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1巻
1-2
第二章
「この格好、変じゃないかな」
利都は駅のトイレで大きな鏡に己の顔を映し、溜息をつく。
真っ直ぐな髪の、おとなしそうな女が、青白い顔でこっちを見つめ返していた。
次の週の日曜日、美貌の王子様の呼び出しに応じて、フラフラ出てきてしまった。利都は自分の身体を落ち着かない気分で見下ろした。
今日の服装はベージュのコートに、黒のスカートと薄いピンクのニット。ブーツは冬のボーナスで買ったお気に入りのもの。休日用のごく平凡な服装だ。
利都は自分の服装を確かめ終え、小走りでカフェに向かった。この前はあんなに魅力的に映っていた雑貨屋や服屋も、まるで目に入ってこない。胸がドキドキして、苦しかった。
「あれ、この間の……? チカと待ち合わせしてるんですよね? 聞いてますよ」
カフェの前で看板を出していたギャルソン姿の『鉄ちゃん』が、利都の姿を認めて言った。
おそらくチカが連絡を入れておいてくれたのだろう。
スタイルのいいギャルソンを見上げ、利都はぎこちなく頷いた。
「はい、こんにちは……」
「こんにちは。どうぞ。この前の席でお待ちください」
『鉄ちゃん』にもう一度深々と頭を下げ、利都は席に向かう。
腰を下ろしてカフェオレを注文し、そこではっと気がついた。
――チカさんになにか手土産を買ってくればよかった。お菓子とか。
舞い上がってしまって、そんなこと考えもつかなかったのだ。気の利かない自分にがっかりしつつ、利都は運ばれてきたカフェオレに口をつけた。
コーヒーの良い香りに、ホッと心がほぐれる。
大きな窓から、道行く人々を眺めていると、不意に華やかな気配がした。
「あ、待たせちゃった? ごめんね」
顔を上げると、白いVネックのニットに、デニム姿のチカが立っていた。小脇にグレーのコートを抱えている様子は、怖いくらいさまになっている。
一瞬口を開けて見とれた利都は、慌てて立ち上がった。
「こ、こんにちは、全然待ってません」
「こんにちは」
透き通る不思議な色の目を細め、チカが高すぎも低すぎもしない心地良い声で言った。
王子様は、声まで綺麗だ。利都の心臓が再び高鳴る。
「あ、カフェオレいいね、俺も飲もう」
チカがそう言って、流れるような仕草で利都の向かいの席に腰を下ろす。体重がないのだろうか、と思うような身軽な所作だ。
棒立ちになっていた利都も慌てて、座りなおす。
絹のような栗色の髪にぼうっと見とれていると、不意にチカがメニューから顔を上げた。
「りっちゃん、ご飯食べるよね?」
どうしよう、なんて答えれば正解なんだろう。利都は緊張で表情を凍りつかせる。そんな利都に微笑みかけ、チカが明るい口調で言った。
「食べていこうよ。ごちそうするから好きなの選んで」
「いえ、自分で払います」
利都はかすれた声で答え、スカートの上で手をギュッと握った。
「まあいいじゃない。呼んだの俺だから。なにが食べたい?」
「じゃ、じゃあ、これ……すみません……」
利都は手を握ったまま、一番安いメニューを指差した。なにも載っていないプレーンなパンケーキだ。
「お昼、それでいいの?」
どうせなにも喉を通りそうにない。利都は無言で頷き、そのままうつむいた。チカの顔が見られない。
それに自分の顔を見られるのが恥ずかしかった。平凡だし、クマもひどいまま。唯一まともなのは、今朝ブローしてきた髪の毛だけだ。
チカが『鉄ちゃん』を呼び、注文する気配がした。利都は自分の黒いスカートを見つめたまま、身体をこわばらせていた。
「あ、ねえ、りっちゃん。顔いじっていい?」
意味のわからないチカの言葉に、利都は驚いて顔を上げる。
「俺、りっちゃんの隣座っていい? 化粧ポーチ持ってる?」
「え、え、あの……」
返事を待たずチカが立ち上がり、利都のすぐ横にストンと腰を下ろした。
いきなり間近に迫った『王子様』の華やかさに、利都は思わず身体を引く。
「あ、あの……」
「化粧ポーチ貸してくれる?」
チカのオーラに押され、利都は小さな化粧ポーチを鞄から取り出した。
「開けていい?」
ポーチを手にして首をかしげるチカに、頷く。
『顔いじっていい?』とはどういう意味なのだろうか。
「あ、なるほどね……アイシャドウはこれなんだ。なんで緑のシャドウなんて買ったの?」
アイシャドウについて聞かれたことに面食らいつつ、利都は恐る恐る答えた。
「グ、グリーンは夏の限定品って言われたから、ですかね?」
利都の答えに、チカが眉根を寄せる。
「ちょっとりっちゃんには色が濃すぎるよ。あれ? 口紅はオレンジなの? 朱肉みたいな色だから、りっちゃんには派手かもね」
利都は絶句した。男性に化粧品を批評されるとは思っていなかったのだ。化粧品選びにはあまり自信がないので、はっきりと合っていないと言われ、落ち込む。
「た、たまにはピンク以外もつけるといいって、店員さんにすすめられて……」
真剣な目で利都の化粧ポーチを探っていたチカが、顔をしかめた。
「アイライナーは紫なのかぁ」
「それも秋の限定品だったので……でも使ってません。アイライナーは目に刺さりそうで」
「すごい色の組み合わせだね」
利都は、言葉に詰まる。たしかにとんちんかんな色の取り合わせだとは思うが、化粧直しなどしないので、深く考えずに使わない化粧品もポーチに突っ込んでいたのだ。
「わかった。じゃあ顔いじるね。この前思ったけど、りっちゃんは、美人なのに化粧で損してる」
いつの間にかチカの分のカフェオレを運んできていた『鉄ちゃん』が、テーブルの横で苦笑した。
「お客様、俺の友達が騒がしくしてすみません。でもこいつの化粧、ホントすごいですよ。一度やってもらったら面白いかも」
「そうだよ、すごいよ。なにしろ俺、化粧の腕を買われて、昔女装モデルしてたんだから。今はしがないサラリーマンだけど」
チカがクスッと喉を鳴らす。『鉄ちゃん』が肩をすくめ、テーブルにカップをおいた。
「化粧の腕がいいことと女装モデルだったことは、つながんないだろ? それに、チカは別にしがなくないじゃん。今は日本と海外往復してバリバリやってるんだろ?」
「はーいりっちゃん、とりあえずファンデ直して、アイライン入れてあげる」
『鉄ちゃん』の言葉を遮るように声を上げ、チカが利都の顔を覗き込んだ。
「チークの色は可愛いね。アイラインとこのチークとマスカラで仕上げてあげる。りっちゃん、目をつぶって」
利都は、チカに言われるがままに目を閉じた。
――わ、私……流されてる……!
「肌、綺麗だね」
「い、いえ、ぼろぼろです」
チカのお世辞に、利都は愛想笑いをした。
それにしてもチカの手つきは優しい。撫でるように丁寧に顔に触れられ、うっとりとした利都は、握り締めていた拳を緩める。
「……なんか、子猫みたいだ」
「え?」
チカの呟きに、利都は目をつぶったまま声を上げた。
「りっちゃんてさあ、警戒心ばりばりなのに、撫でるとほにゃーってしてるからさ……はい、メイクできたー、目を開けて」
利都は、差し出されたファンデーションのコンパクトの鏡を覗き込む。いつもよりはっきりした目元の自分が、鏡の向こうにいた。
パンケーキが運ばれてきたことも気づかず鏡に見入る。傍らのチカが、嬉しそうに利都の顔を見つめた。
「その顔、気に入った?」
「はい!」
メイク一つでこんな顔になれるなんて嘘のようだ。厚塗りしたわけでもないのに、利都の顔は明るく輝いて見える。
「アイシャドウのハイライトは明るいピンクだったから、それをちょっとチークに混ぜた」
化粧品を混ぜるという発想がなかった利都は、チカの言葉に驚いて目を見張った。
「可愛くなったでしょう。気に入ったならアイラインの入れ方とか教えてあげる」
利都は嬉しくなり、素直に頷いた。こんなに明るい気分で鏡を見たのは久しぶりだし、メイクでこんなに変われたのも初めてだ。
チカが音もなく立ち上がり、利都の向かいの席に戻った。
「ご飯食べようか。冷めちゃうしね……ねえ、りっちゃん、このあと暇? もう少し今の教えてあげよっか」
「本当ですか? 嬉しい!」
鏡から目を離せぬまま、利都は素直にそう返事をした。うきうきした気分になるのは久しぶりだ。
「じゃあさ、川沿いの公園に行って、明るいところでメイクの練習しよ? 途中の薬局でメイク落とし買うから」
「はい」
利都は再び、素直に頷いた。その様子を見て、チカが軽く笑い声を上げる。
「そんなに喜んでもらえると、俺も嬉しいよ」
そう言いながら優雅にミートローフにナイフを入れ、チカが肉片を口に運ぶ。
利都も慌ててファンデーションのコンパクトを閉じ、ポーチにしまって、パンケーキを頬張った。
――そういえば今日は、チカさんの話を聞きにきたんだ。彼はどうして私のことを知ってるのだろう?
もっとも、大したことではないのだと思う。仕事先のどこかで見かけたとか、その程度のことだろう。チカは暇つぶしに、自分を呼び出したに違いない。
利都はその考えに納得し、残りのパンケーキを食べた。
ともかく今は、メイクの方法を教えてもらえるのが嬉しいし、こんなに綺麗な人と話ができるのも楽しい。
利都は、興奮でほんのり火照る頬をそっと指先で押さえた。
食事を終え、川沿いの公園に着くやいなや、チカはコートを脱いで袖まくりをした。
ただならぬやる気に利都は息を呑む。そういえば道中のドラッグストアで、チカはあれこれと買い込んでいた。
「やっぱりメイクの色って自然光の下で確かめたいよね」
チカが真剣な顔で言う。利都はチカから預かったコートとトートバッグを膝に抱いたまま、ベンチに腰を下ろした。
「はい、目をつぶって。あ、りっちゃん、あのさ、メイクでかぶれたことある?」
「ないです。肌は丈夫なので」
「了解」
チカが真剣な顔で利都の前にかがみ込む。美しい顔が近づき、利都は恥ずかしくなって、固く目をつぶった。
「そんなにギュッとつぶらないで。今からメイク落とすね」
冷たいコットンが優しくまぶたの上を滑る。利都は身体を硬くして、されるがままに身を任せた。
化粧を落としたあとになにかを塗られ、ファンデーションをそっと重ねられる。
「りっちゃん、右目だけ開けてくれる?」
なんだろう、と思いながら、利都は右目を開けた。
チカがニコっと笑い、利都が見たことのない新品のアイライナーを目の前にかざす。
「じゃーん、これもさっき買いました。パール入りのブラウン・グレー。リっちゃんには多分、派手な色よりこういう色が似合います!」
「えっ、買ったんですか? あとでお金払えばいいですか?」
「いいよ、俺の趣味なんだから」
チカは、美しい顔を利都に近づけた。
思わず目を閉じようとした利都に、優しい声で言う。
「俺が今から左目にアイライナー引くから、そのコンパクトの鏡でやり方見ててね」
「わかりました」
チカが真剣な眼差しで利都の目元に筆先を走らせる。
鏡を見ていろ、と言われたのに、利都は手元の鏡ではなく、チカをじっと見ていた。
――チカさんの目、ちゃんと見えてるのかな、ガラス玉みたいで綺麗すぎる。髪も目も肌もすごくぴかぴかだし……女の私より綺麗。
「こういうふうに睫毛の間を埋めてね」
「は、はい」
「じゃあ、自分でやってみよう」
チカにアイライナーを手渡され、利都はその筆先を思いきり目に突っ込んだ。
「痛っ!」
またも大失敗してしまった。まともにアイライナーを引けた試しがない。目に物を近づけるのが怖くていつも手が震えてしまうのだ。
「ちょっ……りっちゃん! なにやってんの!」
「ご、ごめんなさい! ホントごめんなさい!」
大慌てで謝ると、チカが眉根を寄せて利都の顔を覗き込んだ。甘い香りが利都の鼻先をくすぐる。
「目は大丈夫?」
どくどくと高鳴る心臓をごまかすように、利都は笑顔を作って、わざとらしいくらい明るく答えた。
「大丈夫です! 目の周り真っ黒になっちゃった」
「落とそうか」
情けない思いで、利都は頷いた。
女なのにこんなに化粧が下手だなんて、ありえないのではないだろうか。
「にしても、ぷっ……思いきりよすぎるね……」
利都の顔に指を添え、コットンで化粧を落としながらチカが肩を震わせる。笑われた。そう思ってそっと唇を噛む利都に、チカが言った。
「アイライナーは危ないからやめとこっか」
まだ、チカは笑っている。相当におかしかったらしい。利都はますます恥ずかしくなってうつむいた。
「アイシャドウでも目元はくっきりさせられるよ。りっちゃんはスッピンでもほんわかしてて可愛いけど」
「い、いや……そんなことないですよ」
こんな美青年に『可愛い』などと言われても説得力がない。
利都は曖昧に笑ってごまかし、渡されたコットンで目元を押さえてアイライナーを拭った。
こんな素敵な王子様の前で、アイライナーを目に突っ込む女なんて自分だけではないだろうか。
そう思ったら、だんだんおかしくなって自分も笑い出してしまった。
「あはは、ははっ……はぁ、今日は晴れてよかったですね」
しみじみと空を見上げながら、利都は言った。
今日の自分は、嫌なことをすっかり忘れている。
「りっちゃんって、いい子だね」
ベンチの隣に腰を下ろし、チカは膝の上に肘をつく。
「えっ!? いいえ、そんなことないです」
「あは、素直だなぁ」
また『素直』だと言われた。
『素直』という言葉は、親や先生が利都を褒める時に使う言葉だ。
けれど、こんな素敵な人から聞きたい言葉かと言われれば、違うように思える。
利都は目を伏せ、チカの言葉に答えた。
「あの、素直って良いことなんですか?」
「うん、良いことだよ」
チカの答えに、利都は思わず傍らの彼を見上げた。
形の良い顎を反らせ、澄みきった早春の空を見上げながら、チカがやわらかな声で言う。
「素直な女の子ってすごく可愛く見える。俺に言わせれば、真面目で素直って最高の長所だよ」
褒められて、利都の顔がかっと熱を持つ。
焼けるように熱くなった耳を両手で隠し、利都は慌ててうつむいた。
チカに他意がないことはわかっているけれど、こんなに素敵な王子様に褒められるのはとても恥ずかしい。
「りっちゃん」
「はっ、はいっ」
「なんだか今日、楽しいね」
チカが、満面の笑みで言った。
利都は火照った顔を両手で覆いながら、チカの光のような笑顔を見上げる。
「そう、ですね、楽しい……です」
利都はチカの言葉に頷き、もう一度答えた。
「すごく楽しいです。ありがとうございます」
その答えに、チカが形の良い目を見開く。彼の透き通った目に、笑う利都の顔が映っている。
「……そっか、楽しいなら良かった」
チカも笑った。まるで太陽に向かって咲く花のような、曇りのない笑顔だ。その鮮やかさに、利都は強く惹き込まれた。
王子様の存在が、利都の胸一杯に広がる。
――ああ、なんてきらきらした人なんだろう。
「りっちゃん、化粧の仕方、もうちょっと教えてあげる。そのあと、コーヒー飲みに行こうよ」
笑いながらそう言ってくれたチカに、利都も笑顔で答えた。
「はい」
利都の心は、弾んでいた。
――私、まだ会って二回目の、ほとんどなにも知らない人と一緒なのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
そう思いながら、利都はチカと一緒に街を歩く。
ナンパしてきた人と一緒に過ごすなんて、自分らしくもない大胆な行動だった。
でも今日、周りの風景が輝いて見えるのは、この王子様のおかげだ。
「ここ! 俺ここに来たかったの。久しぶりだな」
チカが笑いながら、古びたベルのぶら下がった、木造のドアを押す。
「素敵なお店ですね」
利都の言葉に、チカが嬉しそうに頷いた。
「コーヒーがすっごく美味しいよ。今日は寒いけど、オススメは水出しアイスコーヒー」
利都は、クラシカルな内装の店内を見回した。旧式のコーヒーサイフォンが飾られた、落ち着いた佇まいの店だ。昔の漫画が本棚に並べてある。
狭いカウンターにチカと寄り添って座りながら、利都は話を切り出してみた。
「チカさん、あの、チカさんが前から私を知ってたって話なんですけど、そのお話、伺ってもいいですか?」
チカは一瞬真顔になる。
利都から目をそらし、しばらく無表情でなにかを考えていた。
「あの……俺、りっちゃんが俺の知り合いと一緒にいるところを見たんだよね……」
「どなたですか?」
チカが、さらさらの髪をぐしゃりとかき回す。悩んでいるような仕草に、利都は内心、首をかしげた。
――どうしたんだろう? 言いにくい話なのかな?
「ごめん、やっぱり、話すのはもう少し考えてからにしていい?」
「えっ!?」
肩すかしな答えに、利都は思わず声を上げた。
「ごめん! 俺むちゃくちゃ怪しいヤツだよね!?」
「え、えっと、少し……?」
利都が正直に答えると、チカががくりとうなだれる。
「だよね……あ、これ俺の名刺。あげるよ。明らかに怪しいと思うけど、俺は一応普通のサラリーマンだからね!」
しょげた顔のまま、チカが黒い名刺入れから名刺を取り出す。利都は、両手でそれを受け取った。
「ありがとうございます」
公益財団法人、澤菱財団の総務部秘書課付けの名刺だ。名前には、澤菱寛親、と書かれている。
その苗字に、利都はぎょっとした。
澤菱家は、日本でも指折りの名家だ。利都の勤め先の澤菱商事は、澤菱グループという巨大企業に属している。そのグループのオーナー一族が、澤菱家なのである。
利都の会社にも、縁故採用された澤菱家の遠縁の人間がいるが、彼らはおしなべて『セレブ』だ。外車に乗り、頻繁に海外旅行へ行き、庶民とは別格の暮らしをしていると社内で噂されている。遠縁の人間ですらそうなのだから、澤菱の姓を名乗る人ともなれば、雲の上の存在であることは間違いない。
「あ、澤菱って苗字に引いちゃった? でも俺は、庶民だよ」
チカの明るい声に、利都は思わずホッとした。
事情はよくわからないが、気さくで優しいチカの言うことに嘘はないように思える。
苗字は同じでも、庶民の『澤菱さん』もいるのかもしれない。
「チカさんも澤菱グループなんですね、私と一緒です。澤菱財団って、なにをなさっている団体なんですか?」
「美術館とかの経営。あと学者さんにお金を支援したりする仕事かな。俺はそこで、外国の友達のつてを使って、展示会用の美術品を貸してもらえるように交渉したり、海外の研究者をお呼びしたレセプションを企画したり、そのゲストに誰を呼ぶか考えたりする仕事をしてるんだ。まあ、いわゆる事務職かな」
「事務職……?」
利都は首をひねった。事務員の仕事としてはあまり聞かない内容だ。
「うん、あれ? 普通の事務職……だよね?」
逆にチカから問い返されてしまい、よくわからぬまま、曖昧に利都は頷いた。
業務内容を詮索するような会話はやめたほうがいいかもしれない、と思う。澤菱という苗字ではあるけれど、庶民なんだと彼が言っているのだから、平凡な家の出身なのだろう。だいたい、雲の上の存在がその辺で女の子をナンパするわけがない。
「ところで水出しコーヒーって時間がかかるんでしょうか」
利都のひとりごとに、マスターが笑顔で言った。
「もう抽出してあるものをお出ししますよ。毎日、八時間かけて抽出していますからね」
チカと利都の前にコースターと、大きな氷が一つ入ったアイスコーヒーのグラスがおかれた。
「美味しそう」
「そうだ、ケーキも頼む? ブラウニーとかあるよ」
メニューを差し出され、利都は思わず胸の前で指を組み合わせた。
「食べたいです!」
「じゃあごちそうする。すみません、ブラウニー二つ!」
チカが明るい声でスイーツを注文し、笑顔で利都を振り返る。
「ごめんね、さっきはなんだか思わせぶりな話をしちゃって。でも、ちょっと俺が気になってることを確認したら、ちゃんと話すから」
「私は澤菱商事で働いてるんです。チカさんの勤め先と同じグループ企業ですよね? だから、私とチカさんはどこかで会ったことがあるのかなって思ったんですが、違うんですか?」
「違うよ。あ、りっちゃん、ブラウニー来たよ! 食べよう」
チカはなにも話したくなさそうだ。利都は追及を諦め、目の前におかれたお菓子に集中することにした。
熱々のブラウニーは添えられた白いクリームが溶け始めていて、食欲をそそられる。
「美味しい!」
甘くほろ苦い味に、利都は歓声を上げた。
生クリームをからめたブラウニーは、水出しコーヒーのまろやかな香ばしさによく合う。
「でしょ、俺スイーツ大好き」
「チカさんって、すごく痩せてるのにお菓子好きなんですね」
王子様に軽口を叩く余裕が出てきた。
「あ、言ったな、これでも太ったんだよ」
「何キロですか?」
「十キロ」
その答えを聞いて、利都は小さな声で笑った。冗談だろう。チカが今より十キロも痩せていたら、骨と皮だけになってしまう。
「チカさんには、私の余分なお肉あげますね」
「女の子って、皆そう言うけどさ、余分なお肉のない女の子なんてダメだよ」
「えー、嫌です、いらないです!」
「いやいや、俺はそんなの認めないね。肉つけようよ、女子は余分な肉があってこそでしょ」
チカと軽口を叩き合い、笑いながら、利都はブラウニーを頬張った。
この王子様には謎が多い。でもチカが親切で楽しい人だというのは間違いない。
「今日、本当に楽しいです。ありがとうございます、チカさん。こんなの一ヶ月ぶりくらい」
思わず漏らした本音に、チカが笑みを消し、驚いたように目を見張る。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……」
チカが珍しく無表情になっている。
利都は不安になり、隣の彼を見上げた。
「そっか……一ヶ月前か……」
チカはそう呟いたあとで、カラカラとアイスコーヒーをストローでかき回した。
「ね、りっちゃん、この水出しコーヒー、本当に美味しいでしょう」
今の呟きはなんなのだろう。不思議に思いながらも頷いた利都の顔を、チカがじっと見つめた。
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