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第1話 晴天勁風
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ツンっと鼻をつく磯の香りで目を覚ました。どうやら寝ていたらしい。
見回した車内は立っている乗客が10人程度の適度な混雑状況。いや、この電車の行き先が観光地と考えると空いていると言う方が正しいのかもしれない。
減速を始めた電車の窓から見える久しぶりの故郷の景色。寂れつつある温泉街。それがオレの故郷、箱ヶ原温泉郷だ。
「九十九堂の九角壮平君でしょ?」
午後3時。ホームに降り立ったオレを屋号付きのフルネームで呼ぶ声。この手の呼び方をするのは地元の人間だ。しかも変に気取りのない呼び方から昔馴染みである事も間違いない。
特に返事をせずに振り返ると、そこにはひとりの女性が立っていた。
小さめの顔に黒縁の眼鏡。その奥には穏かやな瞳。緩くまとめた髪が潮風にあおられてフワフワと揺れている。
その顔には覚えがあった。
「実山・・・・・・『隠れ処』の実山巴か?」
正式に言えば『隠れ処』は屋号ではなく、実山の家が営む喫茶店『湯隠れ』の隠語だ。
だが、彼女と同世代の人間にとって、それは実山巴を呼ぶ際の枕詞のようなモノであり、誰もが使っている呼び名だった。
「へぇー。私の事、覚えていてくれたんだ。昔の女だから忘れているかと思った」
薄く笑いながら左手で髪をかき上げる彼女の薬指に光る小さな指輪。
「昔の女ってなんだよ」
ただ笑って照れ隠しをするしかなかった自分が酷く幼く思えた。無論、昔馴なじみ特有の冗談なのは分かっていた。
「久しぶりね。元気だった? 東京の大学に行ったんだっけ? 九角君、何だかんだで昔から頭良かったもんね」
そう語る実山の姿は、抑え気味のフォーマルウェアを着ている為か、旅行客の姿が目立つ駅では浮いて見える。
「一浪しての入学だったから威張れたもんじゃないよ。おまけに今は就職浪人という名のフリーターで、病院の事務当直とパソコン修理のアルバイトで日銭稼ぎしてる状態だよ」
それなりに言い分はある。しかし、ひとことで言えば“碌な就職活動もしてこなかった報い”というヤツなのだろう。
「九角君、変な所に拘りがあるからなぁ」
懐かしむように語る実山。
「オレはそんなに頑な人間じゃないよ。持久力も無いし、拘りにも欠ける方さ」
やたらに大きな声で騒ぎ立てている中国人の前を横切り、自動改札に左手でsuikaを翳し構内を2人並んで歩いていく。
「そんな持久力も拘りも無い九角君が帰って来たと言う事は、いよいよ家業を継ぐ気になったのかな?」
世間話ついで。
そんな小慣れた彼女の聞き方にオレが故郷を離れていた歳月を感じた。
「跡継ぎは姉貴だよ。それにオレにはみやげ屋兼酒屋なんて似合わないだろ?」
改装工事をしたのだろう。ふと見上げた駅構内の天井の高さは以前の倍以上になっている。
「家業なんて似合うに合わないでするモノじゃないわ」
諭すように実山は笑っていた。
「そういうモンかな?」
「そういうものよ・・・・・・どう? 久しぶりだし、ウチに寄ってコーヒーでも飲んでかない? 奢るわよ」
親父の事がなければ、喜んで向かっていたであろう、この誘い。
「嬉しいお誘いだけど、久しぶりの帰郷なんで、今日のところは、まず実家に顔出しておくよ」
「そっか、じゃあ『隠れ処』で待つとしようかな」
必要以上に踏み込まない会話。
この街の多くは接客業を営む家で生まれ育つ。その為か、オレのような例外を除き、殆どの人間が会話の距離感をとる事に長けている。
「お盆過ぎまではいるつもりだから、隠れ処には近いうちに顔を出すよ」
「アラ、嬉しい事を言ってくれるじゃない。じゃあ、特別サービスにイイ事教えてあげる。ウチに来るなら夕方の5時くらいがオススメよ・・・・・・じゃあ、私こっちだから、今日は晴天勁風の日、ウチも頑張って稼がないと!」
実山は意味ありげな笑みを浮かべ、挨拶代わりなのか俺の肩をひとつ叩くと『隠れ処』のある駅西側裏路地の方へと消えていった。
晴天勁風。
この温泉街ではかき入れ時を表す言葉。
オレにとっても大きな意味を持つ言葉。
そんな、かき入れ時にも関らず、駅前を行きかう人の流れは昔より疎らに見えた。
“ソコソコの観光地”地元の人間は皆、口を揃えてそう評す。
「さてと・・・・・・オレも行かないとな」
そうつぶやき、肩にの鞄を掛け直した時に、右手に鈍い痛みが走る。オレは自分の迂闊さに呆れながら、実家のある目抜き通りの坂道をゆっくりと登りはじめた。
見回した車内は立っている乗客が10人程度の適度な混雑状況。いや、この電車の行き先が観光地と考えると空いていると言う方が正しいのかもしれない。
減速を始めた電車の窓から見える久しぶりの故郷の景色。寂れつつある温泉街。それがオレの故郷、箱ヶ原温泉郷だ。
「九十九堂の九角壮平君でしょ?」
午後3時。ホームに降り立ったオレを屋号付きのフルネームで呼ぶ声。この手の呼び方をするのは地元の人間だ。しかも変に気取りのない呼び方から昔馴染みである事も間違いない。
特に返事をせずに振り返ると、そこにはひとりの女性が立っていた。
小さめの顔に黒縁の眼鏡。その奥には穏かやな瞳。緩くまとめた髪が潮風にあおられてフワフワと揺れている。
その顔には覚えがあった。
「実山・・・・・・『隠れ処』の実山巴か?」
正式に言えば『隠れ処』は屋号ではなく、実山の家が営む喫茶店『湯隠れ』の隠語だ。
だが、彼女と同世代の人間にとって、それは実山巴を呼ぶ際の枕詞のようなモノであり、誰もが使っている呼び名だった。
「へぇー。私の事、覚えていてくれたんだ。昔の女だから忘れているかと思った」
薄く笑いながら左手で髪をかき上げる彼女の薬指に光る小さな指輪。
「昔の女ってなんだよ」
ただ笑って照れ隠しをするしかなかった自分が酷く幼く思えた。無論、昔馴なじみ特有の冗談なのは分かっていた。
「久しぶりね。元気だった? 東京の大学に行ったんだっけ? 九角君、何だかんだで昔から頭良かったもんね」
そう語る実山の姿は、抑え気味のフォーマルウェアを着ている為か、旅行客の姿が目立つ駅では浮いて見える。
「一浪しての入学だったから威張れたもんじゃないよ。おまけに今は就職浪人という名のフリーターで、病院の事務当直とパソコン修理のアルバイトで日銭稼ぎしてる状態だよ」
それなりに言い分はある。しかし、ひとことで言えば“碌な就職活動もしてこなかった報い”というヤツなのだろう。
「九角君、変な所に拘りがあるからなぁ」
懐かしむように語る実山。
「オレはそんなに頑な人間じゃないよ。持久力も無いし、拘りにも欠ける方さ」
やたらに大きな声で騒ぎ立てている中国人の前を横切り、自動改札に左手でsuikaを翳し構内を2人並んで歩いていく。
「そんな持久力も拘りも無い九角君が帰って来たと言う事は、いよいよ家業を継ぐ気になったのかな?」
世間話ついで。
そんな小慣れた彼女の聞き方にオレが故郷を離れていた歳月を感じた。
「跡継ぎは姉貴だよ。それにオレにはみやげ屋兼酒屋なんて似合わないだろ?」
改装工事をしたのだろう。ふと見上げた駅構内の天井の高さは以前の倍以上になっている。
「家業なんて似合うに合わないでするモノじゃないわ」
諭すように実山は笑っていた。
「そういうモンかな?」
「そういうものよ・・・・・・どう? 久しぶりだし、ウチに寄ってコーヒーでも飲んでかない? 奢るわよ」
親父の事がなければ、喜んで向かっていたであろう、この誘い。
「嬉しいお誘いだけど、久しぶりの帰郷なんで、今日のところは、まず実家に顔出しておくよ」
「そっか、じゃあ『隠れ処』で待つとしようかな」
必要以上に踏み込まない会話。
この街の多くは接客業を営む家で生まれ育つ。その為か、オレのような例外を除き、殆どの人間が会話の距離感をとる事に長けている。
「お盆過ぎまではいるつもりだから、隠れ処には近いうちに顔を出すよ」
「アラ、嬉しい事を言ってくれるじゃない。じゃあ、特別サービスにイイ事教えてあげる。ウチに来るなら夕方の5時くらいがオススメよ・・・・・・じゃあ、私こっちだから、今日は晴天勁風の日、ウチも頑張って稼がないと!」
実山は意味ありげな笑みを浮かべ、挨拶代わりなのか俺の肩をひとつ叩くと『隠れ処』のある駅西側裏路地の方へと消えていった。
晴天勁風。
この温泉街ではかき入れ時を表す言葉。
オレにとっても大きな意味を持つ言葉。
そんな、かき入れ時にも関らず、駅前を行きかう人の流れは昔より疎らに見えた。
“ソコソコの観光地”地元の人間は皆、口を揃えてそう評す。
「さてと・・・・・・オレも行かないとな」
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