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16 エピローグ
あの子はどこへ行ったのだろう。私はどこへ行くのだろう。レンシェン様を探しに行きたかったのに。
真っ暗な空間にうずくまったまま、私は途方に暮れた。
ここはあの世なのだろうか?
起きているのか眠っているのか分からず、ぼんやりとしゃがみこんでいると、闇の中で私の前に誰かが屈みこむ気配がした。
ふわふわとはっきりしない意識のまま、私は顔を上げた。
王太子宮の庭に咲き乱れる、私の好きな花の香が漂ってくる。
「ここに居たんですね、お探ししました」
レンシェン様の声だった。暗くて顔がよく見えないが、彼の声を聞き間違えるなんてありえない。
彼の傍らにも、誰かがいる気配がする。だけど、小さいみたいだ。小柄な私よりも下の方から視線を感じる。
口調はぜんぜん違うけれど、レンシェン様が迎えに来てくれたのかもしれない。私は嬉しくなって手を差し伸べる。
「レンシェン様、ご無事だったのですね……!」
そこに立つ男の人が、細いしなやかな指で私の手を取ってくれた。
――違う。レンシェン様の手ではない。これはもっと若い、男の子の手だ。
驚いた私が立ち上がるのに手を貸してくれ、彼が私の手を取ったまま歩き出す。
そのときふいに、私のもう片方の手に、小さな子どもがしがみついてくる感触がした。
長いさらさらの髪の感触からすると、女の子のようだ。
男の子と女の子。この二人は誰だろう。この暗い場所はどこなのだろう。不思議に思う私に、手を引いてくれる男の子が言った。
「行きましょう。貴方は早くここを出ないと」
やはり声はレンシェン様そっくりなのだ。だが、落ち着いて聞いてみると、もっと若い男の子のような感じもする。
「……僕は多分、勉強が好きなんです。とにかく色々な本を読んでみたいな」
不意に、私の手を引く男の子が言った。
何の話だろう。怪訝に思った私のすぐ下から、甘えるような愛らしい女の子の声がする。
「私はお友達がいっぱいほしいわ! 人とお喋りするのがきっと好きだから!」
「じゃあ僕は、色々な場所に行ってみたい」
「私は、お花を育ててみたい」
「僕は、色んな言葉を学んでみたい」
「私は、世界一キレイなドレスを着るわ」
「僕は、そうだな、料理をたくさん作りたい」
「私が食べてあげるわ!」
「こら、お前も一緒に作るんだ」
不思議な会話だな、と思いながらも、私は思わず微笑んでしまった。こんなに真っ暗で何も見えないのに、彼らの会話がとても無邪気だったからだ。
どのくらい歩いたのだろう。時間の感覚がまるでない。闇の中で私に寄り添った二人は、無邪気に自分たちのしたいことを言い合っている。
「ここはどこなのかしら」
つぶやいた私に、笑いながら話をしていた男の子が明瞭な声で答えた。
「日本とレファントスの時の谷間です。世界と世界の間を埋める、時の止まった場所」
時の谷間? 不思議な言葉に私は首をかしげる。
「死んでいる人と生きている人の間にある世界よ。力を使いすぎて、ここに落ちてきちゃったんだわ。でも大丈夫、私達が外まで連れて行ってあげるから」
女の子が明るい声で言って、私の腕に更なる力で抱きついてくる。
「……ほら、あちらです。あれが出口」
そう言われ私は行き先に目を凝らす。小さな光の点が見える。
「どこに出るのかしら」
私の不安げな言葉に、私の腕に抱きついていた女の子がクスクスと笑った。
「ねえ、早く行きましょう?」
「え、ええ」
女の子の声に促され、私は慌てて光目指して歩き出した。
そんなに歩いたとも思えないのに、あっという間に光が大きく強くなり、私は思わず目を細める。
眩しさにくらくらしていた私の手を離し、男の子が一歩後ずさる。べったりしがみついていた女の子も、私から離れてしまった。
「じゃあ、お元気で」
「あなた達は外に行かないの?」
驚いて振り返った私は、言葉を失った。
そこに立っていたのは今より若いレンシェン様そっくりな男の子と、見知らぬ美しい女の子だったからだ。
眩しい光が、今まで隠されていた二人の姿を露わにしている。
ふたりとも聖王家の人々特有のきらめく銀の髪に、透き通るような緑色の瞳をしていた。宝石細工のような二人の姿に、私は言葉を失った。
「僕達はこれから色々な事を経験したい。楽しみなことが山のようにあって、数え切れないくらい挑戦したいことがあるから」
男の子の言葉に、女の子が元気な声で叫ぶ。
「ええ、楽しみ! 私はいつか、お嫁さんになって素敵なドレスを着たいわ!」
私は、思わず彼らに手を差しのべた。
この子たちが誰だか分かったからだ。今すぐにでも抱きしめたい、この子たちは、私の命より大事な……
そこで私の思考が不自然に途切れる。
……この子たちは、私の命より大事な、誰なのだろう?
「待って!」
考えた瞬間、巨大な手に掴まれたかのように、私の身体はその子達と引き離された。
「またいつか! 僕達をいっぱい愛してくださいね!」
大きく手を振る男の子と女の子の笑顔が遠ざかる。
周囲に、色々なものが見えた。放心したように椅子に腰を下ろしているレンシェン様の姿が、ぼんやりと本を読んでいるアイーダの姿が、折り紙をしている孤児院の子たちが。
それから、さっきまで世界を呪っていた女の子にそっくりな、愛らしい赤ちゃんが誰かに抱かれている姿も見える。
遠い過去の聖女の姿が見える。遠い未来の何かが見える。森が見える。花が見える。樹が見える。空が見える。街が、国が、ありとあらゆるものが見える。
そう思った瞬間、全てはぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、私と一緒に光の渦に巻き込まれてしまった。
眩しい。眩しくて、寝ていられない……。
私は顔をしかめ、そっと目を開けた。目がズキズキと痛む。何もかもが眩しく感じられる。
嫌だな、ずっと寝ていたのかな、と考えた瞬間我に返った。なぜ私は王太子宮に戻ってきているのだろう。レンシェン様はどこにいるのだろう?
ふらつく足を踏みしめ、私は立ち上がった。
――気持ち悪い。
思わず口元を抑え、もしかしてまだ、世界の病は癒えていないのではないか、と一抹の不安がよぎる。
私の体調不良はあの病の影響だったのではなかったのか。私はもしかして病気になったのだろうか?
「うう……」
吐き気が凄くてよろよろとソファに座り、私はいつも置かれている果物のかごに手を伸ばした。
お茶に絞っていれる果実を手に取り、一心不乱に皮を剥く。
そのまま食べるには酸味が強いのだが、今は食べたくて仕方がない。
無心にむしゃむしゃと果物をかじっていたら、静かにドアが開いて、疲れ果てた顔のレンシェン様が入ってきた。
私はびっくりして、果物をかじる手を止めた。
レンシェン様は、ご無事だったのだ。
私たちは言葉もなく、しばらく見つめ合った。
「玲奈……」
レンシェン様の声で我に返り、私は果物を置いて立ち上がり、立ち尽くす彼に駆け寄った。
「心配しました! アイーダに全部聞きましたよ?……私……本当に心配して……」
そこまで言いかけ、目からボロボロ涙が落ちてくる。色々な思いがこみ上げてきて言葉にならない。
私は貴方に嘘をつかせたのか。貴方に強い保護者であって欲しいと強いすぎてしまったのか。私が頼りないから、貴方は一人で全部抱え込んで、一人で病を食い止める犠牲になろうとなさったのだろうか……私だけを安全な日本に帰して、自分は王太子にふさわしく、レファントスの犠牲となって死のうと……。
涙が止まらず、果汁の匂いのする手で顔を拭った瞬間だった。
「馬鹿! 心配したのは僕だ!」
びっくりするほど強い口調で、レンシェン様がそう仰った。同時に私の身体は彼の腕の中に潰れそうなくらいに強く抱きしめられた。
見た目よりもたくましい体がかすかに震えていることに気づき、私は言葉を失う。
「あの……心配したのは私なんですけど」
ようやく絞り出した言葉はそんな言葉だった。
怒られる筋合いは……あるかもしれないけれど、レンシェン様だって、私に何の相談もなく勝手に危ない道を選んだりして。
それにあの腕輪、私一人を日本に帰して二度と会えなくても良いだなんて、酷すぎる。
再び目に涙が滲んでしまい、私は広い胸に顔を埋めながらつぶやいた。
「ずっと一緒に居ると約束して下さるなら、世界が滅びる時も一緒に居ると言ってほしかったです。今度からはそう仰ってくださいね」
私の帰る世界などレンシェン様の元しかないのだ。
だから、どんなところにも私を連れて行ってほしい。
「何をバカなことを。君を守るのは僕の役目だ。何度もそう誓ったはず」
レンシェン様がようやく腕を解き、私の顎を軽く持ち上げた。
「大丈夫なのか、気分は、極地で倒れていた君は、あのあと半月も眠っていたんだ。呼吸も脈もほとんどなくて、医者は原因がわからないし治療法もわからないと言うだけだ。心配した……本当に……体がちぎれるくらい」
その頬が涙で濡れていることに気づき、私は慌てて手を上げて、指でその涙を拭った。
「そんなに眠っていたとは思えません……喉も乾いていませんし……」
ほんの少しの間うたた寝をしていただけのように思える。ただ、やたらと気分が悪いのが気になるが。
「そう……信じられないけれどそうなのかな。無事なら良いんだ。良いんだけど、あんな無茶をしたことが許せない。まさか極地に来るなんて」
「こんな腕輪はお返しします。私はもう、貴方を置いて日本には帰りません」
手首にはめたままの美しく残酷な腕輪を、私ははずした。
差し出した腕輪を受けとり、レンシェン様が無言でそれを握りしめる。
私たちは再び見つめ合い、どちらからともなく寄り添った。
「申し訳ありません、いつもご心配ばかりおかけして……そういえば、世界は……」
レンシェン様に伺いつつ、私は窓の外に目をやった。抜けるような冬の青空が広がっている。
おそらく、あの子の泣き叫ぶ声はもう聞こえないだろう。私は自分の都合で、この世界を滅ぼしてしまうあの子を、永劫の眠りにつかせてしまった。
遠い昔に異世界から来てしまい、そのまま命を落とし、力と怨念の凝ったような存在になり、この世界の病となってとどまり続けたあの子を。
私達は、同じようなもの同士だった。
この世界に受け入れられたい、どうかここに居させてほしいと願う、異世界の魂同士だった。
「大丈夫だよ、病の気配はもう感じられないとアイーダが言っていた。念のために定期的に点検するらしい。自然の状態の回復も早くて、半年前とはまるで違うそうだ」
その答えにホッとして、もう一度レンシェン様に寄り添う。
「玲奈」
レンシェン様が、私の耳元で囁いた。
「ありがとう。君は……偉大なる聖女だ、君が居なければこの世界は遠からず終わっていた」
私はその言葉に首を振る。私は世界を救いたいなんて考えなかった。
ただ、貴方の側にいたかっただけ、それだけだ。
そう答えようとしたのに、私はレンシェン様の腕を離れ、食べかけの酸っぱい果実に手を伸ばしてしまった。
何だか我慢できない。やっぱり気持ち悪くて、これがかじりたくてたまらないのだ。今は大事な話をしていると分かっているのに。
普通はそのまま食べない酸っぱい果実に平気で歯を立てる私を、レンシェン様がびっくりなさったように見つめている。
「どうしたの」
それはそうだ。呆れるに決まっている。
でも気持ち悪くて……本当にどうしたんだろう。果実を食べていたら吐き気がこみ上げてきて、私は手洗い場に走った。
「玲奈?」
レンシェン様に返事をする余裕もない。空っぽの胃を持て余して咳き込みながら、私はふと気づく。月のものを見ずに随分と時間が経っていることに。
びっくりして吐き気も引っ込み、思わずお腹を押さえた時、レンシェン様がエレナさんたちと一緒に駆け込んできた。
「レナ様、いかがされました」
真剣な顔で尋ねてくるエレナさんの前で、私は真っ赤になりながら思わずお腹をかばう。いや、お医者様に診てもらうまでわからない。でも……。
「あ、あの、気分が悪くて」
私の様子から何かを悟ったのか、エレナさんが傍らの侍女さんに目配せする。すぐに部屋を出ていった彼女を目で追い、エレナさんがニッコリ笑った。
「すこし落ち着かれましたか?」
真っ赤になって無言で頷く私を、レンシェン様がわけがわからないという顔で見つめている。
何を言って良いのか分からず、私はうつむいた。
何もかもまずはお医者様に見てもらってからだ。
子供をとても欲しがっている彼をぬか喜びさせる訳にはいかない。
私の脳裏に、知らない誰かの声が響く。
僕達をいっぱい愛してくださいね。私にそう言ったのは誰だっただろう……つい最近聞いた気がするのに、どうして思い出せないのだろう?
心配そうなレンシェン様に抱き寄せられ、私は突然降ってわいた世界一の幸せかも知れない喜びをそっと噛みしめた。
「大丈夫か」
「はい」
そのぬくもりに身を委ねながら、私は頷いた。
生まれた世界でなくてもいい。私はこの人のそばにいたい。この人と運命を最後まで……。
世界が違うというのは、とても重いことだ。たとえば人生が終わった時に、私だけおばあちゃんやお父さんお母さんのところに行けないかもしれない。
でも、私は、レンシェン様と私の人生を重ねて、最後まで生ききりたい。
「大丈夫です。レン様があまり私に心配をかけなければ」
冗談めかしてそう答えると、レンシェン様が美しい顔をクシャッと歪めて、笑った。
「全く……それは僕の台詞だよ、妃殿下」
私達が、大切な宝物に会えたのは、その翌年の夏の終わり。
レンシェン様は事前に百も考えた名前のなかから、彼にそっくりな男の赤ちゃんにどんな名をつけようかと三日三晩悩み続けることになる。
真っ暗な空間にうずくまったまま、私は途方に暮れた。
ここはあの世なのだろうか?
起きているのか眠っているのか分からず、ぼんやりとしゃがみこんでいると、闇の中で私の前に誰かが屈みこむ気配がした。
ふわふわとはっきりしない意識のまま、私は顔を上げた。
王太子宮の庭に咲き乱れる、私の好きな花の香が漂ってくる。
「ここに居たんですね、お探ししました」
レンシェン様の声だった。暗くて顔がよく見えないが、彼の声を聞き間違えるなんてありえない。
彼の傍らにも、誰かがいる気配がする。だけど、小さいみたいだ。小柄な私よりも下の方から視線を感じる。
口調はぜんぜん違うけれど、レンシェン様が迎えに来てくれたのかもしれない。私は嬉しくなって手を差し伸べる。
「レンシェン様、ご無事だったのですね……!」
そこに立つ男の人が、細いしなやかな指で私の手を取ってくれた。
――違う。レンシェン様の手ではない。これはもっと若い、男の子の手だ。
驚いた私が立ち上がるのに手を貸してくれ、彼が私の手を取ったまま歩き出す。
そのときふいに、私のもう片方の手に、小さな子どもがしがみついてくる感触がした。
長いさらさらの髪の感触からすると、女の子のようだ。
男の子と女の子。この二人は誰だろう。この暗い場所はどこなのだろう。不思議に思う私に、手を引いてくれる男の子が言った。
「行きましょう。貴方は早くここを出ないと」
やはり声はレンシェン様そっくりなのだ。だが、落ち着いて聞いてみると、もっと若い男の子のような感じもする。
「……僕は多分、勉強が好きなんです。とにかく色々な本を読んでみたいな」
不意に、私の手を引く男の子が言った。
何の話だろう。怪訝に思った私のすぐ下から、甘えるような愛らしい女の子の声がする。
「私はお友達がいっぱいほしいわ! 人とお喋りするのがきっと好きだから!」
「じゃあ僕は、色々な場所に行ってみたい」
「私は、お花を育ててみたい」
「僕は、色んな言葉を学んでみたい」
「私は、世界一キレイなドレスを着るわ」
「僕は、そうだな、料理をたくさん作りたい」
「私が食べてあげるわ!」
「こら、お前も一緒に作るんだ」
不思議な会話だな、と思いながらも、私は思わず微笑んでしまった。こんなに真っ暗で何も見えないのに、彼らの会話がとても無邪気だったからだ。
どのくらい歩いたのだろう。時間の感覚がまるでない。闇の中で私に寄り添った二人は、無邪気に自分たちのしたいことを言い合っている。
「ここはどこなのかしら」
つぶやいた私に、笑いながら話をしていた男の子が明瞭な声で答えた。
「日本とレファントスの時の谷間です。世界と世界の間を埋める、時の止まった場所」
時の谷間? 不思議な言葉に私は首をかしげる。
「死んでいる人と生きている人の間にある世界よ。力を使いすぎて、ここに落ちてきちゃったんだわ。でも大丈夫、私達が外まで連れて行ってあげるから」
女の子が明るい声で言って、私の腕に更なる力で抱きついてくる。
「……ほら、あちらです。あれが出口」
そう言われ私は行き先に目を凝らす。小さな光の点が見える。
「どこに出るのかしら」
私の不安げな言葉に、私の腕に抱きついていた女の子がクスクスと笑った。
「ねえ、早く行きましょう?」
「え、ええ」
女の子の声に促され、私は慌てて光目指して歩き出した。
そんなに歩いたとも思えないのに、あっという間に光が大きく強くなり、私は思わず目を細める。
眩しさにくらくらしていた私の手を離し、男の子が一歩後ずさる。べったりしがみついていた女の子も、私から離れてしまった。
「じゃあ、お元気で」
「あなた達は外に行かないの?」
驚いて振り返った私は、言葉を失った。
そこに立っていたのは今より若いレンシェン様そっくりな男の子と、見知らぬ美しい女の子だったからだ。
眩しい光が、今まで隠されていた二人の姿を露わにしている。
ふたりとも聖王家の人々特有のきらめく銀の髪に、透き通るような緑色の瞳をしていた。宝石細工のような二人の姿に、私は言葉を失った。
「僕達はこれから色々な事を経験したい。楽しみなことが山のようにあって、数え切れないくらい挑戦したいことがあるから」
男の子の言葉に、女の子が元気な声で叫ぶ。
「ええ、楽しみ! 私はいつか、お嫁さんになって素敵なドレスを着たいわ!」
私は、思わず彼らに手を差しのべた。
この子たちが誰だか分かったからだ。今すぐにでも抱きしめたい、この子たちは、私の命より大事な……
そこで私の思考が不自然に途切れる。
……この子たちは、私の命より大事な、誰なのだろう?
「待って!」
考えた瞬間、巨大な手に掴まれたかのように、私の身体はその子達と引き離された。
「またいつか! 僕達をいっぱい愛してくださいね!」
大きく手を振る男の子と女の子の笑顔が遠ざかる。
周囲に、色々なものが見えた。放心したように椅子に腰を下ろしているレンシェン様の姿が、ぼんやりと本を読んでいるアイーダの姿が、折り紙をしている孤児院の子たちが。
それから、さっきまで世界を呪っていた女の子にそっくりな、愛らしい赤ちゃんが誰かに抱かれている姿も見える。
遠い過去の聖女の姿が見える。遠い未来の何かが見える。森が見える。花が見える。樹が見える。空が見える。街が、国が、ありとあらゆるものが見える。
そう思った瞬間、全てはぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、私と一緒に光の渦に巻き込まれてしまった。
眩しい。眩しくて、寝ていられない……。
私は顔をしかめ、そっと目を開けた。目がズキズキと痛む。何もかもが眩しく感じられる。
嫌だな、ずっと寝ていたのかな、と考えた瞬間我に返った。なぜ私は王太子宮に戻ってきているのだろう。レンシェン様はどこにいるのだろう?
ふらつく足を踏みしめ、私は立ち上がった。
――気持ち悪い。
思わず口元を抑え、もしかしてまだ、世界の病は癒えていないのではないか、と一抹の不安がよぎる。
私の体調不良はあの病の影響だったのではなかったのか。私はもしかして病気になったのだろうか?
「うう……」
吐き気が凄くてよろよろとソファに座り、私はいつも置かれている果物のかごに手を伸ばした。
お茶に絞っていれる果実を手に取り、一心不乱に皮を剥く。
そのまま食べるには酸味が強いのだが、今は食べたくて仕方がない。
無心にむしゃむしゃと果物をかじっていたら、静かにドアが開いて、疲れ果てた顔のレンシェン様が入ってきた。
私はびっくりして、果物をかじる手を止めた。
レンシェン様は、ご無事だったのだ。
私たちは言葉もなく、しばらく見つめ合った。
「玲奈……」
レンシェン様の声で我に返り、私は果物を置いて立ち上がり、立ち尽くす彼に駆け寄った。
「心配しました! アイーダに全部聞きましたよ?……私……本当に心配して……」
そこまで言いかけ、目からボロボロ涙が落ちてくる。色々な思いがこみ上げてきて言葉にならない。
私は貴方に嘘をつかせたのか。貴方に強い保護者であって欲しいと強いすぎてしまったのか。私が頼りないから、貴方は一人で全部抱え込んで、一人で病を食い止める犠牲になろうとなさったのだろうか……私だけを安全な日本に帰して、自分は王太子にふさわしく、レファントスの犠牲となって死のうと……。
涙が止まらず、果汁の匂いのする手で顔を拭った瞬間だった。
「馬鹿! 心配したのは僕だ!」
びっくりするほど強い口調で、レンシェン様がそう仰った。同時に私の身体は彼の腕の中に潰れそうなくらいに強く抱きしめられた。
見た目よりもたくましい体がかすかに震えていることに気づき、私は言葉を失う。
「あの……心配したのは私なんですけど」
ようやく絞り出した言葉はそんな言葉だった。
怒られる筋合いは……あるかもしれないけれど、レンシェン様だって、私に何の相談もなく勝手に危ない道を選んだりして。
それにあの腕輪、私一人を日本に帰して二度と会えなくても良いだなんて、酷すぎる。
再び目に涙が滲んでしまい、私は広い胸に顔を埋めながらつぶやいた。
「ずっと一緒に居ると約束して下さるなら、世界が滅びる時も一緒に居ると言ってほしかったです。今度からはそう仰ってくださいね」
私の帰る世界などレンシェン様の元しかないのだ。
だから、どんなところにも私を連れて行ってほしい。
「何をバカなことを。君を守るのは僕の役目だ。何度もそう誓ったはず」
レンシェン様がようやく腕を解き、私の顎を軽く持ち上げた。
「大丈夫なのか、気分は、極地で倒れていた君は、あのあと半月も眠っていたんだ。呼吸も脈もほとんどなくて、医者は原因がわからないし治療法もわからないと言うだけだ。心配した……本当に……体がちぎれるくらい」
その頬が涙で濡れていることに気づき、私は慌てて手を上げて、指でその涙を拭った。
「そんなに眠っていたとは思えません……喉も乾いていませんし……」
ほんの少しの間うたた寝をしていただけのように思える。ただ、やたらと気分が悪いのが気になるが。
「そう……信じられないけれどそうなのかな。無事なら良いんだ。良いんだけど、あんな無茶をしたことが許せない。まさか極地に来るなんて」
「こんな腕輪はお返しします。私はもう、貴方を置いて日本には帰りません」
手首にはめたままの美しく残酷な腕輪を、私ははずした。
差し出した腕輪を受けとり、レンシェン様が無言でそれを握りしめる。
私たちは再び見つめ合い、どちらからともなく寄り添った。
「申し訳ありません、いつもご心配ばかりおかけして……そういえば、世界は……」
レンシェン様に伺いつつ、私は窓の外に目をやった。抜けるような冬の青空が広がっている。
おそらく、あの子の泣き叫ぶ声はもう聞こえないだろう。私は自分の都合で、この世界を滅ぼしてしまうあの子を、永劫の眠りにつかせてしまった。
遠い昔に異世界から来てしまい、そのまま命を落とし、力と怨念の凝ったような存在になり、この世界の病となってとどまり続けたあの子を。
私達は、同じようなもの同士だった。
この世界に受け入れられたい、どうかここに居させてほしいと願う、異世界の魂同士だった。
「大丈夫だよ、病の気配はもう感じられないとアイーダが言っていた。念のために定期的に点検するらしい。自然の状態の回復も早くて、半年前とはまるで違うそうだ」
その答えにホッとして、もう一度レンシェン様に寄り添う。
「玲奈」
レンシェン様が、私の耳元で囁いた。
「ありがとう。君は……偉大なる聖女だ、君が居なければこの世界は遠からず終わっていた」
私はその言葉に首を振る。私は世界を救いたいなんて考えなかった。
ただ、貴方の側にいたかっただけ、それだけだ。
そう答えようとしたのに、私はレンシェン様の腕を離れ、食べかけの酸っぱい果実に手を伸ばしてしまった。
何だか我慢できない。やっぱり気持ち悪くて、これがかじりたくてたまらないのだ。今は大事な話をしていると分かっているのに。
普通はそのまま食べない酸っぱい果実に平気で歯を立てる私を、レンシェン様がびっくりなさったように見つめている。
「どうしたの」
それはそうだ。呆れるに決まっている。
でも気持ち悪くて……本当にどうしたんだろう。果実を食べていたら吐き気がこみ上げてきて、私は手洗い場に走った。
「玲奈?」
レンシェン様に返事をする余裕もない。空っぽの胃を持て余して咳き込みながら、私はふと気づく。月のものを見ずに随分と時間が経っていることに。
びっくりして吐き気も引っ込み、思わずお腹を押さえた時、レンシェン様がエレナさんたちと一緒に駆け込んできた。
「レナ様、いかがされました」
真剣な顔で尋ねてくるエレナさんの前で、私は真っ赤になりながら思わずお腹をかばう。いや、お医者様に診てもらうまでわからない。でも……。
「あ、あの、気分が悪くて」
私の様子から何かを悟ったのか、エレナさんが傍らの侍女さんに目配せする。すぐに部屋を出ていった彼女を目で追い、エレナさんがニッコリ笑った。
「すこし落ち着かれましたか?」
真っ赤になって無言で頷く私を、レンシェン様がわけがわからないという顔で見つめている。
何を言って良いのか分からず、私はうつむいた。
何もかもまずはお医者様に見てもらってからだ。
子供をとても欲しがっている彼をぬか喜びさせる訳にはいかない。
私の脳裏に、知らない誰かの声が響く。
僕達をいっぱい愛してくださいね。私にそう言ったのは誰だっただろう……つい最近聞いた気がするのに、どうして思い出せないのだろう?
心配そうなレンシェン様に抱き寄せられ、私は突然降ってわいた世界一の幸せかも知れない喜びをそっと噛みしめた。
「大丈夫か」
「はい」
そのぬくもりに身を委ねながら、私は頷いた。
生まれた世界でなくてもいい。私はこの人のそばにいたい。この人と運命を最後まで……。
世界が違うというのは、とても重いことだ。たとえば人生が終わった時に、私だけおばあちゃんやお父さんお母さんのところに行けないかもしれない。
でも、私は、レンシェン様と私の人生を重ねて、最後まで生ききりたい。
「大丈夫です。レン様があまり私に心配をかけなければ」
冗談めかしてそう答えると、レンシェン様が美しい顔をクシャッと歪めて、笑った。
「全く……それは僕の台詞だよ、妃殿下」
私達が、大切な宝物に会えたのは、その翌年の夏の終わり。
レンシェン様は事前に百も考えた名前のなかから、彼にそっくりな男の赤ちゃんにどんな名をつけようかと三日三晩悩み続けることになる。
この作品は感想を受け付けておりません。
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