庶民が王子様

まめ

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王子と教育係になるまでには

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「悪いね。エーリッヒ=マリア。この子の教育係には、君しか適任者がいない」

 敬愛する大公が困った表情でこちらを見た。彼の足元には小さな子供がおり、随分と怯えた様子で父親である彼を盾にするようにして隠れていた。
 子供の名はアヒム・大智たいち・ダヴィド・マジャール。マジャール大公国の大公と日本人の女との間に出来た庶子だ。母親が急死した為、仕方なく大公が引き取ったということになっている。

「父さん。ここどこ。大智、日本に帰りたい」

 庶子が大公を見上げ、か細い声で嘆願する様子は、彼らの周囲に侍る大人の同情を誘う。中には声を殺し、涙を流す者もいた。大公が庶子を抱き上げ強く抱きしめれば、耐えきれないとばかりに嗚咽が聞こえてくる。

「大智。これからは、ここで暮らすんだよ。父さんとずっと一緒にいたいと言っていたじゃないか。日本に帰るだなんて悲しいことは言わないでおくれ」

「やだ。大智は日本で父さんと住みたいの」

 我儘を言う庶子を、大公は目に入れても痛くないほどに溺愛している。年に三度も大公は日本へお忍びで出向いていた。それもこれも全て、庶子とその母親に会う為に。
 仕方なく引き取ったということにしているのは、政略結婚で連れ添った大公妃に配慮した結果だった。庶子とはいえ男子という性別は、大公妃にとって面白いものではない。けれどもマジャール大公国としては、大公の直系男子が日本で何の保護もされず、野放しになることは許されない。その血を悪用されては困るからだ。血統の保護を名目に、仕方なく引き取ったということにしている庶子なので、大智には大公子という身分はなく、継承権も持っていない。あるのは大公のもう一つの身分であるジュタローム公爵の子というものだ。だから大智は大公子ではなく、公子と呼ばれることになる。

「そんなことを言わないで大智。これからは父さんが、この国で一緒にいるから。寝る前に絵本を読んで、大智と一緒に寝て。それから風呂も一緒に入ろう」

 約束破ったらやだからね。そう言う健気な庶子の様子に、従僕が漏らす嗚咽は大きくなるばかりだ。ただ一人。教育係を任されたエーリッヒ=マリア・ムートンだけは、冷めた目でそれを見ていた。
 十七の自分がなぜ教育係などしなければならないのか。頭では理由は理解している。立派な教育係をつけてしまえば、大公妃の怒りを誘うからだ。その為、教育係は若輩でなくてはならない。更に大公妃の息がかかっておらず、大公に忠実に仕える貴族の出身が望ましい。それでいて日本語を理解し、それなりに公子に教育ができる者となれば、人選がかなり限られてくるのも分かっている。
 けれども頭では理解しているとはいえ、彼の心は納得していない。いくら敬愛する大公の子とはいえ、この生き物の面倒を毎日見なくてはならないのかと思うだけで反吐が出そうになる。
 ああ、憂鬱だ。エーリッヒ=マリアは、ため息を吐いた。

「父さん、今日、帰る来るない」

 庶子が公子となってから、はや三か月。大公は多忙で休みなど滅多になく、大公が公子にした約束は、ほとんど守られることはなかった。
 幼い公子は拙いドイツ語で懸命に、父親が帰って来ないのかということをエーリッヒ=マリアに毎日たずねていた。

「陛下は大変多忙でいらっしゃいます。昨日より他国へ表敬訪問に向かわれましたので、お帰りは一週間先になるかと。それよりも殿下。昨晩も申し上げましたが、言葉を間違っておられます。正しくはお父様は今日も帰って来ないのかです。公用語であるドイツ語が堪能になられるよう、一刻も早く努力なさいませ」

 それに対しエーリッヒ=マリアの苛立ちは募るばかりだった。なぜ毎日毎日同じことを言わねばならないのか。一度でどうして覚えることが出来ないのか。
 この公子のせいでエーリッヒ=マリアは、まともに学校に通うことが出来なくなってしまった。将来は実家の侯爵家が営む事業に携わる予定だったというのに、このままではそれすらも出来なくなってしまう。早く立派な王族になってもらわねば困るのだ。

「さあ、早く朝食をお召し上がりください」

 エーリッヒ=マリアはテーブルに並べられた朝食を食べるよう公子に促したが、公子は子供の拳ほどの大きさの甘いプレッツェルを一つと、スクランブルエッグを一口に、オレンジジュースを二口飲むと、もういらないと言い残し席を立った。初めの頃は美味しいと食べていたはずのソーセージは、今では見向きもしない。
 ここが王宮でなければ、エーリッヒ=マリアは、いったい何が気に食わないんだと声の限り叫んだだろう。庶民だった公子に配慮し、食材が最高級という以外には、ごく一般的な食事を出しているというのに、公子の食は日々細くなっていくばかりだ。ではなにが食べたいのかとこちらから問えば、日本食が食べたいというので一度用意をしたものの、一口食べてもういらないと言い出す。もう公子がなにをしたいのか、エーリッヒ=マリアには分からなくなっていた。
 堪らなくなった彼は、友人に愚痴を聞いてもらおうと思い携帯電話を手にした。

「お前な。そんな小さな子を気遣ってやらないでどうする」

 公子の従兄弟であり、エーリッヒ=マリアの友人でもある、ルドヴィコ・フランツ・グローテヴォールは友人のあまりの言い草に顔をしかめた。

「いや、俺は随分と気遣っていると思うが」

 公子の希望通りに庶民の一般的な食事に日本食まで出した。マナーに言語に勉強に、それに侍従や侍女がつくのも嫌だと言うから、生活の世話だってしてやっている。

「――あのな。そのくらいの歳の子が、急に母親を亡くして父親も多忙で滅多に甘えられないなんて、可哀想だと思わないのか」

「まあ可哀想だとは思うが、そもそも王族なんて元々親の手元で育たないんだから、別に構わないだろう」

 親の手元で愛情豊かに育つというのは、この国の王族では難しい。特に今代の大公夫婦は政略結婚なので、元々仲が良くないのだから、どうやっても愛情豊かに育つわけがない。

「お前は頭は良いが、つくづく人間の情緒においては馬鹿だな」

 あまりの言い草に腹が立ったエーリッヒ=マリアは、思わず言い返そうとしたがルドヴィコがそれよりも早く言葉を発した。

「いいか。あいつは日本で一般市民として暮らしていたんだ。母親の手元で十分に愛されていただろうし、年に三回しか会えない父親も、ただの多忙な一般人だと思っていたんだぞ。そんな奴がいきなり王室に放り込まれて馴染むとでも思うのか。頼りの父親はいないし、少しでも部屋を出れば怖い大公妃の息がかかった人間に意地悪をされる。半分だけ血のつながった兄は、その場にいれば嫌々でも庇ってくれるものの、原因の根本をどうにかしようだなんて思ってもいない。見て見ぬふりだ。おまけに辛辣な教育係に毎日毎日叱られてばかり。これじゃあドイツ語だって辛くて覚えたくもない。そんな状態で、どうやって食欲旺盛で元気な子供でいられるというんだ。もしそんな子供がいれば、俺はこの世の終わりだと思うがね」

 確かにそうかもしれないが、愛情なんてなくたって子供は育つ。自分がいい例だ。それに大公世子だって豊かな愛情を受けて育ったとは言い難いが、それでも立派な世継ぎとして育っている。

「いいからお前は、あの子に優しくしてやれ。愛情に飢えている。注げば注ぐだけ、お前に答えてくれるようになるはずだ。それからどうせ日本食は、あの城下町で流行ってるアジア人が経営している店に作らせたんだろう。あそこはだめだ。あんなの日本食じゃない。作り方を調べて自分で作ってやれ。とにかく教育云々の前に、お前はあの子を健やかに育てなきゃならんのだからな。いいか、これは命令だ」

 なぜ自分が、そこまでしてやらなければならないのかと、エーリッヒ=マリアは不満に思ったが、彼が教育係である限り、公子を健やかに育てなければならないのは尤もであるし、大公の甥であるルドヴィコに命令だと言われてしまっては従うしかなかった。
 それから数日後の朝。エーリッヒ=マリアはルドヴィコに命令された通り、自分で作った朝食を公子に差し出した。ネット通販で手に入れた納豆とかいう腐った豆に、作り方を調べた玉子焼きと豆腐のみそ汁に白米。それと冷や奴という純粋な日本食だ。それらを目にした公子は、これまでに見たことがないくらいに目を輝かせた。

「殿下のお口には合わないかもしれませんが、私が作りました。どうぞお召し上がりください」

 公子は本当に食べていいのかと悩んだのか、朝食とエーリッヒ=マリアを何度も交互に見たあと、恐るおそるみそ汁を口に含んだ。そうしてすぐに公子は箸を置くと項垂れ、細かく震えだした。

「殿下。やはり私が作ったものは、お口に合わなかったのですね。無理をして召し上がらなくても」

 また駄目だったかとエーリッヒ=マリアは落胆したが、公子は違うとでも言うように必死に首を左右に振った。よくよく見れば公子の目からは涙がほろほろとこぼれている。

「――殿下」

 いよいよ涙を抑えらなくなった公子は、エーリッヒ=マリアには見られたくないのか、顔を伏せ椅子に座ったまま膝を抱えて丸まった。これまでは行儀の悪いことをすれば、必ず叱り飛ばしていたはずだというのに、なぜか今はそんな気分になれなかった。

「殿下。美味しくありませんでしたか」

 エーリッヒ=マリアは公子の傍に寄るとしゃがみ、彼の顔を覗き込むようにして問いかけた。すると公子は、また必死に首を左右に振った。

「では、美味しかったのですか」

 今度は小さく首を縦に振った。
 なんだ。こんなことでよかったのか。
 この瞬間にエーリッヒ=マリアは、これまで抱いていた苛立ちや、知らず知らずのうちに背負っていた教育係としての重責から解放されたように感じた。

「――殿下。冷めないうちに朝食をお召し上がりください」

「ム、ムートン。日本のご飯食べたいって、大智、い、言っても、怒らない」

 公子はエーリッヒ=マリアの顔色をうかがい、詰まりながらも一生懸命に日本語で言葉を発した。

「ええ、怒りませんとも。これからは、私が毎日のように殿下に作って差し上げます」

 愚かなエーリッヒ=マリアは、この時ようやく自分が、こんなにも公子を追いつめていたということに気付き己を恥じた。
 公子が初めてマジャール大公国で口にした日本食は、水加減が分からずに柔らかくなってしまった白米と、適当に買ってしまったので質のよくない納豆に、出汁の入っていない醤油だけの火が通り過ぎた玉子焼き。それに味の薄いみそ汁と唯一まともな冷や奴という粗末なものだったが、それでも公子は満面の笑みで美味しいと喜んで完食した。
 この日を切っ掛けにして、エーリッヒ=マリアは徐々に公子を溺愛し始めた。

「あれ、この納豆すっごい美味しいね。ムートン」

 あれから八年が経ち、今日も公子はエーリッヒ=マリアが作った朝食を美味しそうに食べていた。最初は嫌々出していた納豆だったが、今では率先してエーリッヒ=マリアが公子の口にする納豆を選んでいる。

「お分かりになりますか殿下。日本から新種の黒大豆を取り寄せ、私が作った納豆です」

 むしろ選ぶだけでは飽き足らず、自分で作ってしまうまでに公子のことを溺愛する有様だ。

「なんか年々、ムートンすごくなってくね。今じゃ俺の為に味噌と醤油まで仕込んでくれてるもんね」

 正確に言えばエーリッヒ=マリアが仕込んでいるのではなく、彼が運営する採算度外視の味噌と醤油、その他の大豆製品を扱う食品会社が作っている。しかし近頃は世界的な日本食ブームのおかげか、ぼちぼちと採算がとれるようになりつつあるらしいのだが。ちなみに公子のお墨付きをもらったこの納豆も、近々に商品化の予定がある。

「ちなみに納豆のたれには、本枯節でとった出汁を使用しております。販売するならば、そうですね。材料費に輸入関税と人件費、その他諸々を含めまして一つ五マルクと七十ペ二。日本円にすると約六百円といったところでしょうか」

 たった五十グラムの納豆が六百円だって、と公子は叫び声をあげた。まあ、そうなることはエーリッヒ=マリアの予想通りなので、これといってどうということはない。彼は無駄に八年を公子と共に過ごしたわけではない。公子の扱い方などお手の物だ。

「ああ、殿下が召し上がって下さらないのであれば、材料は全て廃棄になります。味噌も醤油も豆腐も、それに厚揚げやその他も召し上がって下さらないとなると、事業をたたまなくてはなりませんね。これは大変なことです。このままでは従業員たちが路頭に迷ってしまいますが。さて、困りました。どうしましょうか」

 わざとらしくエーリッヒ=マリアが困った仕草をすると、慌てた公子がすごく美味しいから毎日食べたいと言い、もりもりと納豆ご飯を食べ始め、お代わりまで要求した。ちなみに米はいつぞやの喧嘩の原因にもなった、あの一キロ六千円の最高級米だ。
 優しい公子は従業員の行く末を考え、毎日食べると決めてくれたようだ。その公子のあまりの扱い易さにエーリッヒ=マリアの口角は自然と上がった。
 ただ一つ、エーリッヒ=マリアは後悔をしていることがある。それは。

「馬鹿かお前は。ムートンは名前じゃなくて家名だと、幼いころに教えなかったのを後悔してるって。知るかそんなこと」

 苛立ちを抑えもせず、ルドヴィコは古くからの友人に対し、電話越しに声を荒らげた。彼は公務で出かけていた遠方の国から帰ったばかりで、機内ではあまり眠ることが出来ず、さあこれから寝ようと思っていたところだったというのに、そんなくだらないことで電話をされては堪ったものではない。

「今さらムートン以外で呼ぶのは違和感があるからって、エーリッヒ=マリアと呼んでもらえないって。それこそ本当に知るか。自分でなんとかしろ。俺にそんなつまらないことで電話してくるな。それよりもお前。この間のアーダルベルトの代行で、公務をした件の礼がまだなんですがね。おたくのお坊ちゃんばかりかまってないで、最愛の坊ちゃんと一緒にさっさと詫びの品の一つでも持って来い」

 じゃあなと言ってルドヴィコは、携帯電話の画面に浮かぶ通話ボタンを荒々しく押すとベッドに放り投げた。
 確かに愛してやれとは言ったが、一般常識の範囲で親の代わりに愛してやれと言ったんだ。誰がここまで溺愛しろと言った。
 ルドヴィコはベッドに潜りながら、黒か白しかない友人を心中で叱り飛ばした。それからあのように伝えたのだから、数日中に彼は溺愛する公子を連れ、こちらに手土産を持って来るだろうと予測し、少しばかり楽しみだなと考えると目をつむった。その詫びの品が最高級の黒豆納豆だということをまだ知らないルドヴィコは、数日後に再び怒声をあげることになるのだが、今の彼はようやく眠れると安堵の息を幸せそうに吐いたのだった。
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