大学なんて、俺には縁がない場所だな」
カルター王立大学の赤いレンガの建物が、月の光に照らされて淡く輝いて、イザークの視界で滲んでいる。
壁の一部が四角く切り取られ、淡く輝いている。あの窓の向こうでは、イザークの主がつかの間、愛する女を抱いているはずだった。
「利口な女、か」
主・ジュリアスが恋うたのは、自分とは正反対の女だった。不世出の天才と呼ばれる、男勝りの才女。
イザークはジュリアスの恋人である女……エリカ・シュタイナー博士の事を思い浮かべ、安堵の思いで息を吐き出した。
ジュリアスが愛したのが女でよかった。自分と真逆の、天に輝く星のような女で良かった。
卑近な存在と比べられ、自分だけが選ばれないなどきっと耐えられない。
あの『恋』が『別の世界』で起きた事であれば、思考は容易に停止させることが出来る。
手綱に繋がれた犬のように窓の下にじっと佇み、イザークは白い息を吐き出した。
ここで阿呆のように突っ立って待ち続けていれば、ジュリアスはいずれ、顔色ひとつ変えずに戻って来るだろう。
それから、馬車をはやく回して来いと抑揚の無い声音で告げるに違いない。
いつもの事だ。
イザークは口元を手で覆い、息を吹きかけた。
今夜はひときわ寒い。
イザークの体はローゼンベルクの圧倒的な寒気を忘れ、王都のぬるま湯のごとき冬にすら悲鳴を上げるようになって来た。
彼が四十の声を聞いて、五年近いときが経とうとしている。目の病に、体の衰え。老いはある日無慈悲に始まり、イザークの体を浸食し始めた。それは止めようも無く、公平で、やるせない事実だった。誰の上にも、等しく時は流れるのだろう。公平な世界などとは無縁に生きて来たイザークにも、平凡に生まれ、平凡を享受する全ての人々にも。
骨をきしませる冷気を誤摩化すように、イザークは顔を上げた。
老いさらばえようと、体が動くのであれば構わない。主に向けられた刃を一度は止める盾にもなれるはずだ。
お前は僕のため死ね。憎悪に満ちた美しい少年の涙を心の深い場所から取り出し、イザークはそっと目をつぶった。
口の中に憎しみも愛も、色違いの激情だと彼には思える。無視と憎悪、選ぶならば、迷う事無く憎悪を浴びせられたい、とイザークは思った。
「寒いな」
女の声もジュリアスの声も、分厚い壁の向こうから漏れては来なかった。
樹々を揺らす風の音、その枝から落ちる雪の音だけが、時折イザークの耳を驚かすばかりだった。
だが……。
「イザーク」
いつになく虚ろな声が、イザークの耳に届いた。
「イザーク、エリカが死んだ」
振り返ったイザークの目に、赤黒く染まったジュリアスの姿が飛び込んで来る。
イザークは弾かれたように駆け出し、血に汚れたジュリアスの上着をはぎ取る。
「お怪我は!」
血は全て、返り血のようであった。
ジュリアスは傷を庇うような仕草をしていないし、呼吸も正常だ。だが厚手の外套をびっしょり濡らす程の血液とは尋常ではない。
「エリカが死んだ」
首を振ってそう繰り返すジュリアスの汚れた外套を脱がせ、イザークは己の身につけていた、近衛隊長の外套を着せ掛けた。それから、血なまぐさい王の外套を丸めて雪の上に放り出す。じわじわと、白い雪に赤い染みが広がってゆく。
寒さに歯を食いしばり、外套のボタンをとめ終え、イザークはジュリアスの顔を覗き込む。輝かしい紫紺の瞳は光を失い、虚空を彷徨っていた。
「何があったのですか」
「エリカに、もう助からないから、最後は抱いていてくれと頼まれたんだ。だから僕は言われた通りにした」
雪混じりの風が、ジュリアスの声をかき消す。ぐらぐらと体を揺らしているジュリアスの体を押さえ、イザークは叱咤を込めて声を荒げた。
「何を言って仰るのです! 博士がお怪我をなされているのであれば、早く医者をお呼びせねば。陛下!」
「僕が見つけたときは、もう、手遅れだったんだ」
重さの全くない煙のように、ジュリアスがふらりと足を踏み出す。イザークは言葉も無く、魂の抜けたような主の背を見送った。
「……この国の」
「え?」
「この国の、頭脳を殺した人間に、鉄槌を下さないとね」
他人事のような口調で、ぼんやりとジュリアスが言う。
それから驚いたように己の纏うぶかぶかの上着を確かめた。
「ん? なんだ? っ、はは、あはは、僕は近衛隊に入隊したのか」
魂の去ったようなジュリアスの姿に、イザークはかける言葉を失った。ジュリアスがゆら、と首を傾げ、イザークを振り返って目を細める。砂を詰め込んだような光も力も無い眼差しを受け止めた瞬間、イザークの全身に鳥肌が立った。
イザークは、ジュリアスの前に膝をつく。雪がゆっくりと溶けて膝を濡らし始める。
「陛、下」
イザークの心に、糊のようにべたついた絶望が広がってゆく。
美しい天上の星が砕けようとしている。底知れぬ闇が、イザークの焦がれる美しい星を空から振り落とそうとしているのだ。
「陛下! お気を確かに!」
イザークは立ち上がって、改めてジュリアスの痩せた肩を激しく揺さぶった。
「陛下は、この国の王にございます! 何を世迷い言をもうしておられるのか」
そこで初めて、ジュリアスの顔にべったりと赤い指紋が付いている事に、イザークは気付いた。血にまみれた手で頬を撫でた痕。
これは『エリカ博士』の指紋なのか。死の間際に、彼女がジュリアスに触れた証に違いない。赤茶けた指紋がジュリアスに刻み込まれた烙印のように見える。イザークは慌てて懐から手巾を取り出し、ジュリアスの顔を擦った。
「ご無礼を、陛下。お顔が汚れております」
まるで嗚咽のような息を吐き出しながら、イザークは思った。この痕だけは拭いたい。何としてもこの痕だけは、と。
「……汚れ?」
ジュリアスが驚いたように、血で真っ赤に汚れた手で、己の顔に触れた。
乾き始めた手が、新たにジュリアスの顔をべったりと汚す。
「なりません、陛下、陛下のお手も汚れておいでです」
イザークは、手巾を握りしめたまま首を振った。何度も何度も首を振る。
——陛下を汚す資格などこの世の誰にも有りはしない。どこの誰が、この御方を汚した!
ぼんやりと己の汚れた手を見つめているジュリアスの首に、巻きっぱなしだった襟巻きを外して巻き付け、イザークはその腕をそっと引いた。
「陛下、いったん、城に戻りましょう」
兎にも角にも、この場所から急いでジュリアスを去らせねばならない。王を醜聞に晒す訳にはゆかない。近衛隊長としての判断力が、ようやくイザークに戻って来た。
ジュリアスがイザークに腕を引かれ、よろけながら歩き出す。彼の虚ろな目に、光は戻っていなかった。あのジュリアスから、彼らしい気の強さ、気高さを全て失わせた絶望の深さが、イザークの体を芯から震わせた。
魂が半ば去ったかのようなジュリアスの挙措。彼は、イザークがいかに身を挺し立ちはだかっても、盾になる事も出来ない目に見えぬ敵に消えぬ傷を負わされたのだ。悲劇の前には、イザークの存在など、紙一枚ほどの守りにもならなかったのだ。
「陛下、お気を確かに」
いったん放り捨てた汚れた上着を拾い上げ、イザークは留めておいた馬車に急ぐ。
宝石のような双眸は濁り、端麗な顔は弛緩して、何の表情も浮かべていない。
今のジュリアスは、星の燃え滓のようだった。イザークが焦がれ、愛し続けた星が、灰の中で潰えてゆく。
イザークは雪を踏みしめながら、震えを誤魔化すように唇を強く噛んだ。
にごりゆくイザークの目に映るただひとつの光は、永遠に失われるのか。
「イザーク……」
馬車に押し込めたジュリアスが、我に返ったように上着を脱ぎ、彼に差し出した。襟巻きも外し、青ざめた顔で彼に差し出す。
「取り上げて済まない。馬を御すのだろう。お前が着てくれ」
イザークは一礼して、返された己の上着を羽織り直した。微かな血の匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
☆☆☆☆
「リーザをレオンハルトに嫁がせようと思う」
ジュリアスの唐突な言葉に、イザークはかすかに目を見張った。
姫はいま、『お仕置き』の名目で、塔の一室に軟禁されている。
新型火薬の製法を知る姫の安全を確保するための措置であったが、姫はエリカ博士の死を嘆き、泣き濡れて暮らしていると聞く。
「あの子をレヴォントリの巫女に洗脳させ、新型火薬とエリカの記憶を消させた上で、ローゼンベルク辺境領へ送るんだ。あの土地はレオンハルトが完全に掌握している。ここで僕が守るより、安全なはずだ」
何の感情も無い、目の前の石をどこかにどかそう、とでも言うような口調だった。
博士の死の夜からずっとそうだ。ずっとジュリアスは、不格好な星の燃え滓のようになってしまった。
「リーザ様を?」
「ああ、この城から出す」
あれほど執着し、溺愛して来た妹姫の手を離すというのか。愛するものをまた一つ切り離し、ジュリアスはどこへ行こうとしているのか。
イザークは何かを問いかけ、止めた。
ジュリアスがどこへ行くのだとしても、諌める気などイザークには無い。
犬と星は、会話などかわさない。犬は星の光に惹かれて不毛な砂漠を歩き続けるだけ。そして星は、地上の犬のことなど省みることなく、美しく輝き続けるだけ。そのはずだったのに。
「さようでございますか」
愛らしい妹姫の笑顔を思い浮かべ、イザークは頷いた。
「姫様の未来に、幸あらん事を」
「うん」
ジュリアスが小さな声で言って、疲れたように目を伏せた。
「お前も出て行きたければ、出て行っていい。今程度に仕事ができれば、他の雇い口も見つかるだろう」
イザークは言葉を失い、それから首を振った。
「私は新しい仕事など探しておりませんので」
「それはお前の都合だ。僕はお前の面倒を見るのに疲れた。王でいるのにも疲れたし、生きているのにも疲れたよ」
ジュリアスの声は乾き切っていた。
だが、王の無視にも無関心にも、軽蔑にも馴れ切っている。イザークはジュリアスの前で、あえて笑顔を作った。
「さようでございますか。転職か……。私の新しい主は見つかるでしょうか」
知った事ではない、と言わんばかりにジュリアスが顔を背けた。
不快そうな表情に、イザークの心が小さく踊る。陛下が、怒りを思い出してくださった。イザークは小さな確信を得、薄い笑いを浮かべた。
もっと、もっとお怒り下さい、ジュリアス様。貴方の嫌う犬を睨みつけ、つばを吐きかけ、その怒りの炎で再び天に駆け上がって下さい。そう言いたいのを堪え、イザークは言葉を続けた。
「私が剣を捧げたいのは、気に食わない事があれば靴を口にねじ込んできて、さらにはその口封じに、口づけをして下さるような主です。一から探し直すのは、骨が折れますな」
「きさ、ま」
鞭で打たれたように、ジュリアスの目つきが鋭くなる。
紗が降りたような紫紺の瞳に、刃のような光がひらめき、イザークの歪んだ薄笑いの表情を映し出した。
ジュリアスが久々に見せた強い不快の表情だった。イザークは勇気づけられ、言葉を続けた。
「もしよろしければ、新しい働き口をご紹介いただけますか、ご主人様。同等の刺激を下さる主にお仕え出来る、という話であれば、検討しない事もありません」
「余計なおしゃべりだけは一人前だな、駄犬」
恥部を暴き立てる言葉を耳にしたジュリアスの体に、怒りがみなぎる。嫌悪、拒絶、そしていくら殴りつけても離れてゆかない『飼い犬』への強い依存。ジュリアスの反応に心から満足し、イザークは大仰に手を広げて、肩をすくめてみせた。
「おや、駄犬呼ばわりですか。素敵だ。あなたより高慢で世間知らずで我が儘な飼い主など、到底見つかるとは思えませんね」
「相変わらず、お前は本当に気持ちが悪い。反吐が出る」
氷のような頑なな無表情が、ジュリアスの表情を覆い尽くしていた。
イザークの心をかつて射抜いた輝きが、再びイザークの心の同じ場所を刺し貫く。美しい。この方は、美しい。久々に感じた胸の高鳴りに、知らず、イザークはため息を漏らす。
嫌そうに顔を向けるジュリアスに一歩歩み寄り、イザークは笑顔のまま、言った。
「陛下のお嫌いになる何もかもが、生まれつきですので」
「最悪だ」
ジュリアスが、わずかに肩を揺らした。
傷ついたか弱い小鳥が自分の足で立ち上がる様子を見守り、イザークは満足の溜息を漏らす。
——そうだ、そうやって再び空へと舞い上がり、輝く黄金の星に戻ってくれ。濁って失われてゆくこの目を焼く、眩い光でありつづけてくれ。悲しみに沈んだまま腐ってゆく主の姿など、俺は見たくないのだ。
イザークは、そう思った。
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やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
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