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1巻
1-2
しおりを挟む「そうよ。今は経験を積んでいる最中なの」
「へえ、それが真那さんの今の夢なんですね。財産まで捨てる必要があったんですか? 二度と上流階級に戻らないと言わんばかりのお振る舞いですが、なぜそこまで?」
「だから、言ったでしょう。世間知らずだったから、あのときはこれでいいと思ったのよ。失敗したと気付いたときには遅かっただけ」
自嘲するように真那は答えた。
「それで、真那さんは行き当たりばったりに生きてきて、今に至ると?」
真那は唇を噛み、頷いた。
「ええ。そうよ。貴方こそ、今更なぜ私に会いにきたの?」
真那の問いに、時生が短くため息をつく。整いすぎた顔からは、なんの感情も読み取れない。冷たい面持ちでなにかを考えていた時生が、意を決したように唇を開いた。
「あのメールを送ってきたのは、真那さんですか?」
「メール……?」
時生の連絡先は、三年前から知らない。
真那の怪訝な表情に納得がいったのか、時生は首を横に振った。
「『まなをむかえにいってください』って書いてあったんですよね。誰が送りつけてきたんだろう」
時生の言葉に、真那は眉根を寄せた。
「私を迎えに? そんなことを貴方に頼む人がいるとは思えないのだけど」
「俺もそう思います。ですが、悪戯に乗せられるのも面白いかなと思ったので」
時生の薄い唇に、ほのかな笑みが浮かんだ。
「あんな風に切り捨てられた『番犬』が、また『お嬢様』を迎えに行ったらどうなるか、確かめたくなったんです。貴女に嫌がられるのか、軽蔑されるのか」
真那の腕を掴む手に力がこもった。黒い瞳に浮かぶ冷たい光が、強さを増す。
「三年前は、本気で真那さんを助けたかった。俺も純情でしたから」
冗談めかしているけれど、血の滲むような声だった。
「一緒に来てほしかったんです、アメリカに」
時生はあのとき、政略結婚を強いられている真那を守りたい。祖父の怒りを買ってもいいから、駆け落ちのフリをしてどこかに逃げよう、と言ってくれたのだ。それなのに……
「ごめんなさい」
うわずった声で、真那は謝罪を口にする。だが時生は答えてくれない。
「もちろん謝罪だけですむとは思っていないわ。だけど、貴方はここになにをしに来たの? お祖父様に見捨てられた私を見て、溜飲を下げるため?」
「まさか。そこまで嫌な男じゃないですよ。もう少し前向きな理由で来たんです」
「そ、そうだとしても、どうして……急に……」
時生の低い声が、不意に、表現できない歪みを帯びた。
「真那さんは今、なにを考えていますか? 使用人の息子に付きまとわれて怖い、とか? だから、そんなに震えていらっしゃるんですか」
「ち、ちが……」
「……結婚していないのは、どうしてですか? 俺以外の男にご自分を高く売りつけるのではなかったんですか?」
「あ、あの……それは……」
「どんな男ならよかったんです? 金持ち? 品がある? 生まれがいい? 教えてくださいよ、俺が貴女に踏みにじられて、選んでもらえなかった理由を」
「ど、どれも、違う……から……」
皮肉で言われているとわかるのに、異性の話を持ち出された嫌悪で、真那の身体がますます震え出す。
愛してもいない男性と結婚させられることを考えると、こうなのだ。
相手がどんなにいい人で、祖父が選んでくれた間違いのない人であっても、駄目だ。好きになれない相手に触れられることを思うと、嫌悪と恐怖でなにも考えられなくなる。
専門医のカウンセリングを受けても改善しなくて、医者も匙を投げた。
身をすくませる真那に時生は顔を近づけ、切れ長の黒い瞳で、じっと覗き込む。
「俺が触るのは、まだ平気なんですか?」
あっと思う間もなく、時生の腕が背中に回り、真那の身体をしっかりと捕らえる。嫌悪感はなかった。されるがままに抱き寄せられ、真那の身体から力が抜けそうになる。
「ああ、平気みたいですね。お気の毒に。この厄介な症状さえなければ、真那さんは今頃どんな男でも選べていたはずなのに」
時生の声が、小暗く歪んだ。
昔から、真那に触ることができる『男性』は時生だけだった。今となっては残酷な事実だ。
深く傷つけた相手だけが、真那の身体に触れることができるなんて。
「さっき俺に謝ってくれたのは本気ですか?」
真那は必死で頷く。一方的に傷つけたのは真那だから、なにも言い訳はできない。だが、傷つけて申し訳なかった、取り返しのつかない非礼を働いたと思っているのは事実だ。
「本当に、本気で? じゃあ、俺がなにかをお願いしたら、お詫びにそれを叶えてくれたりします?」
「お、お願い……? それはなに?」
償える方法があるならば、と、真那は縋るような気持ちで顔を上げた。
真那の顔を覗き込む時生の顔には、昔のような優しさも、温もりも、欠片も見当たらなかった。
すくむ真那の目をひたと見据えながら、時生がゆっくりと言う。
「俺と結婚してください。……この間、新生葛城グループの取締役に就任しましたので、それなりの配偶者が必要になりました」
ひときわ強い風が吹き付け、真那の髪を巻き上げる。雪が髪やコートに張り付き、冷気が身体に食い込んだ。
――結婚……? 私の実家が所有していた会社の、役員に就任……?
ひどく遅れて、時生の言葉が真那の頭に届いた。
「と、時生、なにを」
聞き間違いかと思う真那に、時生は言った。
「三年前に売却された葛城工業は、半年前に再度社長を交代し、経営の更なる立て直しを図ることになりました。俺は海外の同業他社でのコンサルティング経験を買われて、葛城工業にヘッドハンティングされたんです。いえ、正しくはあらゆるコネを使って、ヘッドハンティングされるように動きました。面白そうでしたからね、葛城家の元使用人の息子の俺が、あの会社の役員になれるなんて」
真那は呆然としつつ、時生の言葉を反芻した。
葛城家はかつて、閉鎖的な同族経営を貫く会社だった。
しかし、カリスマ経営者だった父が急逝し、叔父が経営に失敗したため、ライバルだった同系統の企業に一旦買い取られた。
それでも統合はうまくいっていないと聞いた。
おそらく、機能不全に陥った葛城工業を立て直すために呼ばれたのが時生なのだろう。
時生はまだ若いが、大学時代からベンチャー企業を成功させた手腕の持ち主だ。
アメリカに渡ったあとは、世界的なコンサルティングファームで、卓越した業績を残したと聞く。アジア人では二人しかいない、二十代でのディレクター就任も果たしたと。
「だけど、あの会社にはまだまだ、葛城の関係者が残っているんですよね。仕事を進める上で、身分のない俺の話に耳を貸さない、どうしようもない老害共が」
冷たく怒りに満ちた口調だった。
葛城工業を他者に売るとき、真那は両親から受け継いだ株式のすべてを新会社に譲渡したが、あの会社に残った親族もいる。今でも会社の幹部として勤めているはずだ。排他的で、自分たちを特権階級と見做す態度も変わっていないだろう。
そんな中で、優秀なエリート取締役として迎えられた時生への風当たりは強いに違いない。
「ですから、貴女を手に入れて、俺に足りない『身分』を補強します。貴女は腐っても葛城本家のご令嬢、財産だってご自分の意思で寄付されただけで、別に落ちぶれたわけではない。上流階級の方々も、いまだに真那さんとの縁談を望んでいる方が多いと伺っています。なにしろ真那さんは、あの弾正太一郎の孫娘ですからね」
言い終えた時生が、薄く笑う。
「俺は自分に箔を付けたいんですよ。それから真那さんがお持ちのコネクションも利用させてほしい。このお上品な世界でも『友人』を作らないといけませんから。それには同じ世界の住人からの招待状が必要だ。真那さんには、その招待状を用意して頂きたい」
次から次へと繰り出される『予想外の話』に、真那は愕然とする。
「そ、そんな理由で、結婚したいなんて」
抗う言葉は弱々しい声にしかならなかった。
「……まあ、どうしても俺との結婚を断るというなら、諦めます。今後は見合い相手に脚を開いて、頑張ってください」
突然、時生が投げ出すような口調で吐き捨てた。
「い……いや!」
殴りつけられたような衝撃が走り、弱々しい惨めな叫びが漏れ出す。
愛していない男に触れられるなんて、絶対に嫌だ。
震え続ける真那を見て、時生が笑った。
自分の言葉が、的確に真那の急所を刺したことがわかったのだろう。獲物を仕留めた狩人のような笑みだった。
『見合い相手に脚を開け』という衝撃の言葉に打ちのめされた真那に、時生が言った。
「……諦めて、俺と結婚してくださる気になりました?」
かたかた揺れ続ける手を上げ、真那は額を押さえる。
駄目だ。この状態ではなにも考えられない。
血の気が引いた真那に、時生は優しい笑顔で告げた。
「別に逃げても構いません、追いかけっこも楽しそうですし。ただし俺はしつこいですよ」
愕然として真那は時生の顔を見上げる。
時生が空いていた片手で、真那の髪を優しく梳く。
傍目から見たら、周りの視線も忘れて寄り添う恋人同士のように見えただろう。
歯の根が合わないくらい震え続ける真那を見て、時生が笑った。
「もう一度聞きます。お見合い結婚をして、夫になった男に犯されるのはお嫌なんですね?」
すっかり血の気の失せた顔で、真那は素直に頷いた。どうしても嫌だ、それだけは。他になにも考えられない。
「じゃあ、交渉成立です。行きましょう」
時生が、真那の手から鞄を奪い、もう片方の手で腕を掴んだまま歩き出す。
真那はよろめく足取りで、時生のあとを付いて歩き出した。
隙を見て真那の弱みを的確に突き、脅して、正常な思考を奪った手腕は、冷酷で見事だった。昔の優しい時生と同じ人間には思えない。
――私が貴方を傷つけたせいなの……?
その問いの答えは、どこからも得られそうになかった。
第二章
葛城真那、二十歳。
両親はすでに亡く、父が守り立てた会社も、その弟の手によって見事に潰えた。
そして真那は財産も屋敷もすべてを捨てて、再出発しようとしている。
――私は葛城家の後継者にはなれない。だって、政略結婚はできないから。だからこの家の『お嬢様』であることも辞めるわ。
真那はため息をついて、住み慣れた部屋の中を見回す。
がらんとして、なにもない。今日は、引っ越したばかりの新居から、売りに出す実家の最終チェックにやってきたのだ。
両親が愛用していた小物だけは処分せず手元に残した。換金する予定はない。ジュエリーや万年筆、時計など場所を取らない品物だけ思い出として持っていき、普段から使おうと思う。
真那はため息と共に自分の姿を見下ろす。
グレーのニットに、黒のパンツ。他の服も、喪に服しているようなそうでないような、無彩色の服ばかりだ。灰色が一番、真那の心にふさわしい。きっと一生、この色を纏って生きるだろう。
量販店で購入した無地の服を着た真那を見て『数十億の財産を手放したばかりの、元お嬢様』だと思う人はいないに違いない。
このまま誰からも顧みられずに消えていくのが、今の真那の望みだった。
亡き両親は『男性への嫌悪感を抑えられない』と悩む真那の意思を尊重してくれた。
父は、祖父の代で傾きかけた葛城工業を立て直したカリスマ経営者で、父が社長の座にいる限りは、経営はまず安定するだろうと見做されていた。
見合い結婚だった両親は心から愛し合っていて、真那の幸せを願ってくれる人たちだった。
『……どうしてもお見合いが嫌なら仕方ないわね、貴女は、私そっくりな頑固娘だもの。お母さんは真那が本当に好きな人に出会えるように応援するわ』
親族から真那の婚約をせっつかれても、母は、いつも盾になって庇ってくれた。
父も『娘の気持ちを優先してあげたいし、大きくなれば自分で相手を見つけるだろうから』と、母同様に真那を守ってくれた。
けれど幸せな日々は、両親の死と共に終わった。父の弟には、葛城工業を支える力がなかったのだ。
だから、跡継ぎ娘の真那は、早急に『政略結婚のための道具』にならねばならなかった。
母方の祖父、弾正太一郎の支援を受けるため。祖父が目星を付けた『優秀な男』を夫に迎え、葛城工業の新たな経営者となってもらうため。
同族経営を絶対に譲らない葛城工業に、稀代の辣腕と呼ばれた弾正太一郎の力を取り込むために。それなのに……
――私は、弾正のお祖父様の言いつけに背きました。葛城家の後継者として、なんの役にも立てませんでした。許してください、お父様、お母様。
真那は顔を上げ、生まれ育った屋敷の玄関扉を開いた。目の前に、素晴らしい庭が広がる。
葛城家の庭は昔から美しいことで有名で、父母は知人や親戚を呼んでよく園遊会を開いていた。
真那がこの庭に戻る日は二度と来ない。どうか次の買い手が、父母の愛した庭園を美しく保ってくれますようにと心の中で祈ったとき……
「真那さん」
懐かしい声が聞こえた。視線の先に、門から入ってきたとおぼしき青年の姿が映る。
「時生……」
真那は思わず足を止めた。なぜ、彼がここにいるのだろう、日本にはいないはずなのに。
目を丸くした真那に歩み寄り、時生は言った。
「よかった、間に合って」
久しぶりに目にした姿に、どうしようもなく胸が騒ぎ始める。
「お、驚いたわ。貴方はアメリカにいたんじゃないの」
真那の問いに、時生が昔と変わらない静かな声で答えた。
「一時帰国したんです、休みを取って」
時生が切れ長の目を細める。
艶のある漆黒の瞳に見つめられ、真那は動けなくなる。引き締まった輪郭もまっすぐに伸びた背中も、最後に見たときより、男らしく力強く見えた。
成瀬時生は、真那より六つ年上の幼なじみだ。
長年真那の実家で働いていた家政婦、成瀬康子のひとり息子で、夫の浮気で独り身となった彼女に、女手一つで育てられていた。
幼い頃の時生は、台所の隅で母を待ちながら、勉強をしていた。
大きくなってからも、母の康子から力仕事に駆り出されて、よく葛城の屋敷に顔を出してくれたものだ。だから、真那とも頻繁に顔を合わせた。
真那の父は、時生に目を掛けていた。
もしも父が生きていたら、時生を葛城工業の重役候補として迎えたがったかもしれない。
『真那は、時生君をお婿さんに迎えたいのか?』
父のからかい半分の言葉に真那は、真っ赤になったものだ。
恐らく両親は感づいていたのだろう。異性に対しての娘の病的な狭量さでは、幼なじみの時生しか受け入れられないのだ、ということを……
――親だもの、気付くよね……
ほろ苦い気持ちで、真那は父の笑顔を思い返した。
――私も、いつか、時生のお嫁さんになれたらいいなぁって思っていたわ。時生も私を好きになってくれたらいいなって……本当に、子供だったな。
懐かしい。今となっては、なにもかもが遠い夢の話だ。
「母に真那さんのことを聞いて、すっ飛んできました。旦那様の弟さんが捕まったって聞いて」
多忙な時生は、休みを取るのだって大変だったろうに。
時生がどれほど真那を案じていたか、痛いくらいに伝わってきた。
昔からそうだ。時生は、『母の雇い主の娘』に過ぎない真那を、とても大事にしてくれた。真那のうぬぼれでなければ、本物の妹同然に思っていてくれたはずだ。
「こんなことになってるなら、メールで教えてくれればよかったのに」
――連絡なんてできるわけがない。貴方は心配して駆けつけてくれるもの。
真那の脳裏に、祖父の顔が浮かぶ。
『お前をたぶらかした男を私が許すと思うか。娘夫婦はあの成瀬とやらを可愛がっていたのかもしれないが、もう状況は変わった。真那、お前は私の指示に従いなさい』
胸に、一筋の冷や汗が伝った。
時生が大学を出たばかりの頃、祖父が彼をどんな目にあわせたのかを思い出したからだ。
日本での就職をことごとく邪魔され、排除され、彼は新天地を求めてアメリカに旅立たざるを得なかった。真那のせいで、時生は人生を狂わされてしまったのだ。
「ごめんなさい。一人で大丈夫だから、私」
無意識に顔を背けた真那の手首が、不意に握られた。
「そうですか? 俺にはそうは思えない」
――時生……そうよね、貴方は覚えているはずだわ。私がどんなにお見合いを嫌がっていたか……貴方に心配してもらえて、私は本当に幸せ者だわ。
目頭が熱くなる。真那にとって時生は、物心ついたときから憧れの人だった。
母親を支え、苦学しながらも、澄み切った水のように綺麗な空気を纏った、年上の男の子。
名家の令嬢として贅沢に育てられた世間知らずの真那にも優しく、『お嬢様と使用人の息子』という関係だからと卑屈になることもなかった。
いつもまっすぐに背を伸ばして、自分のすべきことを見据えているような、大人びた時生。
真那の目には、時生は神様から素晴らしい『ギフト』をもらった人間に見えた。
時生に対する真那の評価は今でも変わらない。彼は素晴らしい人だ。生まれも立場も時生の本質には関係ない。お見合いで、どんな名家のエリート御曹司に引き合わされても、真那には『時生が一番いい』としか思えなかったのだ。
吸い寄せられるように時生を見つめていた真那は、慌てて、視線をもぎ離した。
「時生は、自分のために時間を使って。心配してくれてありがとう」
二人の間に、沈黙が満ちた。握られた手首がひどく熱く感じる。
時生以外の男性は全部駄目なんて、真那の個人的な事情に過ぎない。
儚い初恋は、今日で終わらせる。時生には明るい未来に旅立ってもらおう。ただ真那に親切にしただけで、嫌がらせされて苦しむような、理不尽な思いはもうさせない。
「真那さんは、これからどうするつもりなんですか」
時生から目を逸らしたまま、真那は小さな声で答えた。
「叔父様の件で、騒動になってしまったでしょう。だから今後は、どこか遠くで暮らすつもり。家のことは、弁護士さんたちに一通り対応してもらったから大丈夫。私のお金もふさわしい団体に寄付したわ。身軽になったから……私は大丈夫よ」
不安なときこそ、大丈夫だと繰り返してしまうものだ。違和感を覚えたのか、時生がかすかに眉根を寄せる。
「真那さん、大学はどうされたんですか?」
「辞めたわ。自分で勉強するからいいの。こんなことになってしまって、周囲から好奇の目で見られて、通いづらいし」
そう答えたとき、真那の胸はかすかに痛んだ。本当はもっと勉強して父の跡を継ぎたかった。そのときに、隣に時生がいてくれたらいいな、と夢見ていた。
未練は判断を鈍らせる。もう時生の前から去ろうと心を決めた瞬間、彼が口を開いた。
「あの……真那さん……」
思いつめたような口調に、真那は思わず目を開き時生を見上げる。
いつも落ち着き払っている時生の声は、わずかにうわずっていた。
「俺が就職したあと、母も無事に再婚しました。あとは、真那さんだけです。俺の力では、昔と同じようには無理ですが、……俺を頼ってもらえませんか?」
恋しい相手の優しい言葉に、真那の胸が疼いた。時生がこんなことを言い出した理由は薄々察しが付く。
亡き両親は、シングルマザーで苦労していた時生の母を助け、屋敷の家政婦として雇い、時生のことも大学に通えるよう支援していた。
時生にとっては、真那の両親は恩人なのだ。だから彼は、そのお返しに真那を助けてくれようとしているに違いない。
――お父様とお母様はもういない。私のことなんて無視しても、誰も貴方を責めないのに……お祖父様だって、あんなに貴方にひどいことを言ったのに。孫に近づくなとか、お父様とお母様のお葬式に来ないでくれ、とか……
優しくてまっすぐで、えもいわれぬ情熱を湛えた目だ。
涙が滲みそうになり、真那は無言で首を振る。
「気持ちだけで充分よ、ありがとう。具体的にお願いできることはないから、あとの自分の始末は自分で付けます」
「い、いや、そうではなく……あの……」
整いすぎた顔をかすかに赤く染め、時生がやや途切れがちな口調で言った。
「俺と結婚、か……形だけでもいいので、結婚して、一緒にアメリカに来てください。貴女はずっと俺が守りたい」
勇気を振り絞ったのだろう。
時生の口調は、いつになくぎこちなかった。
朴訥な言葉に、真那の身体がふわりと温かくなる。
好きだった人に守りたいと言われて、嬉しかった。泣きたいくらいに嬉しい。
だが、時生は、もう真那の嵌まった泥沼に関わらなくていい。
せっかくこれまで未来を切り開こうと頑張ってきたのだから、そのまま明るい場所に行ってほしいと思っている。
迷惑を掛けるのが怖い。足手まといには、なりたくない。
「行かないわ」
真那はきっぱり首を振った。だが、時生は諦めなかった。
「俺は昔から貴女が大事なんです。だから守ります。一緒に来てほしい」
真摯な声音に、真那の視界がぐにゃりと歪んだ。
五つも年下の、妹も同然の幼なじみ。そして、恩人の娘。
愛されてはいなくても、信じられないほど大切にしてもらえる。だからこそ、縋ってはいけないのだと改めて実感した。
――泣くな。
自分にそう言い聞かせ、真那はもう一度首を振る。
「ありがとう。でも私、一人で大丈夫だから」
他人行儀過ぎる真那の答えに、時生が怯んだように口をつぐむ。
当たり前だ。本来は、誠実な相手に対してこんなそっけない態度を取るべきではない。
泣きたい気持ちを誤魔化そうと、真那は庭の花々に目をやる。
色とりどりの花が、甘い香りを振りまいていた。持ち主の人生は大きく変わったのに、庭は昔のままだ。
かつてはこの庭で、優しい両親が微笑んでいた。真那は、康子に駆り出された時生と二人、庭の手入れを手伝ったものだ。
草むしりの途中、飛び出してきた虫に悲鳴を上げて、時生に笑われた。手伝いを終えたあと、母が入れてくれたアイスティーは、世界で一番美味しかった……
完璧な幸福に彩られた世界は、遠い過去。
どんなに戻りたくても、もう戻れない。
真那は悟られないよう歯を食いしばり、顔を上げて、緊張の面持ちを浮かべる時生に告げた。
「じゃあ時生、元気でね」
これで時生が引き下がってくれればいい。どうか、わかりましたと答えて、真那を置いて去ってほしい。これ以上ひどいことを言いたくない。
だが、真那の必死な祈りと裏腹に、時生は首を横に振った。
「待ってください。俺は一人で行かせるのは嫌だ」
去ろうとする真那の身体を、時生が乱暴に抱き寄せる。
子供の頃、ふざけて抱きついて以来だ。
しなやかで力強い男の身体の感触を初めて知って、真那は激しく動揺した。
「真那さんのことを本当に助けたいんです」
まっすぐな言葉が胸をえぐる。
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