そして犬は光を見た

栢野すばる

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後日談:灰の中の潰え星

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 イザークは、目を押さえた。緩やかに視力を失ってゆく彼の世界は、常に春の霞のように散漫だった。
 目が、どんどん見えなくなる。麗しい主の姿も、今では遠目に見つける事は難しい。
 だが、まだだ。まだ犬としての役目は果たせる。
 鍛え絞り上げた胸に左の拳を押し当て、イザークは瞑目した。
 春霞の温さとはほど遠い凍てつく風が、雪明かりの庭に佇むイザークの体から熱を攫う。
「大学なんて、俺には縁がない場所だな」
 カルター王立大学の赤いレンガの建物が、月の光に照らされて淡く輝いて、イザークの視界で滲んでいる。
 壁の一部が四角く切り取られ、淡く輝いている。あの窓の向こうでは、イザークの主がつかの間、愛する女を抱いているはずだった。
「利口な女、か」
 主・ジュリアスが恋うたのは、自分とは正反対の女だった。不世出の天才と呼ばれる、男勝りの才女。
 イザークはジュリアスの恋人である女……エリカ・シュタイナー博士の事を思い浮かべ、安堵の思いで息を吐き出した。
 ジュリアスが愛したのが女でよかった。自分と真逆の、天に輝く星のような女で良かった。
 卑近な存在と比べられ、自分だけが選ばれないなどきっと耐えられない。
 あの『恋』が『別の世界』で起きた事であれば、思考は容易に停止させることが出来る。
 手綱に繋がれた犬のように窓の下にじっと佇み、イザークは白い息を吐き出した。
 ここで阿呆のように突っ立って待ち続けていれば、ジュリアスはいずれ、顔色ひとつ変えずに戻って来るだろう。
 それから、馬車をはやく回して来いと抑揚の無い声音で告げるに違いない。
 いつもの事だ。
 イザークは口元を手で覆い、息を吹きかけた。
 今夜はひときわ寒い。
 イザークの体はローゼンベルクの圧倒的な寒気を忘れ、王都のぬるま湯のごとき冬にすら悲鳴を上げるようになって来た。
 彼が四十の声を聞いて、五年近いときが経とうとしている。目の病に、体の衰え。老いはある日無慈悲に始まり、イザークの体を浸食し始めた。それは止めようも無く、公平で、やるせない事実だった。誰の上にも、等しく時は流れるのだろう。公平な世界などとは無縁に生きて来たイザークにも、平凡に生まれ、平凡を享受する全ての人々にも。
 骨をきしませる冷気を誤摩化すように、イザークは顔を上げた。
 老いさらばえようと、体が動くのであれば構わない。主に向けられた刃を一度は止める盾にもなれるはずだ。
 お前は僕のため死ね。憎悪に満ちた美しい少年の涙を心の深い場所から取り出し、イザークはそっと目をつぶった。
 口の中に憎しみも愛も、色違いの激情だと彼には思える。無視と憎悪、選ぶならば、迷う事無く憎悪を浴びせられたい、とイザークは思った。
「寒いな」
 女の声もジュリアスの声も、分厚い壁の向こうから漏れては来なかった。
 樹々を揺らす風の音、その枝から落ちる雪の音だけが、時折イザークの耳を驚かすばかりだった。
 だが……。
「イザーク」
 いつになく虚ろな声が、イザークの耳に届いた。
「イザーク、エリカが死んだ」
 振り返ったイザークの目に、赤黒く染まったジュリアスの姿が飛び込んで来る。
 イザークは弾かれたように駆け出し、血に汚れたジュリアスの上着をはぎ取る。
「お怪我は!」
 血は全て、返り血のようであった。
 ジュリアスは傷を庇うような仕草をしていないし、呼吸も正常だ。だが厚手の外套をびっしょり濡らす程の血液とは尋常ではない。 
「エリカが死んだ」
 首を振ってそう繰り返すジュリアスの汚れた外套を脱がせ、イザークは己の身につけていた、近衛隊長の外套を着せ掛けた。それから、血なまぐさい王の外套を丸めて雪の上に放り出す。じわじわと、白い雪に赤い染みが広がってゆく。
 寒さに歯を食いしばり、外套のボタンをとめ終え、イザークはジュリアスの顔を覗き込む。輝かしい紫紺の瞳は光を失い、虚空を彷徨っていた。
「何があったのですか」
「エリカに、もう助からないから、最後は抱いていてくれと頼まれたんだ。だから僕は言われた通りにした」
 雪混じりの風が、ジュリアスの声をかき消す。ぐらぐらと体を揺らしているジュリアスの体を押さえ、イザークは叱咤を込めて声を荒げた。
「何を言って仰るのです! 博士がお怪我をなされているのであれば、早く医者をお呼びせねば。陛下!」
「僕が見つけたときは、もう、手遅れだったんだ」
 重さの全くない煙のように、ジュリアスがふらりと足を踏み出す。イザークは言葉も無く、魂の抜けたような主の背を見送った。
「……この国の」
「え?」
「この国の、頭脳を殺した人間に、鉄槌を下さないとね」
 他人事のような口調で、ぼんやりとジュリアスが言う。
 それから驚いたように己の纏うぶかぶかの上着を確かめた。
「ん? なんだ? っ、はは、あはは、僕は近衛隊に入隊したのか」
 魂の去ったようなジュリアスの姿に、イザークはかける言葉を失った。ジュリアスがゆら、と首を傾げ、イザークを振り返って目を細める。砂を詰め込んだような光も力も無い眼差しを受け止めた瞬間、イザークの全身に鳥肌が立った。
 イザークは、ジュリアスの前に膝をつく。雪がゆっくりと溶けて膝を濡らし始める。
「陛、下」
 イザークの心に、糊のようにべたついた絶望が広がってゆく。
 美しい天上の星が砕けようとしている。底知れぬ闇が、イザークの焦がれる美しい星を空から振り落とそうとしているのだ。
「陛下! お気を確かに!」
 イザークは立ち上がって、改めてジュリアスの痩せた肩を激しく揺さぶった。
「陛下は、この国の王にございます! 何を世迷い言をもうしておられるのか」
 そこで初めて、ジュリアスの顔にべったりと赤い指紋が付いている事に、イザークは気付いた。血にまみれた手で頬を撫でた痕。
 これは『エリカ博士』の指紋なのか。死の間際に、彼女がジュリアスに触れた証に違いない。赤茶けた指紋がジュリアスに刻み込まれた烙印のように見える。イザークは慌てて懐から手巾を取り出し、ジュリアスの顔を擦った。
「ご無礼を、陛下。お顔が汚れております」
 まるで嗚咽のような息を吐き出しながら、イザークは思った。この痕だけは拭いたい。何としてもこの痕だけは、と。
「……汚れ?」
 ジュリアスが驚いたように、血で真っ赤に汚れた手で、己の顔に触れた。
 乾き始めた手が、新たにジュリアスの顔をべったりと汚す。
「なりません、陛下、陛下のお手も汚れておいでです」
 イザークは、手巾を握りしめたまま首を振った。何度も何度も首を振る。
 ——陛下を汚す資格などこの世の誰にも有りはしない。どこの誰が、この御方を汚した!
 ぼんやりと己の汚れた手を見つめているジュリアスの首に、巻きっぱなしだった襟巻きを外して巻き付け、イザークはその腕をそっと引いた。
「陛下、いったん、城に戻りましょう」
 兎にも角にも、この場所から急いでジュリアスを去らせねばならない。王を醜聞に晒す訳にはゆかない。近衛隊長としての判断力が、ようやくイザークに戻って来た。
 ジュリアスがイザークに腕を引かれ、よろけながら歩き出す。彼の虚ろな目に、光は戻っていなかった。あのジュリアスから、彼らしい気の強さ、気高さを全て失わせた絶望の深さが、イザークの体を芯から震わせた。
 魂が半ば去ったかのようなジュリアスの挙措。彼は、イザークがいかに身を挺し立ちはだかっても、盾になる事も出来ない目に見えぬ敵に消えぬ傷を負わされたのだ。悲劇の前には、イザークの存在など、紙一枚ほどの守りにもならなかったのだ。
「陛下、お気を確かに」
 いったん放り捨てた汚れた上着を拾い上げ、イザークは留めておいた馬車に急ぐ。
 宝石のような双眸は濁り、端麗な顔は弛緩して、何の表情も浮かべていない。
 今のジュリアスは、星の燃え滓のようだった。イザークが焦がれ、愛し続けた星が、灰の中で潰えてゆく。
 イザークは雪を踏みしめながら、震えを誤魔化すように唇を強く噛んだ。
 にごりゆくイザークの目に映るただひとつの光は、永遠に失われるのか。
「イザーク……」
 馬車に押し込めたジュリアスが、我に返ったように上着を脱ぎ、彼に差し出した。襟巻きも外し、青ざめた顔で彼に差し出す。
「取り上げて済まない。馬を御すのだろう。お前が着てくれ」
 イザークは一礼して、返された己の上着を羽織り直した。微かな血の匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
 
 
 ☆☆☆☆
 
 
「リーザをレオンハルトに嫁がせようと思う」
 ジュリアスの唐突な言葉に、イザークはかすかに目を見張った。
 姫はいま、『お仕置き』の名目で、塔の一室に軟禁されている。
 新型火薬の製法を知る姫の安全を確保するための措置であったが、姫はエリカ博士の死を嘆き、泣き濡れて暮らしていると聞く。
「あの子をレヴォントリの巫女に洗脳させ、新型火薬とエリカの記憶を消させた上で、ローゼンベルク辺境領へ送るんだ。あの土地はレオンハルトが完全に掌握している。ここで僕が守るより、安全なはずだ」
 何の感情も無い、目の前の石をどこかにどかそう、とでも言うような口調だった。
 博士の死の夜からずっとそうだ。ずっとジュリアスは、不格好な星の燃え滓のようになってしまった。
「リーザ様を?」
「ああ、この城から出す」
 あれほど執着し、溺愛して来た妹姫の手を離すというのか。愛するものをまた一つ切り離し、ジュリアスはどこへ行こうとしているのか。
 イザークは何かを問いかけ、止めた。
 ジュリアスがどこへ行くのだとしても、諌める気などイザークには無い。
 犬と星は、会話などかわさない。犬は星の光に惹かれて不毛な砂漠を歩き続けるだけ。そして星は、地上の犬のことなど省みることなく、美しく輝き続けるだけ。そのはずだったのに。
「さようでございますか」
 愛らしい妹姫の笑顔を思い浮かべ、イザークは頷いた。
「姫様の未来に、幸あらん事を」
「うん」
 ジュリアスが小さな声で言って、疲れたように目を伏せた。
「お前も出て行きたければ、出て行っていい。今程度に仕事ができれば、他の雇い口も見つかるだろう」
 イザークは言葉を失い、それから首を振った。
「私は新しい仕事など探しておりませんので」
「それはお前の都合だ。僕はお前の面倒を見るのに疲れた。王でいるのにも疲れたし、生きているのにも疲れたよ」
 ジュリアスの声は乾き切っていた。
 だが、王の無視にも無関心にも、軽蔑にも馴れ切っている。イザークはジュリアスの前で、あえて笑顔を作った。
「さようでございますか。転職か……。私の新しい主は見つかるでしょうか」
 知った事ではない、と言わんばかりにジュリアスが顔を背けた。
 不快そうな表情に、イザークの心が小さく踊る。陛下が、怒りを思い出してくださった。イザークは小さな確信を得、薄い笑いを浮かべた。
 もっと、もっとお怒り下さい、ジュリアス様。貴方の嫌う犬を睨みつけ、つばを吐きかけ、その怒りの炎で再び天に駆け上がって下さい。そう言いたいのを堪え、イザークは言葉を続けた。
「私が剣を捧げたいのは、気に食わない事があれば靴を口にねじ込んできて、さらにはその口封じに、口づけをして下さるような主です。一から探し直すのは、骨が折れますな」
「きさ、ま」
 鞭で打たれたように、ジュリアスの目つきが鋭くなる。
 紗が降りたような紫紺の瞳に、刃のような光がひらめき、イザークの歪んだ薄笑いの表情を映し出した。
 ジュリアスが久々に見せた強い不快の表情だった。イザークは勇気づけられ、言葉を続けた。
「もしよろしければ、新しい働き口をご紹介いただけますか、ご主人様。同等の刺激を下さる主にお仕え出来る、という話であれば、検討しない事もありません」
「余計なおしゃべりだけは一人前だな、駄犬」
 恥部を暴き立てる言葉を耳にしたジュリアスの体に、怒りがみなぎる。嫌悪、拒絶、そしていくら殴りつけても離れてゆかない『飼い犬』への強い依存。ジュリアスの反応に心から満足し、イザークは大仰に手を広げて、肩をすくめてみせた。
「おや、駄犬呼ばわりですか。素敵だ。あなたより高慢で世間知らずで我が儘な飼い主など、到底見つかるとは思えませんね」
「相変わらず、お前は本当に気持ちが悪い。反吐が出る」
 氷のような頑なな無表情が、ジュリアスの表情を覆い尽くしていた。
 イザークの心をかつて射抜いた輝きが、再びイザークの心の同じ場所を刺し貫く。美しい。この方は、美しい。久々に感じた胸の高鳴りに、知らず、イザークはため息を漏らす。
 嫌そうに顔を向けるジュリアスに一歩歩み寄り、イザークは笑顔のまま、言った。
「陛下のお嫌いになる何もかもが、生まれつきですので」
「最悪だ」
 ジュリアスが、わずかに肩を揺らした。
 傷ついたか弱い小鳥が自分の足で立ち上がる様子を見守り、イザークは満足の溜息を漏らす。
 ——そうだ、そうやって再び空へと舞い上がり、輝く黄金の星に戻ってくれ。濁って失われてゆくこの目を焼く、眩い光でありつづけてくれ。悲しみに沈んだまま腐ってゆく主の姿など、俺は見たくないのだ。
 イザークは、そう思った。
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